スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

産業対抗野球大会史(おまけ)もし“サンベツ”が復活したら

2020-07-03 09:05:37 | 産業対抗野球史
10回続いた社会人野球のビッグイベント・産業対抗野球大会史。
今回はおまけとして、もし産業対抗(通称:サンベツ)が復活したら…という妄想企画をやってみます。

以前、産業対抗について調べていたとき、機会があったらやってみたいと思っていました。
産業対抗の終了が協議されていたとき、このスタイルの大会を残してほしいという声も上がったそうです。

さて、2020年現在で企業チームとして日本野球連盟に登録しているチームは99チーム。
これを、業種別に分けてみたのが下の表です。



「JR」は簡単ですね。ただ、毎年開催されている『JRグループ硬式野球大会』は支社チームは参加せず、
東日本東北、東日本、東海、西日本、四国、九州にクラブチームの北海道、計7チームで持ち回りで行っています。

「製鉄」も日本製鉄とJFEのみですのでわかりやすいです。日本製鉄は一時期クラブ化したチームも多かったのですが、
最近は企業チームに復活(室蘭シャークス、光シーガルズ、大分)するケースも多くなっています。

「自動車」、「ガス」、「物流」も分けやすいですね。「官公庁」(自衛隊のみですが)、2チームしかない「NTT」、「製紙」も同様です。
「金融」は銀行、生保、証券でひとまとめにしています。
「スクール」は近年急激に増加している大学、専門学校の登録チームです。一種の野球選手養成学校に近いですかね。

「電気機械」は家電という名称にしてもよかったかもしれません。
「産業機械」は精密機械や機械の部品製造などメーカー系全般です。
「自動車関連」はディーラーや部品メーカーを集め、自動車部門と分けて一つの部門としました。

「教育」は教育産業、自動車学校で一つの部門としています。
学生がプレーするわけではないので、スクール部門と差別化しています。

「エンタメ」はパチンコ、つまり娯楽品のメーカーとパチンコ店運営企業で強引にまとめました。
「アミューズメント部門」の方が聞こえが良かったでしょうか。

「エネルギー」は石油と電力を一緒にしましたが、ちょっと苦しいですかね。
「医薬」は医薬品メーカーと代理店、「建設」も建設業と建設資材メーカーと、こちらも一つにまとめていいのか悩みました。
「小売・サービス」は居酒屋チェーンとスーパー。これもこのくくりでいいのか最後まで考えに考えました。

中でももっとも難しかったのが「商業」です。
エイジェックは人材派遣、SUNホールディングスは太陽光発電、ミキハウスはアパレル、エナジックは水の販売。
以上、どの分野にも含まれない企業をまとめるには「商業」しかなかったわけです。
太陽光発電ならエネルギーでもよかったような気もします。

こう見てみると、産業対抗が行われていた時代より、より産業構造が細分化されたことが分かりますね。

さて、やはりチーム数が多い部門とそうでない部門が出てきます。不公平感はぬぐえません。
また、地域が遠く離れている部門も多く予選がやりいくいですし、そうなると補強制度も有効に活用できそうもありません。

国全体が成長を目指し、産業が発達していった50年代~60年代こそ行う意義があった、という結論に行き着きますね。
やはり、“サンベツ”を復活させるのは難しそうです。

産業対抗野球大会史(10)そして日本選手権へ

2020-07-01 09:22:05 | 産業対抗野球史
社会人野球のビッグイベント・産業対抗野球大会特集の最終回は、
最後の大会となった1973年の第23回大会の部門大会に参加したチームをご紹介します。




ちなみに、1958年当時の参加チームをまとめた「産業対抗大会史(4)」をご覧いただくと、
チーム数の違いが歴然です。238から119と、ちょうど半減しています。
また、部門ごとにこれだけチームの数に開きがあると、不公平だとして「産業対抗を続けていても…」という声が上がるのは必然ですね。
この15年間で、日本の産業構造に巨大な変化が起こっていたことが理解できるでしょう。

国鉄や電電などの社会インフラ部門はともかく、それ以外の部門では参加チーム数に大きなバラつきがあったことが分かります。
特に自動車業界は急激に成長を続け、富士重工(現・スバル)、本田(現・Honda)、本田鈴鹿、トヨタなど現在も活動を続けているチームが多数。
電気機械も東芝、松下電器(現・パナソニック)、日立製作所などが現在も強豪として君臨していますね。

一方で、電力ガスや石油、鉱業炭礦、紙パルプにいたっては代表決定戦のみ
(ただし紙パルプは「全」が付くように、大昭和製紙(富士・白老)と王子製紙(苫小牧・春日井)の系列チームにより選抜)でした。

