プロ野球各球団のドラフト外選手一覧と、一軍全成績を紹介するシリーズの第7弾はセ・リーグの「ヤクルト」です。
50年に国鉄が運営する「国鉄スワローズ」として誕生。65年からはサンケイ新聞社が親会社となり「サンケイスワローズ」に。
66年からは「サンケイアトムズ」、サンケイからヤクルトに経営権が移り、69年は「アトムズ」、
70年からはヤクルトアトムズ、74年からは「ヤクルトスワローズ」、06年からは「東京ヤクルトスワローズ」となり現在に至ります。
年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
ドラフト外で入団した選手は総勢62名となります。
もっとも成功した選手は、野口寿浩でしょう。
打力があるほか走力も高く、打って走って守れる万能型の稀有な捕手として
ヤクルト、日本ハム、阪神、横浜と4球団をまたにかけて活躍しました。
ドラフト外入団第1号の井上洋一は規定打席到達こそ果たせませんでしたが、
ユーティリティプレーヤーとして20年もの長きにわたりプレーしています。
中村国昭は社会人でのキャリアを活かし、1年目に開幕スタメンスタートと抜てきを受けます。
その後も主に二塁、三塁で起用され、準レギュラークラスとして活躍しました。
栗山英樹は国立の東京学芸大出身という変わり種です。
1989年には規定打席に到達してGグラブ賞を受賞するなどレギュラー入りも、病気のためリタイア。
その後はキャスターとして活躍し、12年以降は日本ハムの監督に。16年には日本一に輝いています。
羅本新二は主に代走屋として起用され、83年に10盗塁をマーク。
引退後はスカウトに転身しています。
君波隆祥は貴重な強打の捕手として期待されましたが、
正捕手にはあと一歩届きませんでした。
玄岡正充は84年に81試合に出場を果たし、4本塁打を放つなど
レギュラー定着寸前にまで迫っています。
後関昌彦はヤクルト、近鉄で左の代打として活躍。
近鉄のスカウトを経て、現在は楽天のスカウト部長です。
青島健太はアマ球界の花形スター。背番号「4」は期待の表れですが、プロでは定位置奪取はならず。
その後はスポーツキャスターでお茶の間の人気者に。社会人野球の監督も務めています。
河野亮はヤクルトでは芽が出ませんでしたが、ダイエー移籍後に素質が開花。
96、97年と7本塁打をマークするなど強打で知られました。現在はロッテのコーチです。
松元秀一郎は巧打と俊足が武器で、ルックスもよく人気もありました。
オリックス時代の99年には90試合に出場しています。
投手では打者と比べて活躍した人が多くはありません。
ドラフト外出身で一軍登板を果たしたのは81年の立野政治が初となります。
その立野は社会人の日本楽器で主力投手として活躍。背番号「12」を与えられるなど即戦力として期待され、
1年目に39試合に登板して6勝をマーク。2年目には32試合に登板しています。
鈴木正幸は82年に先発に加わると25試合に登板。
また85年には中継ぎに転身しして34試合でマウンドに上がりました。
黒田真二は76年のセンバツ優勝投手。“ヒバゴン”の愛称で親しまれ、日本ハムからドラフト1位指名を受けるも拒否。
社会人を経てプロに進み、83年に32試合に登板。引退後は打撃投手に転身しています。
しかし、活躍度でいえばまず中本茂樹でしょう。大学、社会人と日本代表に選出。26歳にしてのプロ入り。
背番号「20」を与えられ、1年目から一軍のマウンドに立ち、一時先発に転向したものの、
ほぼ10年間、中継ぎメインで起用され地味ながらチームに貢献。引退後は台湾プロ野球でコーチを務めました。
加藤博人も長年にわたり活躍しました。貴重な左腕でもあり、2年目に先発に抜てきされ、91年には7勝をマーク。
その後は左肩の故障で低迷するも、リリーバーに転身。97年には60試合に登板して日本一に貢献しました。
