改札口に向かっているとヘビーカーを押している若いお母さんが
私のすぐ前を歩いている。
「早く行ってくれないかなあ」と思いながらもゆっくり進むベビーカーのすぐあとを
追いかけるようにして付いていくと、改札口のすぐ直前でそっと脇にそれた。
何か起きたのだろうかと心配になって、
横を通り過ぎる時に「出られないんですか?」と声を掛けたら
「大丈夫です」と返ってきた。
そこは「ごめんなさい」か「ありがとうございます」じゃないかと思った。
つまり「大丈夫です」という言葉には、他人を思いやる心はなく、
自己中心的な考え方から発生している言葉なんだとここで悟った。
自分を中心したものの考え方しか出来ないから
自分の行動が他人に迷惑を掛けているかもしれないなどとは
考えられなくなっている。
それは彼女だけの問題ではなく、
自分がエレベーターに乗ればすぐに閉まるボタンを押すことや
電車から降りないにもかかわらずドア付近に立っていたり
満員電車の中でもイヤホンを付けてスマホに没頭して
自分だけの世界に入り込んでいる人々のように
さまざまな人たちのお世話になりながら社会の中で生きている
といった社会の中の個人という位置づけではなく
単に自分だけが生きているような自己中心的な考えの中で
生きていることの現れだと理解するとともに
「大丈夫です」という返事で片付けられてしまう社会は間違っている。
昭和世代の私には、やっぱり馴染めないと分かった。
私のすぐ前を歩いている。
「早く行ってくれないかなあ」と思いながらもゆっくり進むベビーカーのすぐあとを
追いかけるようにして付いていくと、改札口のすぐ直前でそっと脇にそれた。
何か起きたのだろうかと心配になって、
横を通り過ぎる時に「出られないんですか?」と声を掛けたら
「大丈夫です」と返ってきた。
そこは「ごめんなさい」か「ありがとうございます」じゃないかと思った。
つまり「大丈夫です」という言葉には、他人を思いやる心はなく、
自己中心的な考え方から発生している言葉なんだとここで悟った。
自分を中心したものの考え方しか出来ないから
自分の行動が他人に迷惑を掛けているかもしれないなどとは
考えられなくなっている。
それは彼女だけの問題ではなく、
自分がエレベーターに乗ればすぐに閉まるボタンを押すことや
電車から降りないにもかかわらずドア付近に立っていたり
満員電車の中でもイヤホンを付けてスマホに没頭して
自分だけの世界に入り込んでいる人々のように
さまざまな人たちのお世話になりながら社会の中で生きている
といった社会の中の個人という位置づけではなく
単に自分だけが生きているような自己中心的な考えの中で
生きていることの現れだと理解するとともに
「大丈夫です」という返事で片付けられてしまう社会は間違っている。
昭和世代の私には、やっぱり馴染めないと分かった。
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