【ロンドンからの手紙】
ロンドン在住の相澤和江さんから、相変わらず間欠的に手紙が来る。どういう人か、どうやって「鹿鳴荘便り」を読んでおられるのかは、依然としてわからない。
4/18付拙メルマガについてご意見を頂いたので、簡単にお答えしたい。
★映画「終着駅」の原題について、
<「終着駅(Statione Termini)」はイタリア語ではStazione Terminiで、これは単純なミス。>
おっしゃるとおりで、英語の駅Stationは、イタリア語ではStazione(スタチオーネ)、フランス語ではStation(スタション)、ドイツ語ではStation(スタチオーン)、スペイン語ではEstacion(エスタシォン)となります。
ただこれを米国公開(コロンビア社配給)する場合に、映画原題として「イタリア語綴り」
だとアメリカの観客は<スタジオーン・ターミニ(ないしターミナイ)>と発音するので、意味が通じないはず。よってスペルをStatione Termininiに変えたはず、と私が思い込みついそう書きました。がWIKIでオリジナルポスターを見つけ、イタリアでは「STAZIONE TERMINI」という題であったことを確認しました。英語タイトルは未確認です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Terminal_Station_(film)#/media/File:Terminal_Station_poster.jpg
日本上映の際の言語は英語だったと記憶します。この原タイトルが「TERMINAL STATION」だったか、「STAZIONE TERMINI」だったかは記憶にありません。間違っていたらお詫びして訂正いたします。
★ ★ カタルとカタルシスの語源について、
「カタルシス」という言葉の語源がギリシア語の「カタル」に由来するということについて、以下の意見があった。
<カタロスKatharosは清潔な、純粋な、完全な、を意味する形容詞で、動詞ではない。「洗う」という動詞はKatariroです。
カタロスとカタルの語源が一緒であるかのような記載だが、英語ではKatharosとKatarrhであり、両者の語源は異なると思われる。>
私が参照したのは「Dorland Medical Dictionary」と「Collins English=Greek Dictionary」です。ドーランドにはカタル(Catarrh)は「ギリシア語のカタレレイン(Katarrhein:流れる、流す)という動詞が、ラテン語のカタルス(catarrhus)に変わり、ついで英語のカタル(catarrh)に変わったと説明してあります。
コリンズの辞書には、Katharizo(磨く、きれいにする)という動詞やKatharios(きれいな、清潔な、純粋な)という形容詞やkatharsis(純化、カタルシス、検疫)という名詞が載っています。
なるほど、スペルを見れば「流す、流れる」のカタレインにはKataというスペルが用いられており、「浄化」を意味するKatharにはtではなくて、thが用いられている。
だがこれがカタルとカタルシスの語源が異なることの、どれだけの証拠になるだろうか?
元もと、ギリシア語の正書法はアテネが最初に採用したので、イオニア地方、アッチカ(アテネを含む)地方、ドーリア地方(スパルタを含む)といろいろな方言や書き方がある。T音とTh音の書き方が異なっても何の不思議もない。
★ ★★アリストテレスの「カタルシス」について、
<アリストテレスは、悲劇は「哀れみと恐怖により」感情のカタルシスをもたらすと述べており(「詩学」からの引用あり)、先生の書かれた「涙を流して感動する」というのとは、ちがう。>
アリストテレスの時代には小説がなく、「喜劇」と「悲劇」しかなかった。それを2500年後の現代に当てはめるのが無理だと思う。「カタルシス」という用語は、少なくとも現代日本語では私が述べたような意味で使用されている。
私の論点は「カタル」が「洗い流す」という意味であり、涙もカタルの一種で、泣いた後は「カタルシス」という状態になるということにあった。論旨の把握がないまま、重箱の隅をつつくような議論をされては不愉快だ。
相澤さんが古典ギリシア語学者であることは、これでまず判明したが、ラテン語の勉強が不十分だな。古典ギリシア語がそのまま現代に伝わっているのは、医学用語だけ。後は、たいていラテン語に変容した後、現代ヨーロッパ言語に受け継がれている。
昔イタリア・ミラノのホテルに3週間ほど仕事で滞在した時、地下のバーにイタリア人のマスターとギリシア人のバーテンがいて、そのギリシア人の青年が、「医学用語だけはほとんどすべて分かる。なぜならほとんどがギリシア語だから。」と自慢するのを聞いて、「なるほど…」と感心した思い出がある。
ジュゼッペというイタリア人のマスターの方は「息子がヘルニアになったが…」と相談を持ちかけてきたので、「ヘルニア」の意味から始めて、「鼠蹊ヘルニア」の発生原因を説明し、「いつ手術すべきか」まで教えてやったら感激して、最後の晩は、名残を惜しんで、ミラノの夜の町を心ゆくまで案内してくれた。
