nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

スバス・チャンドラ・ボース(1897年~1945年) [インド共和国]

2014年03月31日 | 歴史

  スバス・チャンドラ・ボースは、1897年にインド(当時は、イギリス領インド帝国)のベンガル州(現在のオリッサ州)で生まれた。父親は、弁護士であった。1919年イギリスのケンブリッジ大学に留学し、近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究した。帰国後の1920年には、インド高等文官試験に合格しながら、マハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に、身を投じるために資格を返上した。

 イギリスが武力でインドを支配している以上、インドの独立は武力によってのみ達成されるという強い信念を抱いており、インド会議派内の左派としてガンディーの非協力・非暴力運動に強く反対した。1939年、会議派主流と対立、ついに会議派から除名された。彼は、常に、インドの解放は、帝国主義者間の対立戦争を利用すべきであると考えていた。第二次世界大戦勃発後、猛烈な反英運動を展開し、逮捕された。獄中で病気にかかり、釈放された。太平洋戦争が始まると日本は、その後ドイツにいたボースを日本によこすよう何度も要求した。

 アジアの解放のために、マライ戦線において多くのセポイの捕虜(英軍の傭兵として戦ったインド兵の捕虜)を得た日本軍は、インドには軍隊がなかったために、藤原少佐は、シンガポールでこの捕虜をインドが独立するために、その中核となる軍隊として再編成し、インド国民軍[1万5000人 志願兵部隊]を結成し、インド侵攻のときに備えて訓練していたのである。

 1943年10月21日、シンガポールで自由インド仮政府樹立。スバス・チャンドラ・ボースが首班に就任した。

   ここでのボースの演説(要約)。

   他国から与えられた独立は、他国により簡単に奪われる。我々が血を流し勝ち取らねばインドの真の独立は得られない。何人が生き残れるか解らない。しかし 我らの任務はデリーで、勝利の行進をするまで終わらない。

   ボースの演説は、アジアの民衆の独立を高らかにうたい、大東亜宣言五原則 インド独立支援を訴えたのである。まさに強い信念の婆沙羅首班であった 11月東京で、ボースの主催する大東亜会議が東京の国会議事堂で開催された。

 アジアで初めてのアジアサミットのメンバーは、

      スバス・チャンドラ・ボース(自由インド仮政府首班) 

      ホセ・ラウエル(フィリッピン大統領) 

      ワンワイタヤコーン親王(タイ王国) 

      東条英機総理大臣(日本) 

      汪兆銘中華民国行政院院長(中華民国) 

      張景恵国務院総理(満州帝国)

      パー・モウ内閣総理大臣(ビルマ)である。

 その後、日本軍85,000人とインド国民軍15,000人は、共同でインドのデリーへのインパール作戦。死者3万人負傷者5万人の悲惨な大敗北する。インド国民軍が日本軍と一緒に血を流したという それが日本の敗戦後インドの独立戦争において大きな力になった。インド国民軍はその後,主にビルマで連合軍と戦う。日本の降伏にへこたれず、インドの戦いはまだ終わっていない。敵の敵は味方 戦後の世界戦略を見据えソ連に期待するース さらに 日本へ しかし当時の台湾から乗った飛行機が墜落で事故死(1945年8月18日午後11時41分) インド独立を夢見て後を同志に託した。

 戦後、インド国民軍は、イギリスの捕虜となった。1945年9月にインド国民軍指導者を「反逆罪」で全員死刑に裁いたイギリス軍の裁判が独立前夜のインドにおいて英印軍(セポイの傭兵のインド兵)はじめインド人の反乱を巻き起こしたため裁判は中止され,全将校が釈放された。さらに、ガンジーの指導の下に立ちあがった国民会議・学生・労働者・インド全土に反英闘争が広がり、イギリスは、どうすることもできず、二年後にインドは独立を繋がるのである。ボースは死してインドを独立に導きました。

 インド国家議事堂に飾られる三人の肖像は、

     左にインドの初代首相ネール、

     右にインド独立のガンディー、

 そして中央には指導者のスバス・チャンドラ・ボース。

  戦後のアジア・アフリカの独立が雨後の竹の子のようになされたのは、この大東亜戦争が一大転機であったのです。なぜか、ボースのお墓は、東京都杉並区の日蓮宗・蓮光寺にあります。終戦後、ボースの遺骨を引き取りに蓮光寺の住職が引き受けられ、それ以来法要されておられます

