2014/9/7 京都の『新撰組・池田騒動と龍馬を訪ねて』の散策に行ってきました。
[ハイキングコース] JR京都駅・・・新撰組不動堂石碑・近藤勇歌碑・・・本光寺(木津屋橋事件)・・・西本願寺屯所跡・・・樽崎邸跡碑(お龍さん実家)・・・近江屋跡(坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地)・・・お龍さん独身時代の寓居跡石碑・・・坂本龍馬寓居跡石碑・・・池田屋騒動石碑・・・坂本龍馬・中岡慎太郎銅像・・・鴨川・・・JR京都駅
▼不動堂村屯所跡
不動堂村は不動堂明王院にちなむ地名。西本願寺が、近藤勇・土方歳三らの圧迫に堪耐えかねて、不動堂村に一町四方の土地を買収し、新撰組の要望を聞いて、表門、高塀、玄関、使者の間、客舎、長廊下、近藤、土方の座敷、諸士の部屋、仲間、小物部屋、浴場、獄舎、馬屋、物見櫓のある御殿の大邸宅を与えた。ことごとく西本願寺の負担。新撰組が不動堂村へ屯所を移したのは、慶応3年(1867年)6月である。現在のリーガロイヤルホテル京都あたり一帯である。
▼本光寺(木津屋橋事件)
伊東甲子太郎が油小路木津屋橋あたりで新撰組の刺客4,5人に襲われて、めった斬りされた。重傷の伊東は、油小路の法華宗本光寺に運び込まれて絶命した。昭和46年京都市が「伊東甲子太郎外数名殉難の地」の石碑を建てた。
▼興正寺
新撰組は西本願寺屯所から不動堂村屯所に移る時に隣の興正寺から強引に200両を借り上げた。
▼西本願寺の唐門
▼西本願寺屯所跡
土方歳三が、田舎っぽい壬生から南東約1.5Kmの西本願寺に目をつけて、強引に屯所にした。西本願寺は屈伏して、本堂北の集会所を新屯所に提供せざるを得なかった。
▼太鼓楼(右側) ▼お龍の実家(樽崎家跡)
▼近江屋跡(坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地)
慶応3年(1867年)11月15日夜、坂本龍馬と同志の中岡慎太郎は、近江屋の二階の奥の間で二人が話あっている最中に、佐々木只三郎指揮の身廻組の刺客に暗殺されてしまう。
▼坂本龍馬、お龍の独身時代の寓居跡
▼坂本龍馬が滞在した材木商・酢屋
▼池田屋騒動之址碑
元治元年(1864年)6月5日夜、新撰組は、京都市中の探索を続け、ついに旅籠・池田屋で肥後藩士・宮部や土佐、長州の倒幕派浪士の集会を探し当てる。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助などが踏み込み、斬りあいの末に志士7名死亡、23名捕縛という戦果を挙げた。
▼池田屋(池田屋騒動の地)
▼坂本龍馬・中岡慎太郎の像(円山公園)