その後は台湾球界、独立リーグの監督、コーチなどを経て、現在は日立のコーチを務めています。
50年に国鉄が運営する「国鉄スワローズ」として誕生。65年からはサンケイ新聞社が親会社となり「サンケイスワローズ」に。
66年からは「サンケイアトムズ」、サンケイからヤクルトに経営権が移り、69年は「アトムズ」、
70年からはヤクルトアトムズ、74年からは「ヤクルトスワローズ」、06年からは「東京ヤクルトスワローズ」となり現在に至ります。
年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
ドラフト外で入団した選手は総勢62名となります。
もっとも成功した選手は、野口寿浩でしょう。
打力があるほか走力も高く、打って走って守れる万能型の稀有な捕手として
ヤクルト、日本ハム、阪神、横浜と4球団をまたにかけて活躍しました。
ドラフト外入団第1号の井上洋一は規定打席到達こそ果たせませんでしたが、
ユーティリティプレーヤーとして20年もの長きにわたりプレーしています。
中村国昭は社会人でのキャリアを活かし、1年目に開幕スタメンスタートと抜てきを受けます。
その後も主に二塁、三塁で起用され、準レギュラークラスとして活躍しました。
栗山英樹は国立の東京学芸大出身という変わり種です。
1989年には規定打席に到達してGグラブ賞を受賞するなどレギュラー入りも、病気のためリタイア。
その後はキャスターとして活躍し、12年以降は日本ハムの監督に。16年には日本一に輝いています。
羅本新二は主に代走屋として起用され、83年に10盗塁をマーク。
引退後はスカウトに転身しています。
君波隆祥は貴重な強打の捕手として期待されましたが、
正捕手にはあと一歩届きませんでした。
玄岡正充は84年に81試合に出場を果たし、4本塁打を放つなど
レギュラー定着寸前にまで迫っています。
後関昌彦はヤクルト、近鉄で左の代打として活躍。
近鉄のスカウトを経て、現在は楽天のスカウト部長です。
青島健太はアマ球界の花形スター。背番号「4」は期待の表れですが、プロでは定位置奪取はならず。
その後はスポーツキャスターでお茶の間の人気者に。社会人野球の監督も務めています。
河野亮はヤクルトでは芽が出ませんでしたが、ダイエー移籍後に素質が開花。
96、97年と7本塁打をマークするなど強打で知られました。現在はロッテのコーチです。
松元秀一郎は巧打と俊足が武器で、ルックスもよく人気もありました。
オリックス時代の99年には90試合に出場しています。
投手では打者と比べて活躍した人が多くはありません。
ドラフト外出身で一軍登板を果たしたのは81年の立野政治が初となります。
その立野は社会人の日本楽器で主力投手として活躍。背番号「12」を与えられるなど即戦力として期待され、
1年目に39試合に登板して6勝をマーク。2年目には32試合に登板しています。
鈴木正幸は82年に先発に加わると25試合に登板。
また85年には中継ぎに転身しして34試合でマウンドに上がりました。
黒田真二は76年のセンバツ優勝投手。“ヒバゴン”の愛称で親しまれ、日本ハムからドラフト1位指名を受けるも拒否。
社会人を経てプロに進み、83年に32試合に登板。引退後は打撃投手に転身しています。
しかし、活躍度でいえばまず中本茂樹でしょう。大学、社会人と日本代表に選出。26歳にしてのプロ入り。
背番号「20」を与えられ、1年目から一軍のマウンドに立ち、一時先発に転向したものの、
ほぼ10年間、中継ぎメインで起用され地味ながらチームに貢献。引退後は台湾プロ野球でコーチを務めました。
加藤博人も長年にわたり活躍しました。貴重な左腕でもあり、2年目に先発に抜てきされ、91年には7勝をマーク。
その後は左肩の故障で低迷するも、リリーバーに転身。97年には60試合に登板して日本一に貢献しました。
その後は台湾球界、独立リーグの監督、コーチなどを経て、現在は日立のコーチを務めています。