黒井城(別名:保月城)は、建武2年(1335年)赤松貞則が足利尊氏から丹波氷上郡春日部荘に所領を与えられ、標高356mの猪ノ口山山頂に砦を築いたのが始まりとされる。以後、赤松氏が統治したが、丹波地方は平安時代末期から清和源氏の流れを汲む豪族芦田氏の一族である赤井氏や荻野氏が勢力を維持しており、赤松氏と対立していた。
赤松氏の黒井城は、16世紀前半には萩野氏に奪われ、赤井時家の次男である赤井直正は天文23年(1554年)、叔父でもある黒井城主荻野秋清を殺害し、自ら黒井城となりました。赤井(萩野)直正は『悪右衛門』と恐れられた猛将であり、荻野氏を名乗って勢力を拡大した。山頂の曲輪群は堅固な石垣を築いて防衛を固め、さらに三方の延びる稜線上に曲輪群を置いて、全山を要塞化した。
天正3年(1575年)、山名氏から救援を求められた織田信長の命で、明智光秀が丹波侵攻を開始し、黒井城を攻撃する。明智光秀を一度は退けるも、赤井(荻野)直正が病没したことで情勢が悪くなり、天正7年(1579年)黒井城は落城した。その後、明智光秀は重臣の斎藤利三を黒井城主とした。ちなみにここで生まれた斎藤利三の娘が、のちに江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母となる春日局である。明智光秀が山崎の戦で敗死すると、黒井城には豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴、次いで川勝秀氏が入るが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い後、廃城となった。平成元(1989年)に国の史跡に指定された。
【所在地:兵庫県丹波市春日町黒井】
<アクセス>JR福知山線・黒井駅から登山口まで徒歩約10分
*登山口から黒井城跡山頂(本丸)には別途約50分(1.2Km)
▼黒井城の遠望 ▼黒井城跡の碑
本丸のある山頂周辺は平坦な削平地となっている。
▼黒井城縄張り図
▼三段曲輪跡
▼太鼓の段跡
▼石踏の段跡
▼東曲輪跡
▼三の丸跡
▼二の丸跡
▼本丸跡
山頂部の本丸は東西約48m、南北約22m。
▼本丸跡の石垣
本丸を囲む土塁上には、野面積の石垣を積み上げています。
▼狼煙の実演 ▼黒井城の武者の皆さん
▼本丸跡からの眺め
▼黒井城下館跡(現在の興禅寺)
春日局(幼名お福)生誕地。春日局の父・斎藤利三は明智光秀の重臣でした。
2019/04/28 訪城