ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【ランビキ】難波先生より

2013-12-25 12:42:20 | 難波紘二先生
【ランビキ】という言葉をはじめて目にしたのは、船頭重吉述、池田寛親筆記の「船頭(ふなおさ)日記」(筑摩書房、「世界ノンフィクション全集24」)を読んだ時のことだ。
 1813(文化10)年、尾張名古屋の商人小島屋庄右衛門の持船1200石積みの「督乗丸(とくじょうまる)」は、本来の船頭長右衛門が病気のため、知多半島の新城藩6000石の百姓出身の重吉が仮船頭になって、積荷を満載して江戸に向けて知多半島師崎(もろざき)の港を出港し、江戸で積荷を降ろし、12月に帰路についた。乗組員は総勢14名であった。


 ところがこの船は、御前崎沖で暴風に遭い、大波に舵を折られて漂流船となり、潮の流れに乗ってはじめ南に、ついで東に流され、1815年1月に中米沖で英国船「ホートン号」に救助されるまで、2年1ヶ月太平洋を漂流した。
 食料は米(五斗入り)6俵、積荷の豆700俵だけであった。水はほとんどない。漂流開始後、13日目に早くも水不足に陥った。


 この時、船頭重吉が蒸留装置「ランビキ」を工夫して製作していなかったら、全員が死んで幽霊船になっていただろう。ランビキのおかげで海水から真水を採ることができた。
 しかし、炒り豆しか食うものがないので、船員がつぎつぎと壊血病になり死んで行き、最後は重吉を入れて3人になる。ところが重吉がカツオを釣るルアーを作って、釣った生のカツオを丸ごとかぶりつくと、みるみる重症の壊血病が回復して行く。これは病気の記録としても貴重である。


 徳川幕府は鎖国政策を取り、大型船の建造ならびに海外貿易を禁じたので、遠洋航海術と壊血病予防法が発達しなかった。霊長類はヴィタミンC(アスコルビン酸)を生合成できないから、すぐに壊血病になる。これを防ぐにはレモンなど柑橘類を積み込んでおくか、生魚、生肉を摂取するのが有効であることは、「大航海時代」の航海者たちはすでに発見していた。(KJ.カーペンター「壊血病とビタミンCの歴史」, 北大図書刊行会, 1998)


 英国船に救助された3人は、やがてロシア領カムチャツカに降ろされ、ロシア船により択捉島に運ばれ松前藩の役人に引き渡された。
 ロシア船の船長「スレズニ」はウルップ島と択捉島の間が、ロシア=日本の境界だと重吉に説明している。「国後、択捉、歯舞諸島、色丹島」が「北方4島」である。1816年に江戸に着き、取り調べの後、1817(文化14)年4月、やっと故郷半田村に帰れた。他の2人は英国船に救助された後に病死した。船頭重吉がただ一人の生存者である。


 百姓出身で船頭だから姓はないはずだが、WIKIにはこうある。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/小栗重吉
 これを筆記した池田寛親は、新城(しんしろ)藩の家老だそうだが、彼の名はWIKIには載っていない。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/新城藩
 で、「広辞苑」を見ると、このランビキは<ポルトガル語でAlambique(和名「蘭引」)由来>とある。

 WIKIには、16世紀にオランダから日本に伝わり、陶製の器具が作られたとある。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/ランビキ


 ところが重吉は、「大釜に海水を入れ、その上に大きな飯びつの底に穴を開け、管を差し込んだものを釜に被い、その上に鉄鍋をぶら下げると管から出る蒸気が鉄鍋の底に当たって水滴となり、したたり落ちる。それを溜めて飲料水とした」という。(1日働いて7~8升、12.5~14.4リットル、採れたという。この水量では14人に足りないが、事故や病気で船員が次々に死んだから、なんとかなった。)


