【伊藤博文】「安重根記念碑」建立に対する日本側の反撥に対して、「中央日報」の反駁ぶりが面白い。
http://japanese.joins.com/article/719/178719.html?servcode=100§code=140&cloc=jp|main|top_news
< 日本で最初の首相・伊藤博文(1841~1909)は、日本政治史で特異な記録を持っている。歴代首相の中で、戦争ではない状況で殺人を犯した唯一の人物だという点だ。殺人だけでなく外国公館へのテロも行った。
20歳前後の彼は、強烈な尊皇壌夷(天皇を敬って西欧列強に対抗する)主義者であった。1862年、伊藤は著名な国学者だった塙保己一の息子であり同じ国学者だった塙忠宝(次郎)が幕府からの依頼で天皇廃位の先例を調査するという噂を聞きつけいきりたった。そして山尾庸三とともに刃物を振りかざして塙忠宝を殺害した。
政治的見解が違う人物(長井雅楽)を暗殺しようとして未遂に終わったこともある。
1862年12月には英国公使館の焼き討ち事件に加担した。殺人犯でありテロリストだったということだ。 > と論説は述べている。
(韓国の新聞にこれだけの調査能力があるはずがない。これは今年出てかなり売れた小説家黒川創の「暗殺者たち」(新潮社)の引き写しである。)
誤りがある。
第一に、幕末の動乱期には「公武合体」から「尊皇攘夷」への国家政策の転換を巡って、激しい闘争が起こった。「戰争でない殺人」は新撰組、見回り組だけでなく、いわゆる「志士」により数え切れないほど起こっている。それらの激動の時代を生き残ったものが「明治の元勲」になったのである。
この頃の日本は一種の「内乱時代」にあった。
1859年10月に長州の吉田松陰が死刑になると、翌年3月には桜田門外で大老井伊直弼が水戸・薩摩の浪士らに暗殺されている。新撰組創設者、清川八郎の暗殺をはじめ、この頃の江戸、京都での暗殺事件は数知れない。
今の、イラクやレバノンやパレスチナのようなものだっった。
第二に、「外国公使館へのテロ」は1862年12月の「品川英国公使館」焼き討ちを指すが、この首謀者は高杉晋作である。高杉は長州藩士(150石)で、伊藤は足軽の身分でしかなかった。
外国人へのテロは、1859年「横浜・ロシア人斬殺事件」、1860年2月「横浜・英人, オランダ人殺害事件」、同年12月見た米国公使館「ヒュースケン暗殺事件」が起こり、1862年8月には横浜で薩摩藩主の行列を妨げた英国人を切り捨てる「生麦事件」などが発生している。
第三に、「伊藤博文は、21歳の時に塙保己一の息子次郎を切り殺した殺人犯で、英国公使館を焼き討ちしたテロリストだ」と述べている。遺憾ながら、伊藤博文が同志山尾庸三と共に駿河台の中坊洋之輔宅からの帰路、客人加藤一周ともども、塙邸の門前に待ち受け、二人を斬殺したのは事実である。時に、文久3(1863)年12月、博文21歳。
1863年3月、長州藩は伊藤の「尊皇攘夷」活動を評価し、伊藤を「足軽」から「準士雇(じゅんさむらいやとい)」に昇格させている。元もと伊藤の父は百姓で、藩の「蔵元付中原」水間家の養子となり、ついで足軽伊藤家の養子に転じたため、伊藤という家名と足軽という身分を獲得したものである。
この点で伊藤博文は一代で士分になり、幕末維新の動乱期を生き延びて、初代総理大臣になったわけで、小学校卒の学歴しかなかった田中角栄首相と似たところがある。
吉田松陰からは「俊輔には斡旋の才能がある」と評されており、外交能力に長けていて、木戸孝允の「手付(てつき)」として他藩要人との連絡に当たっている。
当初「攘夷」に凝り固まっていた伊藤は、1863年塙次郎殺害の共犯山尾庸三や井上薫ほか5名で英国に密航(藩主の認可をえて)、彼我の国力の差を如実に感得、四ヶ国艦隊による下関攻撃の情報をえて、急遽帰国している。
この時、5人のうち帰国したのが井上薫と伊藤博文で、以後彼らが木戸孝允を補佐し、長州の倒幕開国論をリードすることになった。(Cf. 伊藤之雄「伊藤博文:近代日本を創った男」, 講談社)
