三木城は、東播磨の豪族別所則治によって美嚢川南岸の台地上に築城され、別所氏歴代の居城であった。別所氏は東播磨で8郡を領し、石高およそ43万石と言われ勢力を張っていたが、織田と毛利の間に挟まれた三木城主別所長治は毛利に味方することを選び、毛利の援軍が来ることを信じて籠城戦に入った。織田信長の毛利攻めの前線となり、天正6年(1578年)から、織田の武将羽柴秀吉との三木城の戦いが繰り広げられたが、兵糧の搬入手段を失い、城内の食料が尽きたため、天正8年(1580年)1月17日、別所長治は、兵や領民の救命を条件に長治以下一族が自刃する道を選んで開城した。天正13年(1585年)、秀吉の代官中川秀政が城代として入城。このころ、天守が増築されたが、元和3年(1617年)の一国一城令によって廃城となった。三木城の遺材は明石城に用いられた。
【所在地:兵庫県三木市上の丸]
<アクセス>神戸電鉄栗生線三木上の丸駅下車徒歩約5分
▼三木城の看板 ▼階段を上がる
▼三木城跡の概要
▼かんかん井戸(中央部)(本丸跡) ▼忠魂碑(本丸跡)
▼本丸跡 ▼本丸跡の碑
▼別所長治辞世の碑(天守台跡) ▼別所長治像
「今はただ うらみもあらじ諸人の
いのちに代わる 我身とおもえば』
▼本丸跡からの眺め
▼稲荷神社(本丸跡) ▼二の丸跡の碑
▼雲龍寺 ▼雲龍寺にある別所長治の首塚
三木城の開城後、雲龍寺の住職が長治の首を
もらいうけ、菩提を弔うために首塚を築いた
▼三木城包囲の秀吉軍武将配置図
三木本城の籠城軍武将は、別所長治、別所友之、
小森与三左衛門、別所吉親
2023/7/17 訪城