千葉県の高校出身プロ野球選手を紹介するシリーズの8回目は、
1994年~1996年です。
球歴の緑色は、高校生の指名選手となります。
まず1994年は3名。
選手が希望する球団と直接交渉し、入団できる“逆指名制度”がスタートしたのが93年。
翌94年には早くも、千葉県の高校出身者の逆指名入団選手が誕生します。その名は北川哲也です。
高校2年夏の千葉大会でエースとしてチームを準優勝に導き、3年時には県内で石井一久(東京学館浦安)と並び称される存在へと成長。
日産では94年の日本選手権で5連投、3勝の活躍でチームの準優勝に貢献するも、プロでは98年の4勝が最高でした。
島田一輝は学生時代は目立った活躍はありませんが、94年の都市対抗南関東予選で3試合で5本塁打を放つと、
都市対抗では4番を任され(3番は新日鉄君津から補強の松中信彦、5番は小笠原道大)、2安打をマーク。
社会人通算17本塁打、打率4割5分3厘のスラッガーとしてプロでも一発長打を武器に、36歳まで現役を続けています。
相川亮二は高校2年時に捕手に転向。2年夏はベスト4、3年夏はベスト8進出を果たしています。
高校通算打率.390と“打てる捕手”として期待され、プロでも07年には打率.302をマーク。
09年には盗塁阻止率リーグトップの.400を記録するなど強肩強打、加えて堅実なリードを評価され、
横浜、ヤクルトの2球団で正捕手を任されたほか、オリンピック(04年)やWBC(06年、13年)の代表にも選出。41歳まで現役を続けています。
1995年は5名。
この年は長谷川昌幸、沢井良輔と、銚子市の高校生2名がドラフト1位指名を受けています。
長谷川は甲子園とは無縁ですが、185センチの長身から投げ下ろす140キロ台中盤の速球で全国屈指の好投手と注目された逸材。
01年に9勝、02年に13勝とエース候補として期待されるも、その後は07年の5勝が最高でした。
沢井は大型の左の強打者として知られ、94年暮れの第1回アジアAAA選手権代表に選出。
95年のセンバツでは主砲として準優勝に貢献しほたか、甲子園では春夏通算で1本塁打を含む8安打を放ち、
“東の沢井、西の福留(孝介、PL学園)”とうたわれたものの、プロでは10年間で通算6本塁打でした。
逆指名(2位)でプロ入りした荒井修光は、高校3年時にエース兼4番として甲子園に出場し3回戦に進出。父の致徳監督と“親子鷹”として話題に。
早大で捕手に転向し、4年秋にベストナインを獲得。即戦力として期待されましたが、プロでは正捕手に届きませんでした。
石井弘寿は左腕の速球派で、高校3年の春に6イニングで16奪三振の快投を披露も最後の夏はベスト16で敗れています。
プロでは最速155キロのストレートを操り、02年に最優秀中継ぎに輝いて五十嵐亮太と“ロケットボーイズ”を結成するなど
球界屈指のリリーバーに成長。06年の肩の故障以降は活躍できなかったことが惜しまれます。
伊与田一範は高校通算45本塁打の強打に加え、50メートル走6秒、遠投110メートルと身体能力の高さが魅力の選手でした。
捕手を含めあらゆるポジションを守れる器用さも売りでしたが、ロッテ移籍後の03年に29試合に出場したのが最高。
1996年は4名。沢崎俊和、大塚晶文の2名が逆指名で入団しています。
沢崎は高校時代から好投手として知られていましたが、大学に進学。青学では4年春に7勝をマークしてMVPに輝き、大学日本一にも貢献。大学通算18勝。
プロでも1年目に12勝を挙げて新人王に輝くなど即戦力の期待に応えましたが、その後は故障との闘いが続き派手な活躍とは無縁でした。
大塚は高校時代は3年春のベスト8が最高。大学を経て社会人で素質が開花し、96年の都市対抗では本田技研に補強されて胴上げ投手に輝いています。
プロでは抑えを任され、2年目には35セーブで最優秀救援投手を獲得。後にメジャーに進出し、パドレスではセットアッパーとして活躍しました。
小笠原道大は高校2年夏に北川哲也とともにチームの県大会準優勝に貢献するも、高校3年間で本塁打はゼロ。
社会人で打撃開眼し、96年の都市対抗では新日鉄君津の補強で11打数5安打を記録して8強に貢献。同年の公式戦では打率.413、7本塁打と社会人屈指の強打者に。
プロでは3年目にレギュラー定着。打率3割、30本塁打が10回、100打点が4回、首位打者2回、2000本安打を達成と堂々たる実績。
日本球界を代表する強打者として君臨しました。
高橋憲幸は高校3年夏の甲子園で1勝をマーク。社会人では95年の都市対抗で4試合に投げ、防御率1.69の好投で日本石油を優勝に導き、MVPに相当する橋戸賞を受賞。
96年もベスト4進出に貢献しています。プロでは左のリリーバーとして積極的に起用され、50登板を2度記録しました。
