口は災いの"素"

音楽テクニカルライター布施雄一郎のポジティブなネガティブ語録/独り言編

10.19

2005-12-16 02:16:19 | ホークス/野球

2時就寝、9時起床。

昨夜、近鉄、そしてオリックスの監督を務めた
仰木彬氏がお亡くなりになりました。


   *****


仰木監督というと、やっぱり真っ先に思い浮かべるのは、
あの伝説の川崎球場でのダブルヘッダー『10.19』です。

当時は、パ・リーグの試合が
テレビ放送されるなんてことはほとんどなく、

この日のダブルヘッダーの意味を知っていた人は、
ごく一部のパ・リーグファンだけだったでしょう。

かく言う私も、当時は巨人ファンでしたので、
この日に近鉄が行う2試合で、


   近鉄が2連勝したら近鉄の優勝、
   1試合でも負けか引き分けたら西武の優勝


ということを漠然と知っていただけでした。
この時点で、西武は全日程を終了していたので、
まさにこの日の結果で、どちらが優勝するかという大一番だったのです。

しかし、こんな重要な優勝決定試合でさえも、
テレビ放送される予定はありませんでした。

それよりも、社会的にはこの試合開始前に発表された、
阪急からオリックスへの球団譲渡、
いわゆる身売りの話題で持ちきりだったのです。


ところが、その日の大学からの帰り道、
たまたま通りかかった電気屋のテレビで、
ロッテ対近鉄戦が映っていたのです。
確か、夕方の4時頃だったように思います。

近鉄の地元の朝日放送が
この試合を急遽関西ローカルで放送し、

関西ローカルの影響が強かった九州でも
系列局での放送が始まったのでした。

その映像を見て、急いで家に帰り、
この激闘を見守りました。


   *****


近鉄は、引き分けも許されないという絶対絶命の状況にありました。
そしてもうひとつの敵が、ダブルヘッダーという特殊な試合形態です。

最近は、あまり見かけるのことないダブルヘッダーですが、
当時頻繁に行われていたこのダブルヘッダーの試合では、
第1試合は『延長なし』というルールがあったのです。


   つまり、9回までで勝たなければいけない。


試合は、ロッテが先制しますが、
近鉄が8回にようやく同点に追いつきます。

そして9回。

絶好の逆転のチャンスを作ったにもかかわらず、
ランナーが3塁と本塁の間に挟まれてタッチアウト。

誰もが勝利をあきらめかけた2死2塁という状況で、
代打で登場したベテラン梨田選手が逆転ヒットを放ち、
劇的な逆転勝利を収めたのでした。


このあまりの激闘に、
とうとうキー局のテレビ朝日が通常番組を飛ばして
全国ネットでこの試合の放送を始めます。

そして、『ニュースステーション』の時間になっても
そのまま同番組の枠内でこの激闘の様子を放送し続けたのでした。


   その第2試合。


近鉄が一時は逆転したものの、
抑えとして登場した阿波野投手が、
ロッテの高沢選手に同点ホームランを打たれ万事休す。

本来は先発投手である阿波野投手は、数日前にも完投しており、
しかも第1試合と第2試合の抑えという場面での連投で、
明らかに球威が落ちていました。

そして延長10回まで闘いながら、
あと1点が取れずに、当時のルールで時間切れ引き分け。


   西武の優勝が決まったのでした。


試合経過の詳細はこちらを参照ください。


10回表の近鉄の攻撃が終わり、
優勝の可能性がなくなったにもかかわらず、
10回裏の守備につかなければいけない近鉄ナイン。

どの選手の顔を見ても、
無念さと悲壮感が漂っていました。

そんな中で、
自チームの勝利、いや優勝が消えた10回表の攻撃終了と同時に
顔色ひとつかえずにベンチを飛び出し、
審判に守備の交代を告げていたのが

仰木彬監督でした。


   そしてその1年後、今度は対西武とのダブルへッダー
   ブライアントの4打数連続ホームランにより猛追する西武にとどめを刺し、
   近鉄はパ・リーグ優勝を果たします。


   *****


この1988年10月19日のドキュメンタリーは、
同年末のニュースステーション年末特番でも
大々的に特集が組まれました。

このときのビデオ、まだ実家に残っているかなぁ…


謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
合掌。


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