スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

学生野球協会結成記念大会(その2)

2020-04-17 10:49:47 | 学生野球協会結成記念大会
今回は『学生野球協会結成記念大会』の後編です。



前回は第10回まででした。今回の表では第12回からとなっていますが、
第11回(及び第16回)を表に入れるのを忘れたわけではありません。

当初は関東地区の学校のみで固めていた大会でしたが、徐々に北海道・東北、東海、北信越などに出場枠が拡大。
すでに会場も神宮に固定されており、いわば『春の東日本神宮大会』ともいうべき、
それなりに規模の大きな高校野球大会となっていました。

ちなみに高校の部の出場校は10~11校。このあたりも学生野球協会主催の、
現在の『秋の神宮大会』の原型となっていることが分かります。

話は戻りますが、選考もそれなりに厳しくなっており、ある程度実力がある、と認められた学校しか選ばなくなったようです。
ただ前回も書きましたように、選考基準が結構あいまいな感じがしますね。

さて、千葉県勢は第12回で銚子商、第17回で習志野が優勝を飾っています。
第17回は3月25日から28日と、旧年度内で行われていますが、
この大会で習志野は谷沢健一、斎藤喜と入学が決まっていながら入学式を経ていない、
この時点では“中学生”をメンバーに入れていました。

当時の高校野球は3月25日がシーズンインとなり、それ以降であれば特にこの形の選手登録もOKだったとのこと。
このあたり、大らかな時代だったんだな、と感じます。

ちなみに谷沢は2番・レフトとして17打数4安打、斎藤は主に下位打線、ライトとして8打数3安打2打点をマーク。
谷沢は早大を経て、69年のドラフトで中日から‟いの一番”で1位指名を受け、
中日の主力打者として2000本安打を記録しました。
斎藤は第1回のドラフトで阪急からドラフト2位で指名され、1年目から一軍を経験しています。

プロに行くような選手は、中学時代から注目を集める存在である、ということが分かりますね。
ただ、2名が在籍中は甲子園には行けませんでした。

さて、この学生野球協会結成記念大会ですが、昭和38年を持って幕を閉じます。
理由はわかりませんが、この年の4月からそれまでの全国高等学校野球連盟が解散し、
新たに『財団法人日本高等学校野球連盟』と、財団法人化されたことが大きいのかもしれません。
高野連主催のセンバツの裏で、注目されるような大会が行われていることが好ましくなかったのでしょうか。

学生野球協会結成記念大会(その1)

2020-04-16 11:08:00 | 学生野球協会結成記念大会
ずっと放置してきましたが、8ヶ月ぶりの更新となります。
今回は、かつて春に関東地区で行われていた『学生野球協会結成記念大会』です。

ピンとこない方も多いでしょう。
この大会は昭和23年に、大学と中学(高校)の野球関係者により結成された
『日本学生野球協会』のスタートを記念してはじめられたものです。

最初の年は春と秋に大学のトーナメント大会が行われ、
翌昭和24年の第3回から年1回、春(4月上旬)に
大学と高校のトーナメント大会が開催されるようになりました。

最初は関東のみだったようですが、東海、北信越、北海道、東北など、
東日本の精鋭が出場するようになったようです。

今回は第3回から第9回(昭和30年)までの、千葉県勢の成績をご紹介します。
記録については『甦る熱闘』(千葉日報社)を参考にしました。



第3~5回については選考基準が不明です。第6回からは、千葉県に関しては前年秋の県新人大会の覇者で、
センバツに選ばれなかった高校が出場したようですね。
他県については、必ずしもそうではないようです。

正直、このころのセンバツは西日本に出場校が偏っており、
北海道勢が毎年出場するようになったのが昭和27年、東北勢に至っては初選出が第27回、昭和30年。

関東も東京1(または2)・関東1だけ。千葉県勢の初出場も昭和28年の銚子商まで待たなければいけませんでした。
当時の東日本の野球ファンにとって、センバツはあまりなじみがなく、
もしかするとその存在すら知らない、という人もいたのかもしれませんね。