【斥洋の碑と国王拉致】
釜山に設置された慰安婦像について、1/14の「ハンギョレ新聞」がこう報じている。
<ユン・ビョンセ外交部長官は、昨年12月30日に設置された釜山(プサン)日本領事館前の「平和の少女像」と関連して、「国際社会では外交公館や領事公館の前に施設や造形物を設置することは望ましくないというのが一般的立場」だと話した。
ユン長官は13日、国会外交統一委員会に出席し「釜山少女像の問題は関連当事者と共に可能な解決方案を探すよう努力する」として、このように話した。事実上、釜山日本領事館前の少女像を他所に移さなければならないという主張であり、波紋が予想される。>
1/13の「中央日報」は潘基文元国連事務総長の発言(次期大統領候補のひとり)について、こう報じている。
<潘氏は米ニューヨークから仁川空港に向かうアシアナ航空便に同乗した中央日報の記者のインタビューで、政治交代のための戦略と構想の一部を表した。…釜山(プサン)少女像撤去をめぐる日本との葛藤および財閥改革問題に対し、与野党を行き来する立場を明らかにした。潘氏は「(日本が12・28慰安婦合意に基づき拠出した)10億円が少女像撤去と関係があるものなら間違っている」とし、政府を批判した。さらに「むしろお金を返すべきであり、話にならない」と述べた。>
10億円は慰安婦像撤去を含めいろんな外交上の約束に基づいて支払われたので、金を返せばすむという問題でない。日本では仮契約を破棄する場合ですら、「手付金の倍返し」が必要となる。
李氏朝鮮王朝は日本と同様、長い間鎖国していた。(この頃の朝鮮の実状はヘンドリック・ハメル「朝鮮幽囚記」東洋文庫によく描かれている。)例外は日本の将軍の代替わりに派遣された「朝鮮通信使」であろう。日本からは同様の派遣をしていない。実質的に朝鮮の朝貢である。
その李朝末期に、何を血迷ったか1871年朝鮮は「斥洋(せきよう)の碑」を八道四郡に建立した。1871年は日本の明治4年で、廃藩置県を行い、中央政府の確立を急いでいた頃だ。「斥洋の石碑」を建てればそれで西欧列強の侵略が止められる、という思考そのものが「シャーマニズム」である。
果たして1875年には「江華島事件」が起こり、江華島の朝鮮砲台が海峡を航行中の日本の軍艦「雲揚号」を砲撃した。しかし日本側の艦砲射撃を浴び、逆に砲台が壊滅した。これが契機となり、1876年「日朝修好条約」が締結された。西洋の他国もこれにならって次々に個別に修好条約を結んだ。これが「朝鮮の開国」である。朝鮮で最初に開港したのは釜山で、1879年のことだ。
以後朝鮮は米、英、独と修好条約を次々と結び、(建立から11年後の)1882年に至り問題の「斥洋の碑」はやっと撤去された。(この時まだ「露朝修好条約」は締結されていなかった。締結は1884、日露戦争の8年前である。)
その後、朝鮮内の王家内紛はますます激化し、1895 年にはロシアと結んだ王妃閔妃がクーデターを起こし、一時的に権力を握ったが、反ロシア・反閔妃派のため王妃自身が殺害された。
身の危険を避けるために国王高宗(閔妃の夫、大院君の実子)は、何とロシア公使の援助によりロシア公使館に亡命し、朝鮮王室は約1年間公使館内にあった。万国公法により公使館の敷地内は韓国警察や軍隊の手が及ばないことを知ってのことである。(佐々木春隆「韓国独立運動の研究」国書刊行会、2012)
日露戦争(1904/2〜1905/9)の最中、日本は朝鮮と「乙巳保護条約」(1905/11)を結んだ。ロシアのさらなる南下を阻止するために韓国を日本の保護下に置く、という内容だった。これは日露ポーツマス条約にも盛り込まれており、清国政府をはじめ米・英・独・仏など列強も承認した。事態がこのように「韓国の消滅」の方向に推移したのは、ひとえに朝鮮政府の外交感覚のなさ、派閥党派争い、王室の分裂など国家が未熟だったためである。
1894年に発生した「朝鮮東学党の乱」で農民軍が歌った行進歌の一節は、今の日本のヘイト・スピーチどころではない。
「狩りに行こう 狩りに行こう 鴨の浦へ
日本人狩りに行こう…」 (上記佐々木書、P.13)
この頃、朝鮮で殺された日本の商人や外交官、軍人の数は相当な人数にのぼる。(金九「白凡逸志:金九自叙伝」、東洋文庫)
朝鮮近現代史を読んでいると、今の韓国人のメンタリティは19世紀後半とちっとも変わっていないと思う。「慰安婦像」なるものを日本公館に隣接して建てて、鬱憤をはらしたつもりになっている。これがシャーマニズムなのである。巨費を投じた「斥洋の碑」は結局、朝鮮の利益には全く役立たず、11年後に完全撤去になったではないか。
ダグラス・マッカーサー元帥は、朝鮮戦争に参戦した中国軍を壊滅させるために原爆投下を計画し、トルーマン大統領と意見対立して、総司令官を解任された。その彼が離日の際か、米上院での公聴会かで述べた言葉に、「日本人の精神年齢は12歳だ」というのがある。
この報道に接して、多くの日本国民が「バカにされた」と反撥した。
当時私は中学1年生だったがすでにへそ曲がりだった。
「精神年齢が若いということは、必ずしも侮蔑の意味ではなく、これから大いに成長する、というという意味が込められているとも考えられるではないか…」
へそ曲がりは新聞やラジオの報道に対してこう考えた。
果たして以後の日本人は精神的にも大きく成長したと思う。ノーベル賞受賞者数やオリンピック金メダル数のことではない。「国際紛争を武力で解決する」という方策を捨てて、71年間戦争をしなかったではないか。それでいて、貿易や外交でえるべきものはちゃんと得ている。これを「精神的成長」といわないで、何というか?
願わくば、韓国人も歴史的に無効だとわかっている愚策を繰り返さないで、「精神年齢12歳」から20歳くらいに成長してもらいたい。現状では、韓国人のメンタリティが国際的に疑われるだろう。
釜山に設置された慰安婦像について、1/14の「ハンギョレ新聞」がこう報じている。
<ユン・ビョンセ外交部長官は、昨年12月30日に設置された釜山(プサン)日本領事館前の「平和の少女像」と関連して、「国際社会では外交公館や領事公館の前に施設や造形物を設置することは望ましくないというのが一般的立場」だと話した。
ユン長官は13日、国会外交統一委員会に出席し「釜山少女像の問題は関連当事者と共に可能な解決方案を探すよう努力する」として、このように話した。事実上、釜山日本領事館前の少女像を他所に移さなければならないという主張であり、波紋が予想される。>
1/13の「中央日報」は潘基文元国連事務総長の発言(次期大統領候補のひとり)について、こう報じている。
<潘氏は米ニューヨークから仁川空港に向かうアシアナ航空便に同乗した中央日報の記者のインタビューで、政治交代のための戦略と構想の一部を表した。…釜山(プサン)少女像撤去をめぐる日本との葛藤および財閥改革問題に対し、与野党を行き来する立場を明らかにした。潘氏は「(日本が12・28慰安婦合意に基づき拠出した)10億円が少女像撤去と関係があるものなら間違っている」とし、政府を批判した。さらに「むしろお金を返すべきであり、話にならない」と述べた。>
10億円は慰安婦像撤去を含めいろんな外交上の約束に基づいて支払われたので、金を返せばすむという問題でない。日本では仮契約を破棄する場合ですら、「手付金の倍返し」が必要となる。
李氏朝鮮王朝は日本と同様、長い間鎖国していた。(この頃の朝鮮の実状はヘンドリック・ハメル「朝鮮幽囚記」東洋文庫によく描かれている。)例外は日本の将軍の代替わりに派遣された「朝鮮通信使」であろう。日本からは同様の派遣をしていない。実質的に朝鮮の朝貢である。
その李朝末期に、何を血迷ったか1871年朝鮮は「斥洋(せきよう)の碑」を八道四郡に建立した。1871年は日本の明治4年で、廃藩置県を行い、中央政府の確立を急いでいた頃だ。「斥洋の石碑」を建てればそれで西欧列強の侵略が止められる、という思考そのものが「シャーマニズム」である。
果たして1875年には「江華島事件」が起こり、江華島の朝鮮砲台が海峡を航行中の日本の軍艦「雲揚号」を砲撃した。しかし日本側の艦砲射撃を浴び、逆に砲台が壊滅した。これが契機となり、1876年「日朝修好条約」が締結された。西洋の他国もこれにならって次々に個別に修好条約を結んだ。これが「朝鮮の開国」である。朝鮮で最初に開港したのは釜山で、1879年のことだ。
以後朝鮮は米、英、独と修好条約を次々と結び、(建立から11年後の)1882年に至り問題の「斥洋の碑」はやっと撤去された。(この時まだ「露朝修好条約」は締結されていなかった。締結は1884、日露戦争の8年前である。)
