今回は1973年~1977年です。
夏の甲子園、74年と75年、2年連続甲子園全国制覇。千葉県高校球界にとって、まさしく黄金時代。
最良の時代であったといえるでしょう。
またこの5年間、いずれも秋季関東大会で上位に進出し、センバツ出場を果たしています。
この時代の出場枠は関東が2~3、東京が1~2。
つまり、関東大会で最低でもベスト4に進出しなければ、出場権は勝ち取れませんでした。
ちなみにセンバツの重要な選考基準となる秋季関東大会への出場枠は、
76年までが1県1校(地元開催時のみ2校)。
最低でも1勝しなければなりませんでした。
千葉県勢の関東大会のこれまでの全成績については、いずれ書きたいと思います。
また甲子園に出ているのは、銚子商、習志野、千葉商のみ。
古屋英夫のいた木更津中央、石毛宏典を擁した市銚子など
‟惑星”がこれら強豪を追い詰めるも、あと一歩甲子園に届きませんでした。
このような強豪同士によるしのぎあいが、千葉のレベルアップにつながったのでしょう。
千葉県勢3連覇を狙った76年の夏、銚子商はベスト8で優勝した桜美林に敗れます。
ベスト8入りした63年以降、ほとんど毎年甲子園に歩を進めていた銚子商ですが、
それからしばらく遠ざかることとなります。
そして、77年夏の代表校・千葉商は県勢では5年ぶりに初戦敗退。
74年にそれまでの茨城との東関東大会から独立し、
代表校を単独で甲子園に送り出せるようになったほか、
77年には参加校が100を突破。
全国屈指の激戦区となる一方、有力選手の分散化が進み、
その後はなかなか甲子園で勝てなくなるようになります。