伊藤博文と安重根を同列に論じる小説家黒川創の頭がどうかしているのだ。「テロリストがテロリストに殺された」とすれば小説として面白いかも知らんが、史実とその評価はもっと厳密にやらないといけない。
テロを肯定するものではない。しかし百姓から登り詰めて総理大臣になり、お札にも肖像が載った伊藤と、朝鮮の貴族階級である「両班」の出で、当初は「東学党」の鎮圧を父と共に行いながら、没落して指を詰め、暗殺者となった安重根とを同列に論じるのは無理がある。
安重根は「伊藤の罪状15ヵ条」の第14条で、「伊藤は明治天皇の父(孝明天皇)を暗殺した。そのことは韓国民がみな知っている」と取り調べた検事に述べている。
これはまったく事実無根で、孝明天皇が死んだのは1866(慶応2)年で、この頃長州藩は保守派の「俗論党」と革新派の「正義党」が武装闘争を展開した結果、幕府による「第一次長州征伐」に直面した。英語ができる伊藤は英国商人からの武器購入や「薩長同盟」の結成に向けて奔走しており、京都にはいなかった。さらに、「準士雇」から「士分」に取り立てられ、やっと正式の「武士」となっている。
だから下級藩士である伊藤には孝明天皇暗殺の動機があったとしても、御所にいる天皇を暗殺する機会はない。孝明天皇の死について当時暗殺説が流れたのは事実だが、病死でありそれも毒殺ではなく「痘瘡感染」によるものだ、というのが現在の医学的定説である。(これは天皇の遺体を調べ、天然痘ウイルスDNAを検出しないかぎり、実証できない。)
Cf. 秦郁彦「病気の日本近代史」, 文藝春秋, p.267
「光明天皇暗殺説」はWIKIにもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/孝明天皇
孝明帝暗殺を言いだしたのは同志社大の病院長だった産婦人科医の佐伯理一郎で、ひろめたのがねずまさしである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯理一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/ねずまさし
ねずまさしは共産党系の文化人で、天皇制否定の立場から、あることないことを書きまくった。
佐伯理一郎は、医学以外にも好事の士で、ベルツを通じて横浜の医師・考古学者ゴードン・マンローともつき合いがあった。その関係で同志社大の博物館には、マンロー・コレクションによる、日本の新石器・旧石器が寄贈されている。
英国公使館の書記官通訳だったアーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)に、孝明天皇の崩御について、「噂によれば、ミカドは天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという」と記している。(「同書・上」p.234)
サトウの友人に横浜の「ジャパン・タイムズ」発行人チャールズ・リッカビィがいたから、この「噂」は新聞ネタになり、国外にも伝えられたはずである。
孝明天皇の死に関しては真実が伝えられなかったことも事実である。田口卯吉編「大日本人名辞典」(1901)には、「位を明治天皇に譲り、慶応2年12月25日崩御」と明らかなウソが書かれている。明治天皇の践祚は翌年の1月、明治改元は同年9月である。もし譲位したら、その後は「上皇」となるはずである。
ジャーナリスト大宅壮一は「実録・天皇記」(角川文庫, 1977)で、将軍家茂暗殺説と孝明天皇暗殺説はセットになって出来たもので、証拠がないと述べ、当時の江戸狂歌「官軍に猫も杓子も来るはずが、狆と(ちん)と豚とでできたまちがい」を紹介している。
まちがいは「大政奉還」により、江戸が日本の中枢でなくなり、時世がすっかり変わったこと、狆は「朕」で明治天皇を、豚は一橋家の「豚一」、豚肉を食うほど開明的な慶喜が将軍になったことを指す。