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*セポイ・・・インドでは、イギリス東インド会社が雇ったインド人兵士の呼び名。インド人傭兵。

*ローラット法(1919年3月18日制定

 インドの反英運動を弾圧するために、令状なしに逮捕、裁判抜きの投獄が認められた。

*サティアグラハ(非暴力運動)(1919年4月6日)

 サティアグラハとは真理をつかまえるという意味であり、危険にさいしても決して暴力を用いない非暴力の戦いをさすのである

 ヒンドゥー教本来の精神は非暴力であり、絶対に自己を抑制することを原則とする。

 ガンディーは、ヒンズゥーの教えからサティアグラハの運動を編み出し、自らその先頭に立った。

*ハルタル(1919年4月6日)

 闘争にあっては忠実に真理に従い、生命、人格、財産に対する暴力を慎むという規律を守りながらインド政庁の悪法に従うことを拒否する、という運動です。つまり、あらゆる仕事をやめることを意味する。

アムリツァール虐殺事(1919年4月13日)

 パンジャブ州で、三方を壁で囲まれた広場に集まった約1万の群衆の大集会対し、イギリス軍側は、装甲車を用意し、前触れもなしに射撃を命じた。弾丸は、1605発発射され、死者374名、負傷者千名以上におよんだ。ただちにパンジャブは、戒厳令下におかれ、飛行機による農村群衆に対する銃撃、爆撃が行われ、無差別の逮捕が始まった。この惨劇について、パンジャブ以外の地方でも何カ月にもわたって報道はされず、イギリス本国へすら半年以上も記事が差し止められたのである。

■□■西洋の植民地になるとこうなる■□■

https://www.youtube.com/watch?v=cT-3DE6nSZs

■□■大東亜戦争の名言集■□■

https://www.youtube.com/watch?v=Gz8s23-SQG4

 


下市町の広橋の梅林

2014年03月22日 | 花見

2014/03/19  奈良県吉野郡下市町の広橋梅林に車で、行き、広橋梅林観光駐車場に車を止めて、里山の散策コースを散策してきました

広橋梅林の概略図

広橋梅林観光駐車場

 

 

里山ハイキングコースへ

 

 

 

  

 

 

 

 つぼみもありましたが、開花している梅の花もありました。これからが見ものです


松阪岡寺山継松寺初午大祭と城下町めぐり

2014年03月12日 | 文化・歴史散策

2014/03/12  三重県松阪市の春を呼ぶ松阪岡寺山継松寺初午大祭と城下町めぐりに散策に行ってきました。

ハイキングコース>JR・近鉄・松阪駅・・・御城番屋敷・・・松坂城跡・本居宣長・・・松阪もめん手織りセンター・・・松阪商人の館・・・岡寺山継松寺(初午大祭)・・・JR・近鉄・松阪駅

御城番屋敷 土蔵(県指定有形文化財)

 

松坂城裏門跡

 

本居宣長旧宅(国指定特別史跡)👉松坂城内に移転しています

 

中御門跡

 

本丸跡

 

 

本居宣長 宅址・・・松阪の豪商の小津家から出た幕末の国学者・本居宣長

長谷川家宅・・・松坂を代表的する江戸時代の豪商

越後屋(のちの)三井家跡

 

三井家発祥地・・・松阪を代表する江戸時代の豪商(旧財閥・三井家)

松阪商人の館(津家宅・・・松阪を代表する江戸時代の豪商

 

岡寺山継松寺  本日は継松寺で初午大祭が、行われていました。

 初午大祭とは岡寺山継松寺で行われる初午大祭は、3月最初の午の日を中心に前後三日間にわたって行われる祭礼です。厄をはじき去るという縁起玩具の猿はじきやねじりおこしが売られ、人々はこれを買い求めて一年の無事を祈る。

 

初午大祭で継松寺からJR・近鉄松阪駅までたくさんの露店が出ていました。

本居宣長 (1730年~1801年)

 父は、伊勢国・松阪の木綿商、小津三四右衛門定利。母は、勝。遊学中、本居宣長(先祖の姓は本居)に名を改める。江戸時代の国学者・文献学者・医師。

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◆◇◆JR・近鉄・松阪駅スタートの三井高利コース豪商の道のハイキングコースがあります。