次回は1997年~99年を予定しています。
1994年~1996年です。
球歴の緑色は、高校生の指名選手となります。
まず1994年は3名。
選手が希望する球団と直接交渉し、入団できる“逆指名制度”がスタートしたのが93年。
翌94年には早くも、千葉県の高校出身者の逆指名入団選手が誕生します。その名は北川哲也です。
高校2年夏の千葉大会でエースとしてチームを準優勝に導き、3年時には県内で石井一久(東京学館浦安)と並び称される存在へと成長。
日産では94年の日本選手権で5連投、3勝の活躍でチームの準優勝に貢献するも、プロでは98年の4勝が最高でした。
島田一輝は学生時代は目立った活躍はありませんが、94年の都市対抗南関東予選で3試合で5本塁打を放つと、
都市対抗では4番を任され(3番は新日鉄君津から補強の松中信彦、5番は小笠原道大)、2安打をマーク。
社会人通算17本塁打、打率4割5分3厘のスラッガーとしてプロでも一発長打を武器に、36歳まで現役を続けています。
相川亮二は高校2年時に捕手に転向。2年夏はベスト4、3年夏はベスト8進出を果たしています。
高校通算打率.390と“打てる捕手”として期待され、プロでも07年には打率.302をマーク。
09年には盗塁阻止率リーグトップの.400を記録するなど強肩強打、加えて堅実なリードを評価され、
横浜、ヤクルトの2球団で正捕手を任されたほか、オリンピック(04年)やWBC(06年、13年)の代表にも選出。41歳まで現役を続けています。
1995年は5名。
この年は長谷川昌幸、沢井良輔と、銚子市の高校生2名がドラフト1位指名を受けています。
長谷川は甲子園とは無縁ですが、185センチの長身から投げ下ろす140キロ台中盤の速球で全国屈指の好投手と注目された逸材。
01年に9勝、02年に13勝とエース候補として期待されるも、その後は07年の5勝が最高でした。
沢井は大型の左の強打者として知られ、94年暮れの第1回アジアAAA選手権代表に選出。
95年のセンバツでは主砲として準優勝に貢献しほたか、甲子園では春夏通算で1本塁打を含む8安打を放ち、
“東の沢井、西の福留(孝介、PL学園)”とうたわれたものの、プロでは10年間で通算6本塁打でした。
逆指名(2位)でプロ入りした荒井修光は、高校3年時にエース兼4番として甲子園に出場し3回戦に進出。父の致徳監督と“親子鷹”として話題に。
早大で捕手に転向し、4年秋にベストナインを獲得。即戦力として期待されましたが、プロでは正捕手に届きませんでした。
石井弘寿は左腕の速球派で、高校3年の春に6イニングで16奪三振の快投を披露も最後の夏はベスト16で敗れています。
プロでは最速155キロのストレートを操り、02年に最優秀中継ぎに輝いて五十嵐亮太と“ロケットボーイズ”を結成するなど
球界屈指のリリーバーに成長。06年の肩の故障以降は活躍できなかったことが惜しまれます。
伊与田一範は高校通算45本塁打の強打に加え、50メートル走6秒、遠投110メートルと身体能力の高さが魅力の選手でした。
捕手を含めあらゆるポジションを守れる器用さも売りでしたが、ロッテ移籍後の03年に29試合に出場したのが最高。
1996年は4名。沢崎俊和、大塚晶文の2名が逆指名で入団しています。
沢崎は高校時代から好投手として知られていましたが、大学に進学。青学では4年春に7勝をマークしてMVPに輝き、大学日本一にも貢献。大学通算18勝。
プロでも1年目に12勝を挙げて新人王に輝くなど即戦力の期待に応えましたが、その後は故障との闘いが続き派手な活躍とは無縁でした。
大塚は高校時代は3年春のベスト8が最高。大学を経て社会人で素質が開花し、96年の都市対抗では本田技研に補強されて胴上げ投手に輝いています。
プロでは抑えを任され、2年目には35セーブで最優秀救援投手を獲得。後にメジャーに進出し、パドレスではセットアッパーとして活躍しました。
小笠原道大は高校2年夏に北川哲也とともにチームの県大会準優勝に貢献するも、高校3年間で本塁打はゼロ。
社会人で打撃開眼し、96年の都市対抗では新日鉄君津の補強で11打数5安打を記録して8強に貢献。同年の公式戦では打率.413、7本塁打と社会人屈指の強打者に。
プロでは3年目にレギュラー定着。打率3割、30本塁打が10回、100打点が4回、首位打者2回、2000本安打を達成と堂々たる実績。
日本球界を代表する強打者として君臨しました。
高橋憲幸は高校3年夏の甲子園で1勝をマーク。社会人では95年の都市対抗で4試合に投げ、防御率1.69の好投で日本石油を優勝に導き、MVPに相当する橋戸賞を受賞。
96年もベスト4進出に貢献しています。プロでは左のリリーバーとして積極的に起用され、50登板を2度記録しました。
次回は1997年~99年を予定しています。