まじ卍

生活の中で気が付いたことを書いています。

震災30年(読まなくていいよ)

2025-01-19 | 受け止め方
1995年(平成7年)1月17日5時46分兵庫県の明石海峡を震源として、
マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生した。
私の住んでいた大阪市内でもかなり揺れ
住宅の壁のひび割れもまだタンスの裏に残っている。
(と言ってもすでに売却しており、今は住んでない)
当時はゴジラが暴れたかの如く、
神戸の街々は惨憺たる被災を受けたというのに
電車でたった30分の距離であるというのに
ぎゅうぎゅう詰めの満員電車にもみくちゃにされて通勤しながら
この世の中はどうなっているのだろうか?
と感じていたのを覚えている。

私の周りでも有給休暇を利用してボランティアに行く人もあり、
自身も願い出たが、当時ずっと病欠をしていた同僚の分まで忙しく
土日を利用して一度だけ、神戸市職員だった友人宅を訪れたが
地域の方も含めてすでに住める状態になく、
家族も奥様の実家へ生活拠点を移動していたこともあって
後片付けを手伝い、残っていた食料品を持ち帰った。
当時は支援物資をどんどん現地に送られていく時期なのに
被災地から持ち帰ることにずごく背徳感を感じたが
避難所に一人分くらい寄贈しても迷惑になることを理解していたのだろう。

職場にはとあるビル解体のために、
大阪のあいりん地区まで人夫集めに来た人が週末に遊びに来ていた。
彼の話ではすでに立入禁止になっているそのビルに入ると
社員の引き出しやロッカーの物がそのまま残っており
女性の着替えや小銭もたくさん残っていて取り放題とニコニコしながら
その会社がお客様に配るためのライターを何個も持ってきた。
土日を挟んで月曜日から仕事だと言っていたが
日曜日の夜に再びそこそこの余震があり、
月曜日には集めていた人夫たちが一斉に逃げてしまい
誰も集まらず困り果てて泣きついてきた。
しかしどうすることもできず、あれから彼の姿は見ていない。

大震災から30年を前に東灘区まで用事があって出かけた。
当時の遺物となったものも残っているのかもしれないが
住民じゃない自身から見える景色は、都会の姿でしかなく
すでに街は復興を果たしていたが
昨日(1月17日)は朝から晩まで震災当時の映像が流れ
インタビューされている人たちの心の傷は癒えていない。
その映像を見ている私は、さまざまな忘れていたことを思い出されて
自分は神戸の人たちのような被災者ではないというのに
自分の胸の奥が何とも言えない気持ちの悪い気分になってきた。
大阪に居た私がそう思うくらいだから
被災者の方々にはどう見えていたのだろうか?
そう思うと、追悼するのは大切だけど
平気に流される映像には心が詰まる。

当時を追悼するためにもブロガーとしては
思い出として書いておかなければならないと思って書いてみたが
こんな文章でも読み返して気分を害する方もおられるかもしれないので
題名に(読まなくていいよ)と付け加えたけれど
逆効果だったかもしれない。

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