ロンドン在住の相澤和江さんから、相変わらず間欠的に手紙が来る。どういう人か、どうやって「鹿鳴荘便り」を読んでおられるのかは、依然としてわからない。
4/18付拙メルマガについてご意見を頂いたので、簡単にお答えしたい。
★映画「終着駅」の原題について、
<「終着駅(Statione Termini)」はイタリア語ではStazione Terminiで、これは単純なミス。>
おっしゃるとおりで、英語の駅Stationは、イタリア語ではStazione(スタチオーネ)、フランス語ではStation(スタション)、ドイツ語ではStation(スタチオーン)、スペイン語ではEstacion(エスタシォン)となります。
ただこれを米国公開(コロンビア社配給)する場合に、映画原題として「イタリア語綴り」
だとアメリカの観客は<スタジオーン・ターミニ(ないしターミナイ)>と発音するので、意味が通じないはず。よってスペルをStatione Termininiに変えたはず、と私が思い込みついそう書きました。がWIKIでオリジナルポスターを見つけ、イタリアでは「STAZIONE TERMINI」という題であったことを確認しました。英語タイトルは未確認です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Terminal_Station_(film)#/media/File:Terminal_Station_poster.jpg
日本上映の際の言語は英語だったと記憶します。この原タイトルが「TERMINAL STATION」だったか、「STAZIONE TERMINI」だったかは記憶にありません。間違っていたらお詫びして訂正いたします。
★ ★ カタルとカタルシスの語源について、
「カタルシス」という言葉の語源がギリシア語の「カタル」に由来するということについて、以下の意見があった。
<カタロスKatharosは清潔な、純粋な、完全な、を意味する形容詞で、動詞ではない。「洗う」という動詞はKatariroです。
カタロスとカタルの語源が一緒であるかのような記載だが、英語ではKatharosとKatarrhであり、両者の語源は異なると思われる。>
私が参照したのは「Dorland Medical Dictionary」と「Collins English=Greek Dictionary」です。ドーランドにはカタル(Catarrh)は「ギリシア語のカタレレイン(Katarrhein:流れる、流す)という動詞が、ラテン語のカタルス(catarrhus)に変わり、ついで英語のカタル(catarrh)に変わったと説明してあります。
コリンズの辞書には、Katharizo(磨く、きれいにする)という動詞やKatharios(きれいな、清潔な、純粋な)という形容詞やkatharsis(純化、カタルシス、検疫)という名詞が載っています。
なるほど、スペルを見れば「流す、流れる」のカタレインにはKataというスペルが用いられており、「浄化」を意味するKatharにはtではなくて、thが用いられている。
だがこれがカタルとカタルシスの語源が異なることの、どれだけの証拠になるだろうか?
元もと、ギリシア語の正書法はアテネが最初に採用したので、イオニア地方、アッチカ(アテネを含む)地方、ドーリア地方(スパルタを含む)といろいろな方言や書き方がある。T音とTh音の書き方が異なっても何の不思議もない。
★ ★★アリストテレスの「カタルシス」について、
<アリストテレスは、悲劇は「哀れみと恐怖により」感情のカタルシスをもたらすと述べており(「詩学」からの引用あり)、先生の書かれた「涙を流して感動する」というのとは、ちがう。>
アリストテレスの時代には小説がなく、「喜劇」と「悲劇」しかなかった。それを2500年後の現代に当てはめるのが無理だと思う。「カタルシス」という用語は、少なくとも現代日本語では私が述べたような意味で使用されている。
私の論点は「カタル」が「洗い流す」という意味であり、涙もカタルの一種で、泣いた後は「カタルシス」という状態になるということにあった。論旨の把握がないまま、重箱の隅をつつくような議論をされては不愉快だ。
相澤さんが古典ギリシア語学者であることは、これでまず判明したが、ラテン語の勉強が不十分だな。古典ギリシア語がそのまま現代に伝わっているのは、医学用語だけ。後は、たいていラテン語に変容した後、現代ヨーロッパ言語に受け継がれている。
昔イタリア・ミラノのホテルに3週間ほど仕事で滞在した時、地下のバーにイタリア人のマスターとギリシア人のバーテンがいて、そのギリシア人の青年が、「医学用語だけはほとんどすべて分かる。なぜならほとんどがギリシア語だから。」と自慢するのを聞いて、「なるほど…」と感心した思い出がある。
ジュゼッペというイタリア人のマスターの方は「息子がヘルニアになったが…」と相談を持ちかけてきたので、「ヘルニア」の意味から始めて、「鼠蹊ヘルニア」の発生原因を説明し、「いつ手術すべきか」まで教えてやったら感激して、最後の晩は、名残を惜しんで、ミラノの夜の町を心ゆくまで案内してくれた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます