ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【ミートキーナ】難波先生より

2013-11-09 08:22:31 | 難波紘二先生
【ミートキーナ】11/5付「産経」が北ビルマのミートキーナ(現ミャンマー・ミチナ)の日本軍拠点を占領した後、米軍が慰安婦から聴取した記録が見つかったと報じている。

 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131105/plc13110509210006-n1.htm


 日中戦争中に、日本軍がすべての港湾と主な都市を押さえてしまったので、米国と英国は中国に物資援助するため、「援蒋ルート」というのを作った。インドのアッサム地方レドから東に向かい、北ビルマのミートキーナに達する「レド公路」とミートキーナから北部山岳地帯を越えて中国・雲南省に至るサルヴィン川=怒(ヌー)川に沿う「ビルマ中国公路」とがあった。
 後者はミートーキナから雲南の保山ー昆明をへて重慶に至る輸送路である。


 日本軍のミートーキナ占領は1942(昭和17)年5月で、ここに飛行場、高射砲隊、歩兵部隊を置いて守備した。
 米英中の連合軍が昭和19年5月、インド東部と雲南から発して攻勢に転じた時、当初の守備兵力は歩兵2個大隊と飛行場勤務要員約100名だった。
 6月上旬に増援が行われたが、わずか歩兵1個大隊と山砲2門である。これで守備隊の兵力は約3000人となったが、傷病者が多く、戦闘要員は約2000名だった。


 ミートーキナは完全に包囲され、8月の初め残存部隊800名と負傷者の一部がイラワジ川を渡河するか、筏に乗って脱出し、守備隊長水上少将は自決している。
 兵隊を脱出させることができるのに、慰安婦を安全な地帯に脱出させなかったというのが、何とも理解できない。ミートーキナでは市街戦が行われている。


 <ミートキーナ(同ミチナ)で捕らえた朝鮮人慰安婦20名らから尋問した内容。慰安所における慰安婦の生活の実態は、次のように記されている。
 「食事や生活用品はそれほど切り詰められていたわけではなく、彼女らは金を多く持っていたので、欲しいものを買うことができた。兵士からの贈り物に加えて、衣服、靴、たばこ、化粧品を買うことができた」「ビルマにいる間、彼女らは将兵とともにスポーツを楽しんだりピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機を持っており、町に買い物に出ることを許されていた」
 報告書はまた、「慰安婦は客を断る特権を与えられていた」「(日本兵が)結婚を申し込むケースが多くあり、現実に結婚に至ったケースもあった」と書いている。雇用契約に関しては、慰安所経営者と慰安婦の配分率は50%ずつだが、平均月収は1500円だった(当時の下士官の月収は15円前後)。>


 ミートキーナに「慰安所」が開設されたのは、1942年5月以後のことで2年3ヶ月後には「捕虜」になったというわけだ。当時すでに、ラングーン(ヤンゴン)からは、マンダレーを経由してミートーキナまで鉄道が通じていたから、衣類、化粧品、蓄音機なども入手が容易だったのであろう。


 それにしても「平均月収1,500円」とあるが、下士官の場合も「月収」とあるから、手取りのことだろう。すると慰安婦の売り上げは3,000円あったということになる。
 このミートキーナに慰安婦が何人いたのかわからない。


 サルヴィン川が中国領になると怒(ヌ)川と名称を変えるが、南流してきた怒川は一旦西流し、ついで南流してビルマに入る。この西流する川沿いに、「拉孟(ラモウ)」という小さな町があり、ここも1942年5月、日本軍が「ビルマ進攻作戦」の際に占領し、砲兵と歩兵を中心に約1,300人の守備隊がいた。


 ここにも慰安所があって慰安婦が20名いた。うち「日系」が15名、「朝鮮系」が5名とある。(当時は朝鮮人も日本国籍だから、こういう書き方になる。)
 この守備隊は1944年6月から敵の猛攻撃を受け、3ヶ月後に全滅したが、守備隊長は慰安婦を含む民間人をあらかじめ脱出させる措置を採っていない。
 (これはサイパン戦でも同様で、軍は民間人を引き揚げさせなかった。)


 慰安婦が戦場で兵士と結婚するという話は信じがたいが、楳木捨三「壮烈・拉孟守備隊」(光人社NF文庫)には、守備隊長の金光少佐が二人の結婚式をとり行う場面が出て来る(p.117)。


 「戦地慰安婦」問題が「性奴隷」として扱われるのを見ると、私は明治5(1872)年の「マリア・ルース号事件」を思い出す。


 事件はペルー人の船長ヘレイロが、マカオで清国人労働者231人と雇用契約を結び、ペルーの炭坑で働かすために、船倉に積んで出港したが、暴風雨を避けるため臨時に横浜港に停泊した。その際に、待遇に不満を抱いた数人が脱走、上陸して問題になった。


 外務卿(外務大臣)副島種臣と神奈川県権令(知事)大江卓は、協議の上、すでに日本が加盟していた「奴隷廃止条約」に違反するとして、出港差し止めのうえ、正式裁判を行った。
 判決は、「契約無効」とし、苦力(クーリー)をマカオに送還する、というものだった。神奈川県は清国使節に全労働者を引き渡している。
 ところが、この時、ヘレイロが雇った英国人の弁護士が有能で、「日本にも娼妓という奴隷制度があるではないか」と反論した。このため判事は船長を無罪とした。


 廃娼運動はすでにキリスト教宣教師などにより起こっていたが、明治政府はこの裁判後の明治5年10月2日、「廃娼令」を出して人身売買と娼妓の年季奉公を禁止した。(建前上は「売春禁止法」だが、個人が自発的に行う売春は許されており、そのための場所を提供する「貸座敷」は認められた。このため、遊廓はすぐに復活した。)


 拉孟の写真を見ると、海抜2,000メートルの山の中の集落で、700メートル下を怒川が流れている。集落の西と南を川の支流が流れており、いわば北から延びてきた山塊がこの地点で丘となっている。その丘に砦のよう位置するのが拉孟の町である。
 ビルマ側からここに達するには、細く険しい山道を辿らなくてはならない。
 そういうところまで「性奴隷」を引っ張って行くのは不可能ではないにせよ、そうとう困難であろう。よって平均年収1万4,400円という「超高収入」に魅力があったのだろうと思う。


 小谷野敦「日本売春史」(新潮選書)を読むと、職業的売春婦(芸者、娼妓、ソープ嬢etc)の心理がきわめて複雑なことに気づかされる。
 韓国側の「朝鮮日報」が主張する数字によれば「強制連行された朝鮮人慰安婦は10万人」ということらしいが、1991年1月に「軍による連行」というスクープを「朝日」が載せた時、少なくとも半数の5万人がまだ生きていただろう。


 なのになぜ「被害者」は名乗りをあげなかったのか…。
 仮に1%が名乗り出ても500人である。それだけの被害者が確定されれば、韓国内だけでなく外交上も大問題になったはずである。
 それなのに、氏名、出生年月日、出生地および慰安婦としての経歴が、客観的に確定できるだけの「元慰安婦」が一人もいないというのは、どうしてだろう?
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