家茂と孝明天皇の死が「陰謀」による毒殺だとすると、一橋慶喜と岩倉具視が手を組まないかぎり不可能である。それは歴史的事実関係から見て、ありえないことだ。
それに天皇が最初に痘瘡を発病したことははっきりしている。回復中の「急死」という点が謎になっているのだが、大宅は日蓮宗祈祷師の日記に「天皇の顔に紫斑が表れて、虫の息だった」とあることを指摘している。
チアノーゼでなく紫斑なら、血液凝固系に異常が出たことを意味している。血小板の減少によるものだろう。そういう目立つ兆候の出る毒物はあっても、毒殺には用いられない。多臓器不全(MOF)が起こり、一挙に痘瘡(天然痘)が重症化したと考えるのが妥当だろう。
明治天皇は、朝鮮を併合した国の憎き皇帝であり、その皇帝を担ぎ出して操り人形にするために、憎き伊藤博文が鎖国論者の孝明天皇を暗殺した、と考えたい安重根の気持ちはわからないでもないが、どだいあの国の人は「主観」が先行してものを見るくせが強い。
まあ、その「客観的観察力」が昔から先天的にないのか、それとも「李朝鎖国」の400年間がつくった国民性なのか、それを知りたくて古い朝鮮通信使が残した旅日記などを、ヒマにまかせて読んでいる。今のところ、「花鳥風月」を歌う才はあっても、庶民の生活や生産様式、地勢などにはほとんど目配りができていない、というのが朝鮮通信使についての印象だ。
安重根と伊藤博文を同列に論じる「中央日報」の論説と黒川創の小説は笑止千万だが、安重根の「15ヵ条の罪」は無知と誤解に充ちており、これはまた項を改めて論じたい。
「対馬は韓国の固有の領土だ」と言ってみたり、
http://japanese.joins.com/article/715/178715.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp%7Cmain%7Cranking
韓国のメディアは史実も歴史も無視している。こういう国に未来はない。
http://japanese.joins.com/article/719/178719.html?servcode=100§code=140&cloc=jp|main|top_news
< 日本で最初の首相・伊藤博文(1841~1909)は、日本政治史で特異な記録を持っている。歴代首相の中で、戦争ではない状況で殺人を犯した唯一の人物だという点だ。殺人だけでなく外国公館へのテロも行った。
20歳前後の彼は、強烈な尊皇壌夷(天皇を敬って西欧列強に対抗する)主義者であった。1862年、伊藤は著名な国学者だった塙保己一の息子であり同じ国学者だった塙忠宝(次郎)が幕府からの依頼で天皇廃位の先例を調査するという噂を聞きつけいきりたった。そして山尾庸三とともに刃物を振りかざして塙忠宝を殺害した。
政治的見解が違う人物(長井雅楽)を暗殺しようとして未遂に終わったこともある。
1862年12月には英国公使館の焼き討ち事件に加担した。殺人犯でありテロリストだったということだ。 > と論説は述べている。
(韓国の新聞にこれだけの調査能力があるはずがない。これは今年出てかなり売れた小説家黒川創の「暗殺者たち」(新潮社)の引き写しである。)
誤りがある。
第一に、幕末の動乱期には「公武合体」から「尊皇攘夷」への国家政策の転換を巡って、激しい闘争が起こった。「戰争でない殺人」は新撰組、見回り組だけでなく、いわゆる「志士」により数え切れないほど起こっている。それらの激動の時代を生き残ったものが「明治の元勲」になったのである。
この頃の日本は一種の「内乱時代」にあった。
1859年10月に長州の吉田松陰が死刑になると、翌年3月には桜田門外で大老井伊直弼が水戸・薩摩の浪士らに暗殺されている。新撰組創設者、清川八郎の暗殺をはじめ、この頃の江戸、京都での暗殺事件は数知れない。
今の、イラクやレバノンやパレスチナのようなものだっった。