ガス部門は現在でこそ全国のガス会社が参加していますが、当時は野球部の活動にあまり熱心ではなかったようです。
化学工業と造船、百貨店商業、化学繊維、建設なども、現在存続しているチームはありません。
日本の産業構造は現在に至るまで、生き物のように激しく変化していることが分かります。

さて、「サンベツ」の愛称がつけられた産業対抗大会については、
愛着を持つ関係者も少なくなかったようですが、結局23回でその歴史に終止符が打たれることになりました。

都市対抗と違い、補強選手なしで真の単独日本一を決める大会として、翌1974年から「社会人野球日本選手権大会」がスタート。
会場は「野球のメッカである関西で全国大会を」という関西地区を中心とした関係者の熱意により、甲子園球場を舞台に開催されることになりました。
産業対抗も当初は「各地の持ち回り」「関東と関西交互で」などの声があったようですが、
都市対抗との2大大会として定着させるために、社会人野球のメッカ的なイメージがあった後楽園での開催が定着しました。
これで社会人野球は東の都市対抗、西の日本選手権という2大大会を中心に、開催されていくことになります。

産業対抗大会の歴史を探るシリーズは今回が最後となります。
今後、もしこの大会を復活させるとしたら、どんな部門の区分けがなされるんでしょうか。

※データについては毎日新聞のデータベース(縮刷版)や、手元にあった『日本野球連盟50年の歩み』(20年以上前、都市対抗観戦時に購入)、
野球体育博物館内にあった過去の連盟報などで、数年前に調べたものを元にしています。
なお、リニューアルされた日本野球連盟のホームページ内に新設された『JABAデジタルミュージアム』で
過去の連盟報が閲覧できますので、興味がおありの方はそちらも参考になさってください。

産業対抗野球大会史(9)第21回~23回

2020-06-28 08:57:00 | 産業対抗野球史
社会人野球の秋の王者を決する「産業対抗野球」の歴史を探るシリーズの第8回は、
第21回(1971年)からラストとなった23回(1973年)大会までを振り返ります。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第21回大会は1971年10月26日に開幕しました。
化学肥料部門では唯一のチームだった電気化学が8月に解散。
炭鉱部門もオール常磐をはじめ複数のチームが次々と活動を停止し、両部門とも消滅して18部門となっています。
さらに今大会は日程の調整などの理由により、紙パルプと化学繊維、石油と電力ガス、官業公社と醸造食品の各部門代表がそれぞれ戦い、
代表を決する形を採ったため、結局15チームでの開催となりました。
少数精鋭となったためか、当時の社会人野球を代表する名門チームが多数出場する華やかな大会となりましたが、
頂点に上ったのは全3試合で本塁打を放った主砲・小田義人が活躍を見せた大昭和製紙です。7年ぶり3度目の優勝でした。

第22回大会は18チームの参加により、1972年11月1日に開幕。
化学繊維、紙パルプ、電力ガス、石油、官業公社が再び単独で代表チームを送り出せるようになった一方、
醸造食品部門は唯一残った小西酒造が百貨店商業部門に移り、「消滅」。
金属鉱工業部門も「鉱業炭礦」部門に名を変えています。
そんな今大会を制したのは、7年ぶり2度目となる日本石油です。
2回戦の日生戦で大会史上2人目のノーヒットノーランをマークし、
準決勝では延長14回を完封するなど、快刀乱麻のピッチングを見せた五月女豊の活躍が光りました。

最後の大会となった第23回大会は、1973年11月4日から11日まで開催されています。
高度経済成長により日本の産業構造に変化が見られ、部門の編成が難しくなってきたこと。
また都市対抗のように近隣の地区からではなく、地方から補強選手を招聘しなければならないこと。
以上のようなさまざまな問題が数年前から横たわり、「単独チームによる大会を」という声が日増しに強くなっていたようです。
特に1974年は「存続か」「中止か」の協議が繰り返され、最終的には
当初の目的が達せられたことによる「発展的解消」として、ラストの開催となりました。

決勝戦は快晴の日曜日。競馬の菊花賞も重なり後楽園周辺は大変な人出となったようです。
最後の黒鷲旗を手にしたのは、エアロマスターでした。
親会社の日本熱学からチームを引き継ぎ、前年にプロ球団を持つために解散した日拓観光からも選手を集め、
準々決勝の日生戦以外はいずれも快勝するなど、安定した戦いぶりを見せました。

エアロマスターはこの後12月にハワイに遠征し、0勝3敗に終わっています。
翌年の5月にチームは解散しており、唯一の見せ場が産業対抗での優勝となりました。

次回は最後の大会となった、1973年の予選に参加したチームを紹介します。

産業対抗野球大会史(8)歴代三賞

2020-06-26 09:16:18 | 産業対抗野球史
産業対抗野球の歴史を探るシリーズの第6回は、少々趣向を変えて
第1回から23回までの各大会のタイトル受賞者(最高殊勲選手、敢闘賞、首位打者)を紹介します。