西山天王山駅から天王山山頂(山崎城跡)へ

2014年03月11日 | 文化・歴史散策

2014/03/09  阪急京都線・西山天王山駅から天王山山頂(山崎城跡)に登山してきました。              

アクセス>阪急京都線・西山天王山駅・・・柳谷観音・・・天王山山頂(山崎城跡)・・・観音寺(山崎聖天)・・・水無瀬神宮・・・桜井駅跡・・・JR東海道線・島本駅

 

 

 

谷寺(柳谷観音

 

                  天王山山頂(標高270.4m

  

山崎城跡・・・山崎城は、天王山山頂に築かれた

 

            山崎城跡よりの眺め

 

酒解神社

 

  

旗立松         ▼観音寺(山崎聖天)

 

観音寺(山崎聖天)・・・天王山麓の城郭寺院である。

 

水無瀬神宮

 

桜井駅跡(国指定史跡

 とは大化の改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を配置した役所の事。30里(当時の一里は約530mで、30里は約16km)ごとに設けられた。

楠木公父子子別れの石造

 1336年、戦に先立ち、劣勢を悟った楠木正成は、京都をいったん足利方に明け渡して軍勢の増強を図るべきと軍議で献策するが、後醍醐天皇は受け入れなかった。出兵を命じられた正成は、「今度の戦いは必ず敗北する」との意見状を後醍醐天皇に送っている。正成は、死を覚悟して、一族郎党約500騎をもって、湊川の戦場に赴くことになった。その途中、桜井駅にさしかかった時、正成は数え11歳の嫡子、正行を呼び寄せて「おまえは、故郷の河内に帰す」と告げた。今生の別れになった桜井駅の別れ。湊川の戦で、新田軍は、すぐさま敗走したが、楠木軍は善戦する。しかし、しだいに敗色が濃くなり、正成は死を覚悟した。最後は、弟・楠木正季とお互いに刺し違えて自害した。正成はの生涯は、「太平記」に活写され、敗戦を見通しながら、御醍醐天皇に従って死地に赴いたその最後の姿は、長く人々の心に残ることとなった。

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湊川の戦  延元1年(133年)

 九州で30,000騎の軍勢と水軍を整え、再挙した足利尊氏・直義の軍討伐のため, 新田義貞10,000騎、楠木正 成・正季500騎で戦うが、新田義貞が、すぐさま敗走したため、包囲され、兵力差を埋めることができず敗れてしまう。楠木正成は弟・楠木正季と刺し違え、自害する。足利尊氏は、入京する。

楠木正成  (生年不詳~1336年)

 金剛山のふもと、河内の赤坂を本拠とし、運送労働者を束ねていたため和泉・北紀伊にもかかわりをもつ土豪。1331年後醍醐天皇に応じて赤坂城で挙兵。建武政権樹立に大きな勲功をあり、天皇の信任も厚かった。足利尊氏が叛いたのちも、一貫して南朝方で戦い、九州から東上する足利尊氏軍と湊川で戦って戦死した。

 


山崎城

2014年03月10日 | 京都府の城郭・環濠

  山崎城は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎の天王山にあった山城。天王山は、標高270.4mの低い山ながら摂津国と山城国を分ける位置にあり古来より交通、軍事軍事の上から重要視され、特に応仁・文明の乱の時には、戦がしばしばあり、山上に城も築城されました。さらに天王山の名を世に知らしめたのは、天正10年(1582年)の羽柴秀吉軍と明智光秀軍の山崎の合戦であります。この合戦によって勝利をおさめた豊臣秀吉は、天王山に築城し山麓にある宝積寺も含めて城郭とし、大山崎を城下町にしました。しかし天正11年(1583年)4月の柴田勝家との賤ケ岳の戦に勝利後、大阪城築城を開始し、大阪築城が本格化すると、天正12年(1584年)4月に山崎城は破却された。今も山中には門跡、堀跡、土塁跡、井戸跡石垣の跡等がいたるところに見られます。

[所在地:京都府乙訓郡大山崎町字大山崎]

アクセス>JR京都線・山崎駅から徒歩で約30分

山崎城の概要

天王山山頂(標高270.4m山崎城主郭跡

 

山崎城概略図

井戸跡                               ▼曲輪跡

 

