スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

産業対抗野球大会史(6)第13回~16回

2020-06-22 08:36:09 | 産業対抗野球史
伝説となった社会人野球三大大会の一つである、産業対抗野球大会の歴史を探るシリーズ第5回は、
第13回(1963年)から第16回(1966年)大会についてです。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第13回は1963年11月6日に開幕。高度経済成長時代へと向かう中で経済も好調だったのか、
5年ぶりに全22チームが揃っての大会となりました。
新三菱神戸、岩崎電気、新三菱京都、積水化学、トウトク、小西酒造など初出場組も増えています。
大会を制したのは熊谷組で、2年ぶり4回目。決勝で夏の都市対抗覇者・積水化学を下してのVでした。
藤津靖雄投手が全4試合に登板、4勝3完投の快投を見せて最高殊勲選手賞に輝いています。

第14回は1964年10月31日に開幕。
陸上自衛隊のほか、部門大会で熊谷組を破った日本熱学が初出場を果たしています。
延長戦が7試合、サヨナラ決着も7試合、うち3試合が本塁打によるもので、
開幕戦と決勝戦はサヨナラアーチでの決着と、劇的な展開のゲームが目立った今大会。
実に17本ものホームランが飛び出すなど、打撃の大会でもありました。
優勝は大昭和製紙で10年ぶり2度目。決勝でサヨナラ弾を放った尾関達三が最高殊勲選手賞に輝いています。

第15回は1965年11月7日開幕。
化学繊維部門が不参加のため21チームで行われました。金指造船、日本カーバイドなどが初出場を果たしています。
大会ではエース・三浦健二が全5試合に登板、4試合で完投する活躍を見せた日本石油(現・JX-ENEOS)が、初の黒鷲旗を手にしました。
ちなみに三浦は決勝(15日)の2日後に行われた第1回のドラフトで、西鉄からの3位指名を拒否。
翌66年には巨人(第2次ドラフト4位)、68年には東京(8位)をいずれも拒否し、プロには進みませんでした。

第16回は1966年11月8日にスタート。
三菱重工長崎、大阪ダイハツ、大倉工業、デュプロなどが初出場を果たしています。
優勝は意外にもこれが初の黒鷲旗となる、綿紡績代表の全鐘紡。
かつては都市対抗で一時代を築いた名門であり、綿紡績部門唯一のチームとして推薦での出場でした
(第1回大会も、綿紡績からは東洋紡富田が予選なしで出場しています)。
決勝では伏兵の電気化学に粘られるも2対1で下し、秋の王者に輝いています。

次回は第17回(1967年)から20回(1970年)です。

産業対抗野球大会史(5)第9回~12回

2020-06-20 08:39:28 | 産業対抗野球史
遥か昔に行なわれていた社会人野球のビッグイベント・伝説の「産業対抗野球大会」の歴史を探るシリーズの第4回は、
第9回(1959年)から12回大会(1962年)までを振り返ります。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第9回大会は1959年11月8日から8日間にかけて開催。全鐘紡などが初出場しています。
石油がエネルギー資源として活用されるようになったため、当時の炭鉱業界は不況に陥っていました。
そのためここから3年間、炭鉱部門は「棄権」して代表を出せなくなることに。
そんな暗いニュースを吹き飛ばすような熱戦続きの大会を制したのは、倉敷レイヨン(現・クラレ)でした。
クラレを主体とした全日本チームはこの後台湾に遠征しますが、産業対抗の優勝チームによる海外遠征は恒例となっていきます。

第10回は1960年11月1日から11日まで開催。東芝、拓銀、愛知マツダなどが初出場。
記念すべき節目の10回大会を制したのは、
池田英俊(のち広島)、富士鉄から補強の稲川誠(のち大洋)らの好投が光った鉄鋼代表・日本鋼管です。
打線も好調で、決勝では強豪・日本石油(現・JX-ENEOS)を4対0で下すなど、堂々と黒鷲旗を手中にしています。

第11回は1961年11月3日から8日まで行われました。
今大会は炭坑に続き化学繊維部門も不参加で、20チームによる開催。
一方で日産、立正佼成会、三協精機、協和発酵、電気化学などが初出場を果たしています。
制したのは都市対抗でも橋戸賞(MVP)受賞経験のあるエース・島津四郎を擁する日本石油。
丸善石油との決勝は引き分け、翌日の再試合も延長戦と熱戦となりました。
島津は2大会で最高殊勲選手賞獲得の快挙を達成したことになります。