第二に、「外国公使館へのテロ」は1862年12月の「品川英国公使館」焼き討ちを指すが、この首謀者は高杉晋作である。高杉は長州藩士(150石)で、伊藤は足軽の身分でしかなかった。
外国人へのテロは、1859年「横浜・ロシア人斬殺事件」、1860年2月「横浜・英人, オランダ人殺害事件」、同年12月見た米国公使館「ヒュースケン暗殺事件」が起こり、1862年8月には横浜で薩摩藩主の行列を妨げた英国人を切り捨てる「生麦事件」などが発生している。
第三に、「伊藤博文は、21歳の時に塙保己一の息子次郎を切り殺した殺人犯で、英国公使館を焼き討ちしたテロリストだ」と述べている。遺憾ながら、伊藤博文が同志山尾庸三と共に駿河台の中坊洋之輔宅からの帰路、客人加藤一周ともども、塙邸の門前に待ち受け、二人を斬殺したのは事実である。時に、文久3(1863)年12月、博文21歳。
1863年3月、長州藩は伊藤の「尊皇攘夷」活動を評価し、伊藤を「足軽」から「準士雇(じゅんさむらいやとい)」に昇格させている。元もと伊藤の父は百姓で、藩の「蔵元付中原」水間家の養子となり、ついで足軽伊藤家の養子に転じたため、伊藤という家名と足軽という身分を獲得したものである。
この点で伊藤博文は一代で士分になり、幕末維新の動乱期を生き延びて、初代総理大臣になったわけで、小学校卒の学歴しかなかった田中角栄首相と似たところがある。
吉田松陰からは「俊輔には斡旋の才能がある」と評されており、外交能力に長けていて、木戸孝允の「手付(てつき)」として他藩要人との連絡に当たっている。
当初「攘夷」に凝り固まっていた伊藤は、1863年塙次郎殺害の共犯山尾庸三や井上薫ほか5名で英国に密航(藩主の認可をえて)、彼我の国力の差を如実に感得、四ヶ国艦隊による下関攻撃の情報をえて、急遽帰国している。
この時、5人のうち帰国したのが井上薫と伊藤博文で、以後彼らが木戸孝允を補佐し、長州の倒幕開国論をリードすることになった。(Cf. 伊藤之雄「伊藤博文:近代日本を創った男」, 講談社)
伊藤博文と安重根を同列に論じる小説家黒川創の頭がどうかしているのだ。「テロリストがテロリストに殺された」とすれば小説として面白いかも知らんが、史実とその評価はもっと厳密にやらないといけない。
テロを肯定するものではない。しかし百姓から登り詰めて総理大臣になり、お札にも肖像が載った伊藤と、朝鮮の貴族階級である「両班」の出で、当初は「東学党」の鎮圧を父と共に行いながら、没落して指を詰め、暗殺者となった安重根とを同列に論じるのは無理がある。
安重根は「伊藤の罪状15ヵ条」の第14条で、「伊藤は明治天皇の父(孝明天皇)を暗殺した。そのことは韓国民がみな知っている」と取り調べた検事に述べている。
これはまったく事実無根で、孝明天皇が死んだのは1866(慶応2)年で、この頃長州藩は保守派の「俗論党」と革新派の「正義党」が武装闘争を展開した結果、幕府による「第一次長州征伐」に直面した。英語ができる伊藤は英国商人からの武器購入や「薩長同盟」の結成に向けて奔走しており、京都にはいなかった。さらに、「準士雇」から「士分」に取り立てられ、やっと正式の「武士」となっている。
だから下級藩士である伊藤には孝明天皇暗殺の動機があったとしても、御所にいる天皇を暗殺する機会はない。孝明天皇の死について当時暗殺説が流れたのは事実だが、病死でありそれも毒殺ではなく「痘瘡感染」によるものだ、というのが現在の医学的定説である。(これは天皇の遺体を調べ、天然痘ウイルスDNAを検出しないかぎり、実証できない。)
Cf. 秦郁彦「病気の日本近代史」, 文藝春秋, p.267
「光明天皇暗殺説」はWIKIにもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/孝明天皇
孝明帝暗殺を言いだしたのは同志社大の病院長だった産婦人科医の佐伯理一郎で、ひろめたのがねずまさしである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯理一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/ねずまさし