2014/03/09  訪城

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山崎の合戦  天正10年(1582年)6月13日夕刻

  本能寺変後、明智光秀16000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40000騎とが山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は、一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起を図るべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ、自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際は11日間の天下人であった。


尼崎南部の城跡・寺町・運河めぐり

2014年03月09日 | 文化・歴史散策

2014/03/08  兵庫県尼崎市南部の尼崎城跡・寺町・運河めぐりの散策に行ってきました。

ハイキングコース>阪神・尼崎駅・・・尼崎城跡・・・寺町・・・貴布禰神社・・・北堀運河・・・北堀水門・・・阪神・武庫川駅

 

尼崎城略図

▼教職員と児童が一緒になって苦心して製作された尼崎城です。

 

尼崎城址碑   当時を模して造られた城壁(尼崎城址公園)

 

城下町と寺町

 天正18年(1590年),豊臣秀吉が京都の東の京極に寺町を作ったことをきっかけに、全国の城下町に数多くの寺町が建設されました。尼崎の寺町もその一つで、尼崎城築城の際に寺院が一箇所に集められました。また城下町の前衛部分を軍事的に固めるためにも利用され、大きな建物と境内は出城の役割を担いました。明治以降、都市化により昔の面影を失っている中で、約400年間寺院区画も当初のまま残されている尼崎の寺町は、今日において貴重な存在であり、多くの文化的遺産、歴史の資料が残っています。

 

 

法園寺

 

法園寺👉佐々成の切腹の地

 佐々成政は、天正15年(1587年)の九州征服の功で肥後一国54万石を与えられたが、早急に太閤検地を行おうとしたために反発する国人が一斉隆起し、これを鎮圧できなかった。肥後国人の一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政が天正16年(1588年)5月14日尼崎の法園寺で切腹させられた。

貴布禰神社      ▼北浜であい橋

 

北堀水門

 

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佐々成政 (1536年~1588年)

 尾張比良城主として織田信長に仕え、天正3年(1575年)9月前田利家・不破光治とともに、相給知行で越前府中に置かれ、柴田勝家の目付を命じられた。目付といっても軍事組織上は柴田勝家に属し、主に北陸で活躍している。天正9年2月、越中一国を与えられ、富山城主。本能寺の変後は賤け岳の戦・小牧の戦と一貫して豊臣秀吉に対抗したが、天正13年8月、攻められてついに降伏する。天正15年(1587年)の九州征服の功で、肥後一国54万石を与えられたが、肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉され、天正16年(1588年)5月14日に摂津尼崎の法園寺で切腹させられた。


『伊勢街道・三雲菅内』散策

2014年03月04日 | 文化・歴史散策

 2014/03/03  近鉄山田線・松ケ崎駅から松浦武四郎記念館までの伊勢街道・三雲管内を散策してきました。

 ハイキングコース>近鉄・松ケ崎駅・・・舟木家長屋門・・・市場庄の街並・・・中道公会所・・・月本追分・・・松浦武四郎生誕地・・・松浦武四郎記念館・・・近鉄・伊勢中川駅

近鉄松ケ崎駅

  

舟木家の長屋門

 舟木家は、南北朝時代から続く家柄で江戸時代には久米村惣庄屋、津藩無足人となり、その後紀州藩主より「津領地士(郷士)」としてお目見を許されるまでになっています。 舟木家の格式を示す長屋門は、屋敷の南側に位置しています。この長屋門は、寛政6年(1794年)に建築され、天保5年(1834年)に改修されました

 

伊勢街道・久米町の街並

市場庄町の街並

 市場庄公会所

▼「忘れ井」の道標 市場庄町の街並

 

三渡川            常夜燈(三渡川の橋の右側)

                                                                                    文政元年(1818年献納)

 

常夜燈            ▼小津の一里塚跡の碑

 

中道公会所       ▼道標・常夜燈・山の神

                 第61回式年遷宮を記念して地元の人が建てました

 

月本追分・・・伊勢街道と奈良街道の分岐点

  

松浦武四郎の生家

 松浦武四郎は、文化15年(1818年)2月6日伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市小野江町)で生まれました。父は松浦圭介、母は中村喜右衛門の娘とくで、圭介は和歌山藩(紀伊徳川家)の地士(郷士)を努めていました。生家の前が、伊勢神宮に向かう伊勢街道です。