第12回は1962年11月3日から11日まで行われました。
炭鉱部門が4年ぶりに登場したものの、国鉄部門が不参加となり21チームで行われました。
西濃運輸、山陽特殊鋼、日軽金などが初出場。
大会を制したのは、打力が売り物の日本生命でした。
決勝では川崎重工に4対0から4対3まで迫られるも、振り切っています。

次回は第13回(1963年)から16(1966年)回までです。

産業対抗野球大会史(4)1958年当時の参加チーム

2020-06-18 08:11:14 | 産業対抗野球史
3回目を迎える産業対抗野球史。
今回は、第8回大会が行われた1958年の各部門の出場登録チームをご紹介します。

22部門ごとに、参加チームの多い部門から掲載しました。
会社自体、現存していないチームも少なくありません。栄枯盛衰という言葉が思い浮かびます。



国鉄は社会インフラであることを活かし、全国各地でチームが活動していたことが分かります。
炭鉱も当時の日本の産業に欠かせない存在だったことが伺えますね。
産業機械部門では、三菱重工名古屋、鷺宮製作所、日本楽器(現・ヤマハ)が現在も活動を続けています。



景気に左右されやすい金融ではありますが、現在も日本生命、四国銀行、明治生命(現・明治安田生命)が活動を継続。
同じく景気に大きな影響を受ける金属鉱工業は、現存するチームはありません。ちなみにトウトクは東京特殊電線のことです。

花形産業として、野球や女子バレーで複数の強豪チームを生み出した化学繊維も今では見る影もありませんね。
鉄道運輸では、日本通運が現在も強豪として社会人野球界に君臨し続けています。



昔は百貨店チームが多かったことがわかります。ただ、こちらも景気による浮き沈みが激しい業界です。
電電は、全国のチームが強豪チームとして社会人球界を盛り上げていました。
NTTに引き継がれた後も社会人球界をにぎわしましたが、現在では東日本・西日本の2チームのみ(1999年~)。

鉄鋼は富士製鉄と八幡製鉄が統合されて新日本製鐵に。さらに住友金属と合併して新日鐵住金となり、「日本製鉄」(2019年~)となりました。
選手が地域の関連会社に分散したり(かずさマジック、東海REX)、
クラブチームとして存続後に企業登録となったチーム(室蘭シャークス、光シーガルズ、大分)もあります。

川崎製鉄と日本鋼管も「JEF」となり、東日本・西日本の2チームとなるなど、業界再編の波の影響を強く受けている業界ですね。



電気機械は東芝、松下電器(現・パナソニック)、日立製作所が現在も名門チームとして活動中です。
日本産業界を支えた造船は、今や業界自体が風前の灯火です。
紙パルプは王子製紙春日井(現・王子)が東海地区の雄として頑張っています。

石油は日本石油(現・JX-ENEOS)、自動車は富士重工(現・スバル)が強豪として全国大会をにぎわせています。
ガス会社3チームはインフラだけあって、現在も安定した成績を残していますね。

社会人野球の歴史を眺めると、戦後日本の産業の動きも見えてきます。
次回は産業対抗野球の第9回(1959年)から12回(1962年)です。

産業対抗野球大会史(3)第5回~8回

2020-06-16 09:05:08 | 産業対抗野球史
今回は産業対抗野球大会史の2回目、第5回(1955年)~8回(1958年)大会です。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第5回は1955年11月19日から28日まで行われました。
晩秋の開催ながら好天に恵まれ、それなりに盛り上がっていたようです。
優勝候補や名門チームが次々に敗れるなど、波乱含みの大会を制したのは
決勝戦で7回裏に4点差をひっくり返す大逆転劇を見せたトキコ
(自動車部品メーカー、東京機器工業)でした。

第6回は1956年11月17日から28日まで開催されました。
今大会より専売部門が官業公社部門に吸収される一方、電信電話部門が独立しています。
日本選手団が大活躍したメルボルン五輪と被ったこと、
またこの時期としてはかなり厳しい冷え込みとなったため、盛況とはいかなかったようです。
第4回までの覇者は翌年になぜかつまづいてしまい、
「2回は優勝できない」とささやかれていた産業対抗ですが、
第3回王者の熊谷組がジンクスを打ち破り、3年ぶりに覇者となりました。

第7回は1957年11月9日から19日まで開催。
化学工業部門とゴム皮革部門が再び統合。また映画演劇レコード部門が消滅し、22部門体制となります。
この時期としては異例の暖かな日が続いたこともあり、「大会始まって以来」の盛況となった今大会。
新鋭同士の決勝となりましたが、倉敷レイヨン(現・クラレ)を下した丸善石油(愛媛県松山市)が初優勝を成し遂げます。
なお、四国のチームが全国規模の大会で優勝するのは、これが初めてとなりました。

第8回は1958年10月28日から11月5日にかけて開催されました。
優勝したのは、安定した投手陣をバックに着実に勝ち上がった日鉄二瀬(日鉄鉱業二瀬鉱業所)です。
決勝では好投手・北川芳男を擁するニッポンビール(現・サッポロビール)を、1対0の僅差で下しました。

次回は1958年当時の参加チームをご紹介します。

産業対抗野球大会史(2)第1回~4回

2020-06-14 09:22:53 | 産業対抗野球史
社会人野球の三大大会の一つとして、多くの企業チームにより覇が競われた日本産業対抗野球大会(通称・サンベツ)。
今回は、第1回から第4回大会についての概要を紹介します。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

電力事情によりナイターが禁止となり、球場難にあえぐ中で第1回の会場となったのは、後楽園と武蔵野グリーンパーク球場。
1951年10月21日から30日までの10日間(試合が行われたのは8日間)、22チームにより熱戦が展開されました。
日没が早い時期での開催だったため、早朝にゲームを行うなど厳しい条件、日程だったようです。

出場チームを見ると、明電舎、西京貨物、馬淵建設、明治座など、
都市対抗とは縁のなかったチームが出場していることに目を引かれます。
この当時、馬淵建設は建設部門で熊谷組のライバルとして立ちはだかっていました。

決勝に勝ち上がったのは、化学ゴム工業代表・鐘淵化学と電力ガス代表の東京ガス。
接戦となったものの、5対4で鐘化が勝利。栄えある初代秋の王者となりました。
優勝の鐘化には都市対抗の「黒獅子旗」に対抗するかのように、「七曜黒鷲旗」が贈られました。
そのデザインは高島屋が手掛けたものだそうです。

続く第2回は1952年11月1日から9日まで、後楽園球場で開催されています。
機械自動車が産業機械と自動車に、化学ゴム工業が化学工業・ゴム皮革に、官業が官業と専売にそれぞれ分割。
一方で、百貨店と商業が統合されました。

今大会も、B・S・タイヤ(ブリヂストン)、石川島重工、明利酒類など、都市対抗では見かけないチームが名を連ねています。
中でも異色なのは「キャバレー春美」ですね。
キャバレーは今でいうキャバクラではなく、大規模な会場で生バンド付きのダンスショーなどを見ながらお酒を楽しむというもので、
スケールの大きなショーパブに近いかもしれません。そのため従業員の数も多く、野球部の編成が容易だったのでしょう。
さて肝心の大会の方はエース・米久保投手の好投もあり、都市対抗でも実績豊富な全藤倉が初優勝を飾りました。

第3回は1953年9月17日から27日まで、後楽園と川崎球場を使用されて開催されました。
台風シーズンの真っただ中のため、3日間も順延するなど雨に悩まされた大会となったようです。
明治座や山陽電軌などの新鋭チームの活躍はあったものの、神宮で開催されていた大人気の「東京六大学」とバッティング。
試合時間が早かったこともあって、盛り上がりに欠けたようです。
決勝は熊谷組が明治座を僅差で下し、初となる黒鷲旗を手に入れています。
ちなみに2回戦で日本電電がニッポンビール戦で、継投によるノーヒットノーランを記録しています。

第4回は1954年11月2日から10日まで、後楽園球場で開催。以降、産業対抗は後楽園オンリーでの開催となります。
金融部門が不参加のため、23チームにより黒鷲旗が争われましたが、
前年の都市対抗・サン大会の覇者である強豪・大昭和がコロムビアを終盤に逆転、突き放して初となる秋の王者に輝いています。

次回は1955年(第5回)~58年(第8回)です。