【孫は】来てよし、いんで(いぬる=帰る)よし、という。娘と孫二人が昨夜8時に博多空港からハワイに向けて飛び立った。1月あまり滞在して、地元の小学校と幼稚園に通った。
仕事がいろいろあって、一緒にいる時間は少なかった。私は朝すぐに仕事場に入り、夜は彼らが寝た後に母屋に戻る生活だ。
が、3歳と5歳の成長期の子供だから、いろいろ面白い観察をした。家内が来たときと帰る前の身長を測ったら、二人とも1.5センチ伸びていたそうだ。柱にテープを貼り、そこに記入してある。昔はテープがなかったから、「柱の傷はおととしの…」という歌になった。
孫とジャンケンをした。ジャンケンの際に口にする文句が違う。
「ジャンケンの まんけんの しゃかしゃか ポン」というかけ言葉だ。
娘によると これはハワイ島の掛詞で、オアフ島ではまた違うのだそうだ。
それぞれの島に定住した日本人移民の出身地が違うせいかもしれない。
これはしかし、広島県の掛詞でないのは確かだ。どなたか、ご存じの方はお教え下さいませんか?
面白いのは、5歳児は掛詞を口にしながら、自由にグー・チョキ・パーが出せるが、3歳児はまだ、言語中枢と運動中枢の「統合」ができていないらしく、文句を完全に唱えるのに集中するあまり、相手の「手」を読んで、自分の「手」を出すということができず、同じ手を続けて出して、連続して負けてしまう。やっていると可哀想になる。
ところが、言語中枢だけの発達となると、5歳児に劣らないほどよく発達していて、短文だけでなく複合文をしゃべる。どうかすると兄を言い負かすほどだ。頭を触ってみると、兄は長頭型、弟は短頭型だ。大脳の中心溝に一致する頭蓋骨陥凹は、弟のほうがよく発達している。
発達心理学の最近の本を読んでいないが、3歳児で個性のちがいがあるのは、明らかだと思う。「三つ子たましい、百まで」という。
兄は物静かで思いやりのある性格、弟はきかん坊で、競争心の強い性格になるだろうと、思う。娘は子の血液型を知らないそうだ。それがアメリカの常識で、日本が異常なのだ。
例のバーゲンで買った「河童の川太郎」という絵本を、漢字(ルビはあるのだが)が読めなくて、娘が読んでやったら、哀れな結末に上の児は「サッド(sad)…」といって、窓際に行き泣いたそうだ。
話していて、日本語に日本語の返事があると限らない。英語の場合も日本語の場合もあるし、英語に日本語で返事することもある。
バイリンガルというのは、応答毎にスイッチが切り替わるので、シチュエーション単位ではなさそうだ。
つまり言葉を理解するとき、いったん普遍言語として理解し、答えを何語でするかは、その都度ランダムに決まるように思う。少なくともまだそういう発展段階にある。
水曜日は、原稿書きで徹夜した。娘と孫たちが家内とともに出発した後で起きたが、ダイニングのテーブルにお別れの「手紙」が置かれていた。青と黒のボールペンで「じじ さようなら。たくみ、けんじ、まま」とある。
いなくなると寂寥感がある。「孫はいんでよし」といい切れない。
仕事がいろいろあって、一緒にいる時間は少なかった。私は朝すぐに仕事場に入り、夜は彼らが寝た後に母屋に戻る生活だ。
が、3歳と5歳の成長期の子供だから、いろいろ面白い観察をした。家内が来たときと帰る前の身長を測ったら、二人とも1.5センチ伸びていたそうだ。柱にテープを貼り、そこに記入してある。昔はテープがなかったから、「柱の傷はおととしの…」という歌になった。
孫とジャンケンをした。ジャンケンの際に口にする文句が違う。
「ジャンケンの まんけんの しゃかしゃか ポン」というかけ言葉だ。
娘によると これはハワイ島の掛詞で、オアフ島ではまた違うのだそうだ。
それぞれの島に定住した日本人移民の出身地が違うせいかもしれない。
これはしかし、広島県の掛詞でないのは確かだ。どなたか、ご存じの方はお教え下さいませんか?
面白いのは、5歳児は掛詞を口にしながら、自由にグー・チョキ・パーが出せるが、3歳児はまだ、言語中枢と運動中枢の「統合」ができていないらしく、文句を完全に唱えるのに集中するあまり、相手の「手」を読んで、自分の「手」を出すということができず、同じ手を続けて出して、連続して負けてしまう。やっていると可哀想になる。
ところが、言語中枢だけの発達となると、5歳児に劣らないほどよく発達していて、短文だけでなく複合文をしゃべる。どうかすると兄を言い負かすほどだ。頭を触ってみると、兄は長頭型、弟は短頭型だ。大脳の中心溝に一致する頭蓋骨陥凹は、弟のほうがよく発達している。
発達心理学の最近の本を読んでいないが、3歳児で個性のちがいがあるのは、明らかだと思う。「三つ子たましい、百まで」という。
兄は物静かで思いやりのある性格、弟はきかん坊で、競争心の強い性格になるだろうと、思う。娘は子の血液型を知らないそうだ。それがアメリカの常識で、日本が異常なのだ。
例のバーゲンで買った「河童の川太郎」という絵本を、漢字(ルビはあるのだが)が読めなくて、娘が読んでやったら、哀れな結末に上の児は「サッド(sad)…」といって、窓際に行き泣いたそうだ。
話していて、日本語に日本語の返事があると限らない。英語の場合も日本語の場合もあるし、英語に日本語で返事することもある。
バイリンガルというのは、応答毎にスイッチが切り替わるので、シチュエーション単位ではなさそうだ。
つまり言葉を理解するとき、いったん普遍言語として理解し、答えを何語でするかは、その都度ランダムに決まるように思う。少なくともまだそういう発展段階にある。
水曜日は、原稿書きで徹夜した。娘と孫たちが家内とともに出発した後で起きたが、ダイニングのテーブルにお別れの「手紙」が置かれていた。青と黒のボールペンで「じじ さようなら。たくみ、けんじ、まま」とある。
いなくなると寂寥感がある。「孫はいんでよし」といい切れない。
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