清州城は、応永12年(1405年),管領斯波義重によって築城された平城です。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、下津城が消失し、文明10年(1478年)守護所が清須(清州)に移転することで尾張国を支配する。その後、織田信長の居城となり、本能寺の変の後、清州城主は次男の織田信雄となり、天正14年(1586年)に、大改修され、その後、豊臣秀次、福島正則と替わり、関ヶ原戦後、は、松平忠吉、徳川義直が城主になりました。その後、徳川義直が名古屋城へ移って慶長10年(1610年)廃城になりました。現在の天守は、平成元年(1989年)RC構造で建設された模擬天守である。
[所在地:愛知県清須市清州字古城]
<アクセス>JR東海道・清洲駅から徒歩15分。
▼清州城の石垣
▼清州古城跡碑
▼信長塀 ▼井戸
▼庭 園
▼模擬天守
▼書院 ▼天守よりの眺め
2013/05/08 訪城
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織田氏内紛 文明10年(1478年)
織田氏、織田敏定[尾張南部]と織田敏広[尾張北部]で分割支配。
織田敏定、織田敏広が争いを繰り広げる。翌年、和議が成立する。織田敏定が、清州城で尾張南部を、織田敏広が岩倉城で尾張北部を治める分割支配がはじまる。
岩倉城の戦 永禄2年(1559年)
織田信長が尾張を統一する。
駿河の今川義元軍25,000騎が尾張に侵攻する。織田信長軍の精鋭2,000騎は、豪雨と濃霧で油断して、桶狭間の木々の下で昼食を取っていた今川義元の本陣を午後1時に急襲する。今川本隊反撃できず敗走。大高城へ輿で逃げる今川義元の首級を上げる。
小牧・長久手の戦 大将2年(1584年)
織田信長死後の跡目争いで、織田信勝・徳川家康連合軍20,000騎と羽柴秀吉軍70,000騎が、争う。秀吉方の、三河撹乱作戦の失敗に終わる。
『織田信長』の問題
[問1] 信長が、家臣に命じていた日ごろの心構えは?
①朝起きたら、まず、わしに向かって参拝せよ。
②食事の前には、必ず、わしに感謝して合掌しろ。
③常に、わしのいる方向には足を向けるな。
[問2]桶狭間の戦の最高の功労者はだれか?
①今川義元を討ち伏せ、首を掻っ切った毛利新介。
②今川義元の動静を探った梁田政綱。
③今川義元に真っ先に斬りかかった服部小平太。
[問3]長篠の戦いで全兵士に持参を命じた物は何か?
①火縄を1本、持ってこい。
②柵用の木を1本、持ってこい。
③鍬か鋤を1本,持ってこい。
[問4]織田家への奉公を誘われた軍師はどう答えたか?
①禄はいらない。そばにいるだけで、満足に存ずる。
②3000貫というのは安い。もう一声あってしかるべし。
③いかに禄を下されようとも、信長公には仕えたくない。
[問5]信長が整備した幹線道路の目玉はどんなことか?
①ホウキを用意しておき、掃除をさせた。
②茶店を開かせて、休息をとれるようにした。
③馬の無料レンタルショップを開かせた。
『織田信長』の問題の答
[答1]③
[答2]② 梁田は、この地の郷士で、地理に詳しかった。『遺老物語』によると、3000貫の知行を得た。☚情報を重視した。
[答3]②
[答4]③
[答5]①