ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【リーボウ日記】難波先生より

2013-07-04 12:55:35 | 難波紘二先生
【リーボウ日記】アヴェリル・A・リーボウ(Averill A. Liebow)博士は太平洋戦争中に米陸軍の病理学者として働き、日本の敗戦後、米軍医学調査団を指揮し、日本側の「都築調査団」と協力して広島市における「原爆の人体に与えた影響」を調査するために、1945年10月12日広島入りしている。(9月17,18日、広島市を強力な「枕崎台風」が襲い、大雨による大被害=県下の死者2000人以上=が出た。宮島の対岸にあった「大野陸軍病院」は山崩れにより、海に押し流され、ここを宿舎としていた「京都大学救援調査隊」は全滅している。これは柳田邦男『空白の天気図』に詳しい。鉄道が不通となり、広島の空港も爆弾と台風により使えず、米調査団の広島入りは予定より3週間遅れた。)


 日本隊と協力したリーボウ博士の調査は11月26日に終了し、カルテ、血液および病理標本、1500枚以上の写真、139体の病理解剖例のプロトコルと組織ブロックがワシントンの米軍病理研究所(AFIP)に送られた。(1970年代に日本に返還。広島大附属原爆医学研究所が所蔵。)リーボウ博士は1946年1月に米本土のAFIPに転属となり、その年の9月に6冊、1300ページからなる「広島・長における原子爆弾が人体に与えた影響」という報告書をまとめた。


 その後、彼は1946年イェール大学の病理学教授となり、さらに1968年にカリフォルニア大学サン・ディエゴ校の病理学教授を務め、1978年に死去している。
 昨夜の宴会で、このリーボウに「リーボウ日記」があり、当時の広島市での日米合同医学調査活動が詳しく書かれているという話題が出た。
 今朝は午前3時頃、胃の辺りの圧迫感と不快感で吐きそうになり目覚めた。急いで洗面所に行ってうつむいたら、三度はげしい嘔吐があり、8時間前に食ったものが未消化のまま出てきた。
 水様の下痢も二度ほどあった。「これは食中毒だな」と思い、今朝メールで同席者に問い合わせると、うち一人に同様の症状があった。但し発症は早く、自宅に帰り着いた9時半頃に嘔吐と下痢が起こっている。今朝はおかゆしか食べられなかったそうだ。


 もう一人のYさんは症状がなかったようで、昼過ぎにネットで「Dr.リーボウの日記要約版」をネットで見つけ、ファイルを送ってくれた。
 ヒロシマの惨害を描いたノンフィクションに、
 1)Richard Rhodes: The Making of The Atomic Bomb. (Simon & Schuster, 1986)
 2)Stephan Walker: Shockwave; Countdown to Hiroshima.(Harper & Perennial, 2005)
 (邦訳:横山啓明訳『カウントダウン・ヒロシマ』, 早川書房、2005)
 3)NHK出版編:ヒロシマはどう記録されたのかーNHK報道と中国新聞の原爆報道. (NHK出版, 2003)
 があるが、いずれも「リーボウ医学調査団」の活動に触れていない。3)の「原爆報道史」に至っては柳田邦男の『空白の天気図』からの引用が主で、巻末「年表」には「枕崎台風が広島を襲ったこと」が載っていない。


 柳田の作品名「空白の天気図」とは、原爆災害と敗戦により日本の天気予報能力が最低レベルにまで落ちていたことを意味している。そこを今日強烈な枕崎台風が襲ったので、被害は一層甚大なものになったことを強調しており、予報や報道の欠落が大きなテーマになっている。それを読み落とすようでは、報道検証になっていない。


 この台風による猛烈な豪雨のために死者多数が出たが、同時に、残留放射能を海に流してヒロシマの土地を浄化する効果があったことは疑えない。これは広島市が太田川デルタであり、東と西に切り立った山があり、放射能汚染地帯が実質的に三角形をしたデルタ地帯に限局していかたら、雨が押し流せたのであり、自然が「除染」してくれたのである。


