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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【私の青春時代:病院病理医1】難波先生より

2018-07-06 14:50:38 | 難波紘二先生
【私の青春時代:病院病理医1】
 凡庸な(つまり臨床追従型の)病理医はダメだが、私のような「お助けマン」の病理医は銭金では動かない。そういう病理医もいるということを知ってほしい。

 元もと呉共済病院で悪性リンパ腫と白血病の無料コンサルテーションを始めたのも、日本の全国の病理診断基準がまちまちで、「国際レベル」に到達していない、という認識があったからだ。依頼は 北は北海道から 南は山口県まであった。(九州には九大病理出身の菊池昌弘さん・故人が福岡大学医学部にいた。ただ鹿児島大学内科内科からの標本は 私がかなり多く診断した。
)
 大阪大病院放射線科講師の真崎紀江さんが、「そんなに多いのなら開業したらどうですか?」と勧めてくれたことがあったが、大阪人と違い私は働くことが生き甲斐なのだ。

 これを始めたのは渡米前と二年間の留学後、病院に復職してからだった。
 留学中に米国立がんセンター(NCI)を探検したことと 自動車で米国一周旅行を家族とともに行って、アメリカ各地を訪問したのが役立った。

 私のように日本から組織化学の技術持って行き、私の技師(ハップ・ソーバン)にそれを教え、論文の共著者(普通は「謝辞」に留まる)に名を連ねさせ、最後は「GS11」という技師最高の給与レベルまで持っていった、研究者はマレだろう。彼は泣いて歓び、明日帰国するという日には地下室で泣いてないて、とうとう顔を見せなかった。
 退官後、彼は私から学んだ技術を生かして、「凍結切片などを酵素組織化学と免疫染色で染める」という会社を起こして、NCIの下請けとなった。

 私は薬理学も知っているので、主な薬の薬理作用は承知している。私の病理学の師匠・飯島宗一先生などは 代表的な胃薬の処方をスラスラと口にできるほどの知識をお持ちだった。生半可な知識を披露すると すぐにペチャンコにやり込められたものだ。

一般市民が、ことに高齢者がもっと基礎的な医学知識を身につけ、自分の医療費を削減しないと、日本の福祉医療はまもなく破綻するだろうと思う。医者通いに費やしている膨大な時間のムダを思うと、ただひたすら「長寿大国」を喜んでもおれないと思う。

 私は病院勤務時代に、研究で夜遅くまで働いたが、残業代を一切請求しなかったので、事務長から「難波先生は国手だ」と言われたことがある。
 その代わり、洋雑誌や英語の本や試薬、研究機材など、仕事に必要なものはすべて買ってもらった。大学の機材や洋雑誌よりも、数も品質も優れていた。
 何しろ岡山大学から走査電顕を使いに、研究者が来たくらいだ。岡山大(その前身校)卒の院長も誇らしく思っていた。初代院長は九州帝大卒で、二代目がこの岡山医専卒だった。

 国家公務員共済組合の病院だから、系列の「虎ノ門病院」から無料の文献コピーサービスを受けることもできた。
 研究環境としても大変恵まれていた。年間の出張旅費が六十万円くらいかかったが、それはすべて病院の負担だった。

  大学教授になったら、月給が増えるかと思ったが、実際には年俸が半減した。なぜかというとこの病院には「ドクターボーナス」というのがあり、年4回春・夏・秋・冬に月給よりもやや多い額が医師だけに支給されたからだ。
 つまり年12回の給与と、夏冬の普通のボーナスに4回のドクターボーナスを加えると、年収が大学教授の二倍あったというわけだ。
 (もし当時、病理診断が医行為とされていたら、当然、医療職としての年俸になるから、もっと増えていたと思う。医学博士の学位を頂いたら、月給が1号奉上がった。)

 給与面でも恵まれていたため、病理医と内科は全国から志願してくる、よい医師が引きも切らなかった。

 京大の内科や病理から、研修に臨床病理科に医師が来たこともある。
 年取ると古い昔が懐かしくなる…



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