モカとティータイム

生まれて2ヶ月で我が家に迎え入れたモカの成長記録と
スローライフな日常を楽しく綴って行きたいと思います。

切手にフォーカス(4)

2023-04-26 22:40:00 | 日記
まだ若かりし頃、趣味で
切手収集をしていた時期があります

数ヶ月前に、書棚を整理していたら
数冊の切手アルバムが出てきたので
最近又、見返しているのですが

その中に
「20世紀デザイン切手シリーズ」
がありました

平成11年(1999年)8月から
平成12年(2000年)12月かけて
第1集〜第17集が発行されていて

我が国の20世紀を象徴し
21世紀へ向けて夢と希望のある題材を
各種ジャンルに求めてデザインした
懐かしく、楽しい切手シリーズです


全集収められるアルバムも
発行されました


不定期になりますが、これから
第1集から第17集まで、時々
順次紹介していきたいと思っています

今回は、第1集の掲載です

少し長くなりますので
興味のない方はスルーしてください

第1集は1901年(明治34年)〜
1909年(明治42年)までの題材8種類を
1シート10枚構成で発行されました


(説明は、同時添付された「解説文」から)



①「みだれ髪」与謝野晶子

  初版本表紙と肖像(晩年のもの)



「みだれ髪」は昌子(22歳の時)の
最初の歌集
1901年(明治34年)に鳳 昌子の名で
刊行され、若者達の大きな支持を得た

装幀・挿絵は藤島 武二(画家)

②常設映画館「電気館」開業

「電気館」外観と創業10周年記念
チラシのデザイン(部分)
(外観の写真は、同チラシに
掲載されたもので、大正2年頃のもの)


「電気館」は浅草六区に
電気応用の器具を見せていた古屋を改築し
1903年(明治36年)10月、日本最初の
活動写真の常設館として開業

初めは粗末な建物の見せ物小屋でしかなく
観客は土間に立ったまま映画を見たが
以後、常設の映画館は急成長していく

最初の上映は着色映画
「ロンドンの大火」だった



③チンチン電車

チンチン電車と東京・銀座風景
(写真は、明治39年頃の銀座


1903年(明治36年)8月
東京馬車鉄道から発展した東京電車鉄道が
品川ー新橋間で運行を開始した
東京における路面電車営業の初めである

ついで同年9月には東京市街鉄道が
数寄屋橋ー神田橋間、
翌1904年(明治37年)12月
東京電気鉄道が土橋ーお茶の水間を
開業した

"チンチン"という特徴ある発射の合図
から、「チンチン電車」の愛称で
親しまれ、名物となった

3社は1906年(明治39年)に合併し
東京鉄道株式会社となった

因みに我が国最初の営業用電車開業は
京都で、1895年(明治28年)である


④川上音二郎・貞奴

錦絵「川上音二郎肖像」(部分)
錦絵「貞奴の道成寺」(部分)


落語家浮世亭○○の名で
「オッペケペー節」を売り物にした
川上音二郎は、俳優として
妻の貞奴と共に1899年(明治32年)に
欧米巡業し、大成功を収めた

1901年(明治34年)1月帰国

1903年(明治36年)には、明治座で
「オセロ」、本郷座で「ハムレット」
等の大型公演を成功させた

1908年(明治41年)帝国女優養成所を
開いて女優養成を始め、 
日本の近代劇運動の先駆的役割を
果たした


⑤⑥日露戦争

⑤⑥とも錦絵「日露戦争大日本赤十字
野戦病院負傷者救療の図」(部分)



1904年(明治37年)2月
日本がロシアに宣戦布告

奉天の戦い、日本海海戦等、戦局は
日本に有利に展開したが
日本の戦力は限界に達し
アメリカのルーズベルト大統領が
講和を斡旋し

1905年(明治38年)9月
日露講和条約(ポーツマス条約)が
締結された




⑦「吾輩は猫である」夏目漱石

初版本表紙の題字と扉絵(部分)


⑧「坊ちゃん」夏目漱石

中短編集「鶉籠」の表紙絵(部分)と題字


1905年(明治38年)1月に発売された雑誌
「ホトトギス」に、夏目漱石の処女作
「吾輩は猫である」が発表され、以後
続編、続々編、等々、1906年(明治39年)
8月まで11回にわたり全編が掲載され
1905年10月から1907年5月まで
3回に分けて単行本が刊行された。

「吾輩は猫である」発表を機に
漱石は本格的な作家活動に入り
1906年(明治39年)4月には「坊ちゃん」
を「ホトトギス」に
同年9月には「草枕」を雑誌「新小説」
に発表し、これらを収めた中短編集
「鶉籠(うずらかご)」を1907年に
刊行した



⑨ハイカラ

「時好雙(双)六」のハイカラが
描かれた部分

三越呉服店(現在の三越)が発行した
月刊誌「時好」の1906年(明治39年)
1月1日号の付録


⑩両国国技館落成

錦絵「常陸山と梅ケ谷」(部分)と
当時の両国国技館外観
(錦絵は玉波画 明治34年 日本相撲協会蔵)
(外観写真は当時の着色絵葉書から)


1909年(明治44年)6月2日に
東京・両国に「国技館」が開館し
板垣退助を委員長にした開館式が
盛大に行われた。

「国技館」という名称は
完成案内状に書かれた
"相撲は日本の国技なり"の言葉から
名付けられた。

開館式では、当時の東西両横綱
常陸山と梅ケ谷の土俵入りが行われた。

☆☆☆☆☆☆☆☆

以上が20世紀デザイン切手 
第1集で発行された切手の解説でした

第2集の概要予告です

明治から大正へ
1910年(明治43年)〜1913年(大正2年)
の題材です
お楽しみに!


☆☆☆☆☆☆☆☆☆

一日中雨で、気温も上がらず
肌寒いモカ地方でした

モカも
レインコートを着用しての散歩


少し小やみになった頃を
見計らっての散歩でしたが


雨はあまり好きではないモカは
最短コースを選択して


最低限の用事を済ましたら
さっさと帰路に着きます


そして
”犬は炬燵で丸くなる"
を決め込んで
暖をとっていました


あしたは、お天気も
回復する予報ですが
雨が降り続いていたので
菜園のコンディションが心配です

これからもう少し
気温が下がるようなので
皆様も暖かくしてお休みください

それでは、また





最新の画像もっと見る