 英語の本も、やはり医学的事項の説明は弱い、というか書き手に理解する能力がないようで、まして日本語の本は全然ダメである。
 「リーボウ日記」ははじめ1965年に「Yale Journal of Biology and Medicine」誌に掲載された。
 Yさんが見つけて送ってくれたのは、1983年に同誌が再掲載した「リーボウ日記」の圧縮版で、個人的な事項がカットされ、より学術的なものになっている。全文15ページほどで、さほどの分量はない。
 編集長のP.K.ボンディ博士が強調しているように、「全面核戦争が起こったら、医師、看護婦、医療施設、医薬品、救護用材料も全面的に破壊され、被害者を救護することすら不可能になる」ことが指摘され、IPPNW(核兵器に反対する医師の世界連盟)活動がさかんになった頃だ。
 これとの関連で「リーボウ日記」のもつ、客観性、人道的姿勢が評価され、再掲載になったものであろう。


 私も今日は食中毒で、体力的に消耗したので「一日遊んで暮らす」ことにし、「リーボウ日記」に眼を通した。
 結末のあたりに、 
「…われわれは原爆投下後の活動においてさえも、人類に対する罪の付属物なのであろうか?
 確かに無実の人々に対して、障害と死をもたらしたことは決して許されない悪行である。
 だが戦闘において手で殺すのさえ、「騎士道精神」に則っていても、やはり殺人である。
 罪は同じようなものなのだ。
 …
 だが、なぜ原子爆弾の爆発は、人が住んでいる都市の真上ではなく、近くでもよいとする意見が説得的なものにならなかったのであろうか?
 たとえ一つの都市を破壊することが<必要>であったとしても、どうやってもう一つの都市を壊滅させることを正当化できるであろうか? われわれが唯一望みえることは、戦略から導き出された決断と倫理に基づいた理性的考察があったということだけだ。
 …
 犯罪的なものであれ、有益なものであり、一度行為がなされたら、明らかに「実行の義務」すなわち、すぐにも時代遅れになり、退場してしまう武器の威力についてだけでなく、放射線が人体に与える性質とその程度について、計測を行う義務が生じる。


 これほど多くの人類が集団として放射線に曝され、それとともに生き、それを超えて生きなければならない、という事態はいまだかつて起きたことがない。
 この原子力は善のために飼い慣らすことができるかもしれないが、常に脅威を伴うであろう。


 この調査を行うに当たっては、われわれは単に盲目的に命令に服従するのではなく、自らの良心と部分的で不安定な調和を保つ必要があった。悲劇の中から機会が生まれたのであり、それを最良の方向に利用することは明らかに必然だった。
 …
 報告書の最終章を書き上げたが、書物はまだ未完であるという不安にさいなまれるーそれは振り払うことのできない記憶として持続している。それが物語る邪悪さが二度と立ち現れませんように! 」


 軍医だったリーボウ博士は慎重に言葉を選びながら、原爆投下が非人道的であったこと、二発も落とす必要はなかったこと、原子力の平和利用は危険と隣り合わせであること、二度と核兵器を使用してはならないことを訴えている。
 
 やはり医学者の観点を入れたノンフィクションが必要だなあ…
 「リーボウ日記」には、「プロメテウス・コンプレックス(Prometheus complex)」という言葉が出てくる。初見であり、意味がわからなかった。朝日の船橋洋一が『プロメテウスの罠』(学研, 2012/3)でプロメテウス神話に触れているが、英語での用例を調べると、
 1)プロメテウスに火をもらったおかげで、人間に知識志向が生まれ、絶えず知識を進歩させようと、個人も社会も目指すようになったこと、
 2)科学技術の発展により、重大な災害がもたらされるようになったこと、つまり科学の進歩を、批判的にとらえる心理状態、
の二義があるようだ。
 リーボウが1945年の日記ですでに「プロメテウス・コンプレックス」に言及しているのは驚きである。
 文脈からは2)の意味で使用されている。
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