その大会でチームを優勝に導く活躍を見せた最高殊勲選手の受賞者を見ると、
北川桂太郎(セネタース、東急など)、久保吾一(国鉄)、大原博志(大阪=現・阪神)らのように
戦後にプロのチームに在籍しながら、その後社会人球界に転身してきた選手たちが目立ちます。
北川は、のちにプロに復帰(高橋)しています。

池田英俊はその後に広島入り。エース格としてチームを支えたほか、コーチとして多くの投手を育てています。
藤原真は69年にドラフト1位でサンケイ(ヤクルト)入り。のちに日本ハムなどでマウンドに立ちました。
小田義人はヤクルトを経て、日本ハムでは主力打者として打棒をふるいました。
五月女豊は阪神、西武、大洋などでリリーバーとして活躍しています。

続いて敢闘賞。
最初の受賞者である本田有隆は、のちに取手二、常総学院のコーチとして木内幸雄監督を支え、全国制覇に貢献した人です。
木村由夫は戦前、巨人で1年間だけプレーしています。

2度にわたり敢闘賞を受賞した北川芳男は、プロ入りすると国鉄、巨人で二ケタ勝利をマークするなど活躍しました。
大工勝は高校卒業後に毎日に入団も活躍できず。社会人に転身後は、長く主力選手としてプレーしています。
武上四郎はのちにヤクルトに入団すると中心選手としてチームを引っ張り、のちに監督にも就任しました。

望月彦男は72年に29歳でプロ入り(西鉄)を果たすも、2年で引退。
2度受賞している田中章は69年に巨人入り。西鉄に移籍後の73年、74年には2年連続で二ケタ勝利を挙げました。

石山建一は後に早大、プリンスの監督としてチームを日本一に導いています。
会田照夫はヤクルトで中継ぎとして活躍しました。
井本隆は近鉄のエースとして79、80年の連覇に貢献。
久保田美郎は、のちに熊谷組の監督を務めています。

次回は第21回(1971年)から、最後となった23回(1973年)までの大会を振り返ります。

産業対抗野球大会史(7)第17回~20回

2020-06-24 08:32:37 | 産業対抗野球史
産業対抗野球大会の歴史を探るシリーズ第6回は、
第17回大会(1967年)から第20回(1970年)大会までを見ていきます。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第17回は1967年11月1日にスタート。優勝したのは自動車部門の日産自動車でした。
エース・斎藤征夫が準々決勝、準決勝と連投となりながら連続で完封し、27イニング無失点の活躍を見せています。
さらに決勝ではこの年の都市対抗で、本田技研の初出場の原動力となった補強の河本昭人が日通を1失点に抑える好投。
投手力にモノをいわせて、初の黒鷲旗を手中にしています。

第18回は1968年10月29日に開幕。全鐘紡が2度目の優勝を果たしました。
立役者となったのは5試合中4試合で完投したエース・藤原真投手。
準々決勝では2回戦で大会史上初のノーヒットノーランをマークした日本石油・三浦健二に投げ勝つと、
決勝では田中章、金田留弘とのちにプロ入りする2投手を擁した日本通運浦和に3対1で勝利しています。
日通は2年連続で準優勝となり、エース・田中も連続での敢闘賞受賞となりました。
なお、全鐘紡は翌年1月に解散。都市対抗を4度制覇した名門チームの最後の晴れ舞台となっています。

第19回は1969年11月2日に開幕。
部門で唯一残っていた全鐘紡の解散により、綿紡績部門が消滅。21チームによって優勝が争われました。
黒鷲旗を勝ち取ったのは北海道拓殖銀行で、全国規模の大会で北海道のチームが優勝したのはこれが初めて。
この5年後には大昭和製紙北海道が都市対抗を制覇しています。
最高殊勲選手賞を獲得した小弓場保(65年の都市対抗で橋戸賞受賞)や加島和彦ら、
日本生命からの補強組の活躍が拓銀Vをサポートしました。

節目の第20回大会は1970年11月6日にスタート。八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鐵が誕生して初参加しました。
また王子製紙が大昭和の強大な壁を打ち破ったほか、相模原市役所が嬉しい初出場を果たしています。
この時期としては珍しく暖かい日が続く中、優勝に輝いたのは13年ぶり2度目となる丸善石油でした。
準決勝で新日鉄を下すと、三協精機との決勝では日本石油から補強の秋元国武がサヨナラ2ランを放つ、劇的な幕切れとなっています。

次回は歴代の三賞受賞者(最高殊勲選手、敢闘賞、首位打者賞)をご紹介します。