その後、朝鮮内の王家内紛はますます激化し、1895 年にはロシアと結んだ王妃閔妃がクーデターを起こし、一時的に権力を握ったが、反ロシア・反閔妃派のため王妃自身が殺害された。
身の危険を避けるために国王高宗(閔妃の夫、大院君の実子)は、何とロシア公使の援助によりロシア公使館に亡命し、朝鮮王室は約1年間公使館内にあった。万国公法により公使館の敷地内は韓国警察や軍隊の手が及ばないことを知ってのことである。(佐々木春隆「韓国独立運動の研究」国書刊行会、2012)
日露戦争(1904/2〜1905/9)の最中、日本は朝鮮と「乙巳保護条約」(1905/11)を結んだ。ロシアのさらなる南下を阻止するために韓国を日本の保護下に置く、という内容だった。これは日露ポーツマス条約にも盛り込まれており、清国政府をはじめ米・英・独・仏など列強も承認した。事態がこのように「韓国の消滅」の方向に推移したのは、ひとえに朝鮮政府の外交感覚のなさ、派閥党派争い、王室の分裂など国家が未熟だったためである。
1894年に発生した「朝鮮東学党の乱」で農民軍が歌った行進歌の一節は、今の日本のヘイト・スピーチどころではない。
「狩りに行こう 狩りに行こう 鴨の浦へ
日本人狩りに行こう…」 (上記佐々木書、P.13)
この頃、朝鮮で殺された日本の商人や外交官、軍人の数は相当な人数にのぼる。(金九「白凡逸志:金九自叙伝」、東洋文庫)
朝鮮近現代史を読んでいると、今の韓国人のメンタリティは19世紀後半とちっとも変わっていないと思う。「慰安婦像」なるものを日本公館に隣接して建てて、鬱憤をはらしたつもりになっている。これがシャーマニズムなのである。巨費を投じた「斥洋の碑」は結局、朝鮮の利益には全く役立たず、11年後に完全撤去になったではないか。
ダグラス・マッカーサー元帥は、朝鮮戦争に参戦した中国軍を壊滅させるために原爆投下を計画し、トルーマン大統領と意見対立して、総司令官を解任された。その彼が離日の際か、米上院での公聴会かで述べた言葉に、「日本人の精神年齢は12歳だ」というのがある。
この報道に接して、多くの日本国民が「バカにされた」と反撥した。
当時私は中学1年生だったがすでにへそ曲がりだった。
「精神年齢が若いということは、必ずしも侮蔑の意味ではなく、これから大いに成長する、というという意味が込められているとも考えられるではないか…」
へそ曲がりは新聞やラジオの報道に対してこう考えた。
果たして以後の日本人は精神的にも大きく成長したと思う。ノーベル賞受賞者数やオリンピック金メダル数のことではない。「国際紛争を武力で解決する」という方策を捨てて、71年間戦争をしなかったではないか。それでいて、貿易や外交でえるべきものはちゃんと得ている。これを「精神的成長」といわないで、何というか?
願わくば、韓国人も歴史的に無効だとわかっている愚策を繰り返さないで、「精神年齢12歳」から20歳くらいに成長してもらいたい。現状では、韓国人のメンタリティが国際的に疑われるだろう。
マッカーサー元帥は日本人を軽蔑し馬鹿にしているからこそ、この発言をしたのであろうが、しかし、この発言自体は馬鹿にする事を目的にしたのではなく、むしろ、灘波氏の仰るように、これからの成長について言及する意図だと思います。
The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years.
Like any tuitionary period, they were susceptible to following new models, new ideas. You can implant basic concepts there. They were still close enough to origin to be elastic and acceptable to new concepts.
ここでいうnew conceptsとは、自由や、自制、自律といった事柄を意図しているのでしょう。米国の歴史を俯瞰的に見る事ができる現代人の目から見れば、戦勝国の元帥としていささか思い上がりが過ぎるように感じられます。