 不思議なのは、どうして「ランビキ」という言葉と、この蒸留装置の原理を知っていたかということだ。
 天明5(1785)年1月に土佐沖で遭難し、八丈島の南端にある「鳥島」に流された三百石船のことを、吉村昭が「漂流」に書いているが、ランビキについて「遠距離を航行する千石船には、ランビキの知識が必要だった、小回り廻船の三百石船には必要なかった」としている。しかし、日本の船はコンパスもつよい艪も備えていないのだから、外洋後悔はできなかった。一旦流されたら、破船のチャンスは同じだったはずだから、彼の説明はなっとくできない。


 ポルトガル語の辞書はないが、手元のスペイン語辞書で「ランビキ」を引いてみると、ちゃんとあった。Alambiqueと綴り「蒸溜する、蒸溜」という意味だ。近くにAlcohol、Algebraも載っている。Alはアラビア語定冠詞である。蒸留装置も蒸留酒も代数学も、イスラム以前のアラビア人が発明したので、それがイベリア半島に入って、ポルトガル語とスペイン語になっていても不思議はない。
 英語のStill(蒸留装置)はdistill(蒸溜する)の短縮形で、ラテン語distillare(蒸溜する)由来である。「アランビキ」はイタリア語、フランス語にまでは入っているが、英語、ドイツ語には入っていない。


 しかし、重吉がどうしてランビキの原理を知っていたのか、それが不思議だ。これはちょうど大阪の適塾で、塾長福沢諭吉がオランダ語書物の知識だけに基づいて、馬の爪の削りカス(鼈甲屋でタダで仕入れた)を乾留して「アンモニア」を作ったのと同様である。「福翁自伝」には、
 <徳利の外側に土を塗り、七輪代わりの素焼きの瓶に、馬の爪の削りカスを詰めた徳利を3~4本入れ、徳利の口には曲がった管をつけ、外に出す。下から七輪に火を焚くと、管の先から液体がたらたら出てくる。これがアンモニアである。>
 と書いてあるが、これとそっくりである。乾留と蒸溜の違いだ。


 福沢諭吉というと「文系の人」と思われているが、どうしてどうして、緒方洪庵は後に幕府のお目見え医になったほどの人だ。適塾では熊の解剖から化学の実験までやった。硫酸も自作し、硫酸亜鉛を自製して錫メッキまでやっている。


 こういうことを書くのは、どうも19世紀の人は文科とか理科とかに分かれておらず、知が総合されていたように思えるからだ。
 いま、「買いたい新書」200回目の書評に、スマイルズ著中村正直訳「西国立志編」を取り上げようと思って読んでいるが、スコットランド人サミュエル・スマイルズが1858年に出版したこの本「Self-Help」は、およそ古今の傑出した人物のエピソードを一種の「教訓」として、あらゆる分野にわたって紹介している。


 電気を研究したフランクリンとガルヴァーニ、英国に骨粉磁器を誕生させたウェッジウッド、血液循環の原理を発見したウィリアム・ハーヴェィ、種痘を発明したジェンナー、地理学の父ウィリアム・スミス。ガリレオ、コロンブス、対数の発明者ネーピア、宗教家フランシス・ロヨラ、ルター、画家のターナー、劇作のェークスピア、音楽のバッハ、ヘンデル、ベートーベン、「ワーテルローの戦い」でナポレオンを破ったウェリントン etc.きわめて多彩である。


 中村正直敬宇は幕臣で英国に留学していたが、幕府瓦解のため1868年留学を1年半で切り上げ帰国した。この時英国人の友人から餞別にもらったのが、この本である。訳本は「西国立志編」と題して明治4年に出版され、福沢の「学問のすすめ」と並んで、大ベストセラーとなった。


 その訳は遺憾ながら正直の実力不足で、医学・自然科学・工学に関しては誤訳が多い。(例えば最初に蒸気エンジンを製作した1世紀アレクサンドリアの科学者ヘロン〔Heron, 英語ではHeroと綴ることあり〕を「ヒーロー」と訳出している。数学の「ヘロンの公式」のヘロンと同じ人物なのに…)
 解説を付している上智大学の渡部昇一も英文科卒だから、それに気づいていない。「西国立志編」は講談社学術文庫に入っているが、どうも現在では現代語訳か詳細な校注を必要とするように思う。


