栄久山妙善寺おしょうのつぶやきブログ

山梨県富士川町の栄久山妙善寺は身延山久遠寺を総本山とし永代供養・水子供養・祈祷・相談占い等を行う寺院の住職です。

養珠院お万の方様

2009年12月02日 | 歴史

妙善寺開山泉寿坊日脱上人ゆかりのお万の方様

お万の方様は、徳川家康公の側室で、紀伊徳川家の祖 頼宣公、水戸徳川家の祖 頼房公の生母。 水戸光圀公が孫、吉宗公が曾孫にあたる。

日蓮宗の熱心な信徒で徳川時代初期の大外護者、その功績は著しいものがある。

慶長九年(1604)、心性院日遠上人は三十三歳の若さで身延山久遠寺に晋山した  お万の方様は日遠上人の行学兼備の高名を聞き、彼に師事して法華経信仰の道に入った。そして日遠上人の人格に深く帰依していくようになったのである。

徳川家康公は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠上人を不快に思っていた為、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させてしまった。

この不法な家康公のやり方に怒った日遠上人は身延山法主を辞し、家康公が禁止した総論を上申した。

これに激怒した家康公は、日遠上人を捕まえて駿河の安倍川原で磔にしようとした為、お万の方様は家康公に日遠上人の助命嘆願をするが家康公は聞き入れなかった。

するとお万の方様は「師の日遠上人が死ぬ時は自分も死ぬ」と日遠上人と自分の二枚の死に衣を縫う。これには家康公も驚いて日遠上人を放免した。

このお万の方の勇気は、当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇もお万の方様の行動に感激し、お万の方様は天皇が自ら【南無妙法蓮華経】と七文字を書いた物を賜ったという。

お万の方様は家康公の死去した後、元和5年(1619)8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。承応2年(1653)にお万の方様は死去した。

      合掌  栄久山 妙善寺

Cimg0931


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする