nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

備中松山城

2018年04月09日 | 岡山県の城郭・環濠

 仁治元年(1240年)、秋庭重信が備中有漢郷の地頭となり、高梁川を天然の堀とする要衝の臥牛山の大松山に城を築く。その後小松山まで拡張され、高橋氏、秋庭氏,上野氏、庄氏と城主がめまぐるしく変わり、永禄4年(1561年)、成羽鶴首城の三村家親が松山城を奪取する。

 三村氏は毛利氏と結んで備前の宇喜多氏と戦い、三村家親の子三村元親が城主であった元亀年間(1570年~1573年)には松山城は大松山と小松山を範囲とする一大城寒となった。だが、毛利氏と宇喜多氏が和睦すると三村元親は毛利氏に離反して織田信長方につき、天正2年(1574年)から備中兵乱と呼ばれる毛利氏と三村氏との戦いとなり、松山城は、翌年、毛利方の小早川隆景に攻め落とされ三村元親は自害し、その後、宇喜多氏が織田方と結んで毛利氏と戦い、天正10年(1582年)、の本能寺の変で、毛利氏と織田氏は和睦し、松山城は毛利の領有となった。

 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦い後、備中は幕府の直轄地となり、のち5万石で板倉氏が入った。明治6年(1873年)の廃城令で、御根小屋は取り壊され、山上の建物は放置され荒廃したが、昭和・平成時代に復興修理が行われ、国指定重要文化財の天守・二重櫓・三の平櫓東土塀などが残る

[所在地:岡山県高梁市]

<アクセス>JR備中高梁駅より車で10分。下車後徒歩約20分。

備中松山城の絵図

 絵図の小松山城跡(天守・櫓・土塀等があります)まで登ります

備中松山城の概要

中太鼓丸櫓跡付近の遊歩道

大手門跡前              ▼重層的な石垣の連なり

                   大手門跡から二の丸方向を見上げる。

                   左手は三の丸の石垣。

土塀           ▼三の丸

三の丸から二の丸への石段

二の丸の石垣       ▼二の丸と本丸(後方の建物)

二の丸から見た天守    ▼本丸と天守

手前右側が五の平櫓、左側に六の平櫓。 本丸の標高は432m,その中央に2重2層の天守が建つ。

本丸の土塀        ▼二重櫓…天守の北側

天守北面         ▼本丸の石垣と土塀

2018/04/07 訪城


津山城

2018年04月08日 | 岡山県の城郭・環濠

 室町時代に美作の守護であった山名忠正が津山盆地の中央に位置する鶴山に築いた鶴山城は、慶長8年(1603年)、18万6500石で美作に入封した森忠政(森蘭丸の弟)が地名を津山と改め築城を開始し、津山城として生まれ変わった。

 津山城は、周囲の河川や断崖を天然の要害として利用したうえ、本丸・二の丸・三の丸を階段状に配する「一二三段」と呼ばれる縄張りと幾重にも積み重ねられた急勾配の石垣が特徴で、5重の天守を中心に、多数の櫓で武装された実践的な防備を施した平山城であった。

 明治に入り、明治6年(1873年)の廃城令で建物は全て取り除かれたが、現在、鶴山公園として整備され、備中櫓・太鼓塀等が復元された。桜の名所としても知られている。

[所在地:岡山県津山市山下135]

<アクセス>JR津山駅下車北へ徒歩約10分

津山城の概要

森忠政公の像

森忠政公のプロフィール

 森忠政は、慶長8年(1603年)に岡山藩主小早川秀秋のお家取り潰しにともなって、信濃海津城から津山城に入城した。

津山城の略図

                    表中門

「三の丸」から「二の丸」に行く石段

備中櫓

                    本丸から見た備中櫓

後塀(手前)と備中櫓    ▼鉄砲狭間

城内の桜

備中櫓から見た眺め

2018/04/07 訪城


岡山城

2018年02月23日 | 岡山県の城郭・環濠

 南北朝時代の正平年間(1346年~1370年)、南朝の功臣名和氏の一族に連なる上神高直が岡山の地に城砦を構える。これが石山城で岡山城の前身だと考えられている。大永年間(1521年~1528年)、金光備前が在城し、金川城主松田氏に仕えていた。この時代の石山城は、多少の防御を備えた程度で城と呼ばれるほどの規模ではなかった。

 元亀元年(1570年)、この金光氏を滅ぼしたのが、室町末期勢力を伸ばした宇喜多直家であった。宇喜多直家の子・宇喜多秀家は、豊臣秀吉に従って57万石余を領すると、天正18年(1590年)、城の改修に着手して近世城郭となり、外観五重の天守を有する城を完成させ、このときに城名も岡山城となり、同時に整備された城下町も岡山と呼ばれるようになった。しかし宇喜多秀家は関ケ原の戦いに敗れて徐封。かわって入封した小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた。旭川河口部の丘陵部に築かれた城は旭川を天然の堀として利用し、城郭は2倍に拡張された。しかし明治維新の廃城令で天守・石山門・月見櫓・西の丸西手櫓を除く建物が壊され、さらに昭和20年(1945年)6月29日の米軍の岡山大空襲により天守と石山門も焼失する。

  しかし昭和35年(1960年)頃から岡山城再建の機運が高まり、昭和41年(1966年)に天守が鉄筋コンクリートで外見はほぼ旧来通りの姿で再建され、さらに不明門・廊下門・六十一雁木上門なども再建された。

[所在地:岡山県岡山市丸の内]

アクセス>JR岡山駅から徒歩約20分。

岡山城の概要

岡山城の略図

内堀からみた本丸     ▼目安橋

内下馬門枡形       ▼本丸中の段石垣

本丸下の段と不明門    ▼不明門

六十一雁木上門(要害門)  ▼廊下門

天守台の概要

天守

天守・・・米軍の空襲で焼失したが、戦後、鉄筋コンクリートで再建された。

月見櫓          ▼本丸中の段

 月見櫓は、現和元年(1615年)に岡山藩主となった池田忠雄が建てた。

 2018/02/13 訪城


鬼ノ城(きのじょう)

2017年09月27日 | 岡山県の城郭・環濠

鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高約394mの鬼城山の山塊にあって、城跡からの眺望は抜群です。鬼ノ城の城壁は、山の8~9合目にかけて延々と築かれ、長さ2.8kmに及んでいます。城壁は土塁が主体をなし城門4ケ所、水門6ケ所、角楼1ケ所、そして高石垣などにより構成されています。国内にある古代山城の中で最も堅固な造りの単郭式の朝鮮式山城です。7世紀後半の国際的な軍事緊張を背景に、国内支配の強化を目指す大和朝廷が築城したと思われます。

[所在地:岡山県総社市]

<アクセス>JR服部駅から車で約20分

鬼ノ城の概要

鬼ノ城の略図

角楼と西門を望む

角楼           ▼西門

              屏風折れの石垣

 

2017/09/18訪城


備中高松城

2017年09月20日 | 岡山県の城郭・環濠

  備中高松城は、備中守護代の家臣石川久式が、足守川の自然堤防を曲輪とし、それを取り巻く沼地を堀として利用した平城である。石垣を用いず土だけで永禄年間(1558年~1570年)に築城した。

 城の中心は、最も高地にあり約50mの方形をした本丸。本丸の南東方向に、本丸よりわずかに低い二の丸があり、さらにその南東に三の丸があった。これらの三つの曲輪を家中屋敷が置かれた外曲輪が抱え込むような縄張りであった。

[所在地:岡山県岡山市高松]

<アクセス>JR備中高松駅から徒歩約10分

備中高松城の概要 

 

本丸の概要

               清水宗治首塚

二の丸の概要

三の丸の概要

2017/09/18 訪城

備中高松城の戦い  天正10年(1582年)

織田信長の中国攻めで、羽柴秀吉軍(約2万騎)、備中宇喜多軍(約1万騎)が、清水宗治が守る備中高松城(城兵約3000騎)を、黒田官兵衛の策で、羽柴秀吉備中高松城を水攻めにする。毛利方の小早川隆景、吉川元春の援軍約5万騎が高松へ到着し、両軍が対峙する。本能寺の凶報で高梁川以東の割譲と城主清水宗治の切腹で和議成立。