ねずまさしは共産党系の文化人で、天皇制否定の立場から、あることないことを書きまくった。
佐伯理一郎は、医学以外にも好事の士で、ベルツを通じて横浜の医師・考古学者ゴードン・マンローともつき合いがあった。その関係で同志社大の博物館には、マンロー・コレクションによる、日本の新石器・旧石器が寄贈されている。
英国公使館の書記官通訳だったアーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)に、孝明天皇の崩御について、「噂によれば、ミカドは天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという」と記している。(「同書・上」p.234)
サトウの友人に横浜の「ジャパン・タイムズ」発行人チャールズ・リッカビィがいたから、この「噂」は新聞ネタになり、国外にも伝えられたはずである。
孝明天皇の死に関しては真実が伝えられなかったことも事実である。田口卯吉編「大日本人名辞典」(1901)には、「位を明治天皇に譲り、慶応2年12月25日崩御」と明らかなウソが書かれている。明治天皇の践祚は翌年の1月、明治改元は同年9月である。もし譲位したら、その後は「上皇」となるはずである。
ジャーナリスト大宅壮一は「実録・天皇記」(角川文庫, 1977)で、将軍家茂暗殺説と孝明天皇暗殺説はセットになって出来たもので、証拠がないと述べ、当時の江戸狂歌「官軍に猫も杓子も来るはずが、狆と(ちん)と豚とでできたまちがい」を紹介している。
まちがいは「大政奉還」により、江戸が日本の中枢でなくなり、時世がすっかり変わったこと、狆は「朕」で明治天皇を、豚は一橋家の「豚一」、豚肉を食うほど開明的な慶喜が将軍になったことを指す。
家茂と孝明天皇の死が「陰謀」による毒殺だとすると、一橋慶喜と岩倉具視が手を組まないかぎり不可能である。それは歴史的事実関係から見て、ありえないことだ。
それに天皇が最初に痘瘡を発病したことははっきりしている。回復中の「急死」という点が謎になっているのだが、大宅は日蓮宗祈祷師の日記に「天皇の顔に紫斑が表れて、虫の息だった」とあることを指摘している。
チアノーゼでなく紫斑なら、血液凝固系に異常が出たことを意味している。血小板の減少によるものだろう。そういう目立つ兆候の出る毒物はあっても、毒殺には用いられない。多臓器不全(MOF)が起こり、一挙に痘瘡(天然痘)が重症化したと考えるのが妥当だろう。
明治天皇は、朝鮮を併合した国の憎き皇帝であり、その皇帝を担ぎ出して操り人形にするために、憎き伊藤博文が鎖国論者の孝明天皇を暗殺した、と考えたい安重根の気持ちはわからないでもないが、どだいあの国の人は「主観」が先行してものを見るくせが強い。
まあ、その「客観的観察力」が昔から先天的にないのか、それとも「李朝鎖国」の400年間がつくった国民性なのか、それを知りたくて古い朝鮮通信使が残した旅日記などを、ヒマにまかせて読んでいる。今のところ、「花鳥風月」を歌う才はあっても、庶民の生活や生産様式、地勢などにはほとんど目配りができていない、というのが朝鮮通信使についての印象だ。
安重根と伊藤博文を同列に論じる「中央日報」の論説と黒川創の小説は笑止千万だが、安重根の「15ヵ条の罪」は無知と誤解に充ちており、これはまた項を改めて論じたい。
「対馬は韓国の固有の領土だ」と言ってみたり、
http://japanese.joins.com/article/715/178715.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp%7Cmain%7Cranking
韓国のメディアは史実も歴史も無視している。こういう国に未来はない。
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