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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【ダーウィンはユダヤ人】難波先生より

2013-02-08 12:04:05 | 難波紘二先生
【ダーウィンはユダヤ人】という記事が「日経サイエンス」最新号に掲載されているそうだ。K先生からのメールで知った。書いたのはS.マスキーという「SIENTIFIC AMERICAN」編集部記者だ。彼もユダヤ人だというが、Massky, Masky, Maskey, Masskey, Musky, Muskey, MusskeyのどれもWebsterには載っていない。(添付1)


 ダーウィン家の初代はエラスムス(1731-1802)。彼の息子(ダーウィンの父)ロバート(1786-1848)がボーンチャイナの製陶業ウェッジウッド家の初代ジョサイア(1730-1795)の娘と結婚している。宗教ははじめ「三位一体」を否定するユニタリアン派キリスト教だったが、のち英国国教に改宗している。


 「ユニタリアン派」は「岩波キリスト教辞典」には、「16世紀後半、トランシルバニア(現ルーマニア)発祥の宗派と名称」とある。(シーセル・ロス「ユダヤ人の歴史」みすず書房)によれば、「12世紀北アフリカのベルベル人の間に起こったイスラム教の分派で「Al Mohad」(唯一)という一神教が、ジブラルタル海峡を渡りスペインを再制服して、その地のユダヤ人を北方に追放したという。アル・モハドの意訳が「ユニタリアン派」だという。
「小循環」の発見者だが、異端としてジュネーブでカルヴァンにより火刑に処せられた、スペイン出身の医師ミハエル・セルヴェトスもこの派の信者だった。


 フランクフルトのロスチャイルド家は1585年に死んだイサクに始まり、1700年代後半アムシェルの時代に栄えた。彼の三男ネイサンが、初めてロンドンに店を開いたのが1798年だった。英国ロスチャイルド家は、ずっと非改宗ユダヤ人として貴族にもなっている。王家の御用金調達人だった。


 英国の作家デレク・ウィルソンは『ロスチャイルド』(新潮文庫)で英国ユダヤには三派があったと書く。(ちょっと「在日」の立場と似ている。)
 同化派=ユダヤ独特の文化を捨てでも、人間として平等の権利を追及した。
 正統派=ユダヤの信仰と文化を保ったままで、市民としての平等の権利を要求した。この一派には、ロンドンにユニバーシティ・カレッジを創設し、英国教会信徒以外にも大学進学の道を開いたアイザック・ゴールドシュミット卿、博愛活動を展開したモーゼス・モンテフィオーレ卿がいる。その同志トマス・ホジキンは絶対平和主義のクェーカー教徒だ。
 穏健派=多数派で、日和見主義。その代表がロスチャイルド家だ。


 で、ダーウィンは最初ケンブリッジに行っているから、ユダヤ教の信徒ではない。「ユダヤ人」とはユダヤ教の信者をいうから、この意味では彼はユダヤ人ではない。


 血統の上ではユダヤ人には「セファラディ」と「アシュケナジ」の2系統がある。
 アフリカ起源がセファラディ。アシュケナジは東欧起源だ。
 フランクフルトのロスチャイルド家はアシュケナジ系である。18世紀末の英国ユダヤ人人口は1万2000~2万5000人と推定されている。但しユダヤ人は多産であり、死亡率も低かったのですぐに増加した。


 マスキー記者の記事によると、ダーウィンの「ビーグル号航海記」(1839)の初稿はイディッシュ語で書かれたという。ダーウィンの手記、メモなどはドーバー海峡に近い終の棲家ダウン村の居宅にあったものが、1942年にケンブリッジ大学図書館に寄贈されているから、それで確かめたのかもしれない。
 ただ


 ともかくダーウィンのオリジナル原稿には「イディッシュ語」が含まれているという。中世ドイツ語にヘブライ語が混じったユダヤ人独特の言葉だ。 
 ポール・ジョンソン「ユダヤ人の歴史」(徳間書店)によると、古イディッシュ語(西イディッシュ語)は13世紀にドイツのライン川流域で発生し、ユダヤ人の東方移住にともなって、スラブ語化した中世イディッシュ語(東イディッシュ語)が生まれたという。


 英国のユダヤ人は1290年、エドワード1世の時代に国外追放された。再入国が許されたのは「清教徒革命」の後の1656年である。
もしダーウィンの祖先がアシュケナジ系のユダヤ人で、イディッシュ語を話していたとすると、初代エラスムスの父親か祖父の時代に英国に移住したことになろう。
 英国のアシュケナジ系ユダヤ人社会は、1690年代に形成されたとロスはいう。それは1648年、「三十年戦争」により荒廃したポーランドとウクライナにコサック・農民の反乱が起き、ポーランドのユダヤ人が大虐殺されたからである。この事件以後、ユダヤ人は「東から西へ」と移住の流れが逆転した。


 チャールズ・ダーウィンがイディッシュ語が書けたというのが事実であれば、おそらく初代エラスムスの父親か祖父がポーランドから英国に移住した可能性がある。記事によると<genug iz genug>という文があるが、これはドイツ語でGenug ist genug.(Enough is enough.)だ。つまり西イディッシュ語ではないかと思う。ポーランド系だとするとちとおかしい。


 ただ彼がユダヤ系英国人だったとしても、彼の偉大さには何の影響もない。
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