 1959年、英国の物理学者チャールズ P.スノウ卿はケンブリッジ大学の「リード講演」(欧米では著名人を記念する特別講演会が定期的にある。米国NIHでは「ダイヤー講演」が年に1回あり、大ホールで夜8時から始まる。出席者は自宅に戻り夕食をすませて正装して会場に臨む。この講演者に選ばれた人の多くは、数年のうちにノーベル賞受賞に輝くことが多い。)
 このスノウは「中国の赤い星」を書いたジャーナリストのエドガー・スノウとは別人である。


 C.P.スノウの講演タイトルは「二つの文化と科学革命」であった。訳書は東京文理科大の物理学科卒で当時みすず書房編集部にいた松井巻之助の訳により、同名書としてみすず書房から出ている(1967)が、達意の名文ではない。後述のラッセル、リースマン、ポランニーの原文は明らかに訳者の知的能力を超えている。フランス語を英語読みして、人名のCuvierを「キュービー」と訳している。


 この講演でスノウは、文化的教養と科学的教養が文科系知識人と理科系知識人とに分離しており、互いに理解しえないという現状を嘆き、その分離が生じた由縁と二つの教養の融合の必要性を強調している。
 彼は言う:
 <教養の高い人たちの会合に出席したが、彼らは科学者に教養がないことを嘆いた。

 どうにも我慢できなくなって、私は彼らに「あなた方のうちで熱力学第二法則について、その意味を説明できる方がありますか?」と尋ねた。
 これは「シェークスピアの作品を読んだことがありますか?」というのと科学的には同レベルの質問である。
 しかし、その場にいた人たちの反応は冷淡であり、答える必要があるとも思っていなかった。…
 西洋社会のもっとも賢明な(と自認している)人々の多くは、物理学について新石器時代人と変わらない理解力しかもっていない。>


 この講演は新聞に掲載され、文科系知識人から猛烈な反撥があった。それは上記訳書の「付録」に収められているが、21世紀の今日、傾聴に値するのはバートランド・ラッセル(数学者、「西洋哲学史」の著者)と「孤独な群衆」(みすず書房, 1964)を書いたアメリカの社会学者デヴィッド・リースマン(ハーヴァード大で化学を専攻、ついで法学部を卒業し弁護士となった。後ハーヴァード大社会学科教授)、それに「暗黙知の次元」(ちくま学芸文庫)を書いたマイケル・ポランニーだけであろう。


 ラッセルは19世紀の初頭には「文と理」の分裂は生じていなかったという。「ジェーン・エア」を書いたエミリー・ブロンテの「シャーリー」(1849)は産業の世界を扱っているし、メァリー・シェリーの「フランケンシュタイン」(1818)は科学を十分に理解しているという。
 他方、リースマンはアメリカ社会は英国ほど文系優位ではなく、MITを卒業した学生も社会的に成功すると、文化的教養を求めて「グレートブックス」のコースに戻ってくる、むしろ問題は女性が科学知識を必要とする分野に進まないことで、女性の社会進出の遅れと「二つの文化の分離がもたらす悲劇」とが結びついている、と非常に先駆的な意見を述べている。
 ポランニーは善と悪の問題は科学では解くことができない、科学における際限のない専門分化の結果、人類の「文化的遺産」の総量は個人の脳の容量の1万倍以上に達していると指摘し、道徳の問題を誤った科学主義で展開したのがマルクスとフロイドだと主張している。どちらも1960年代の問題提起としては先見性がある。


 「学びて思わざれば則ち暗し、思いて学ばざれば則ち危うし」(「論語」為政篇15、岩波文庫)
 高松出身の平賀源内(1728~1779)は江戸に出て発明家、作家として大活躍している。彼は蘭学を修めた医師でもあった。ランビキの製作もその中にある。船頭重吉は読み書きができたから、あるいは広く流布した源内の著作を読んだかもしれない。実物のランビキも江戸で見たかもしれない。

 だとすると、学歴はないが重吉は「学びて思う」ことのできた稀有の人物だといえよう。
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