 

真覚寺・・・「松浦武四郎」が7歳から、家のすぐ近くにある曹洞宗の真学寺(現在は、真覚寺)の寺小屋に通い、住職の来応和尚から読み書きを学んだところです。

小野江常夜燈・・・雲出川橋詰めの道路東側の堤防上にあります。その昔雲出川には橋がなく人や馬は、渡し船などで往来していた当時の旅人の安全を願って、寛政12年(1800年)に奉納されたものです。

 常夜燈,仏教とともに伝来した石灯籠の一つで、闇夜を照らすことから常夜燈といわれ、道中の安全を守る役割も持っていました。石に大きく刻まれている常夜燈には、常に心の不浄を焼き払い家内安全を祈るもので神仏に帰依するために献燈することを意味します。常夜燈の奉献については、建立する土地と献燈用の油代を賄う田を寄進し、地元で管理してきました。この常夜燈は、当時の伊勢信仰を物語る大切な文化遺産です。{常夜燈の内容の一部抜粋}

松浦武四郎記念館

 

松浦武四郎 (1818年~1888年) 

 文化15年(1818年),伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて、和歌山藩(紀伊徳川家)の地士(郷士)・松浦圭介の四男として生まれる。幕末から、明治維新という日本の歴史の大きな転換期。28歳から42歳の成壮年期に武四郎は大きな探究心を携えて、旅行家、冒険家、作家、学者と類まれな多彩な才能を発揮し、蝦夷地を6度にわたって踏査し、詳細な内陸地図(東西蝦夷山川地理取調図)を完成させた。明治2年(1869年),戊辰戦争が終り、開拓使が設置されると、武四郎はこれまでの実績をもとに「開拓判官」に任命されます。「蝦夷地に替わる新しい名称を考えるようになり、「北加伊道」など6つの案を政府に提出し、この案をもとに「北海道」と名付けられた。その他、北海道の地名の多くが武四郎によって名づけられました。また、武四郎が、場所請負商人の排除を訴える中で、江戸時代に場所請負制度によって利益を得てきた商人たちは、このままでは自分たちの利益を失ってしまうことに黙ってはいませんでした。だが、鍋島直正(👉佐賀藩主)の後任である開発長官・東久世通禧に代わると長官は、役所に出ず、自宅で商人と密会し、賄賂を貰うといったありさまでした。当時,開拓判官は長官(東久世通禧👉公家)、次官(島義勇👉佐賀藩士で開拓長官・東久世と衝突し、明治3年(1870年)1月19日解任された(のち佐賀で江藤新平と共に佐賀の乱を起こす)に次ぐ政府の高等官(勅任官)であり、月給は二百円(現在の時価で二百万円に相当する)でした。また、武四郎は、これまでの功績から「従五位」に叙せられていましたが、開拓使を辞職する際に「従五位」を返上しました。地位や名誉ではなく自分の信念を貫くことと、何よりも不正を許さなかった姿勢に武四郎の正義感の強さと、人間性が感じられます。まさに婆沙羅開拓判官でした。北海道開拓の歴史というと、近代化に向けて華華しく発展していく様子に目がいきますが、その裏側には政府の政策によって古くから住んでいた土地を失い、独自の文化を否定され、民族の尊厳を傷つけられていったアイヌの人々の辛苦がありました。武四郎は、大きな政治の流れの中で、自分ひとりの力ではどうすることもできなかったことは無念であり、何よりもアイヌの人々に申し訳ない気持ちでいっぱいであったのだろうと思われます。その後、武四郎は骨董品の収集を趣味としながら、再び全国各地をめぐり歩きました。晩年には、三重県と奈良県にまたがる大台ケ原に3度も登り、地元の人々が利用しやすいように,自費で登山道の整備、山小屋の建設などを行いました。明治21年(1888年)2月10日,東京の神田五軒町の自宅にて71歳で死去。明治政府は、武四郎が開拓判官を辞職する時に返上した「従五位」という位を、今までの功績から再び武四郎に送ることを決めました。なお、生地の三重県松阪市小野江町の「松浦武四郎記念館」には、武四郎の多くの業績・資料等が収蔵されています。

「北加伊道」に込められた思い「アイヌの民族の大地」という意味の「北海道」

 「加伊(カイ)」とはアイヌ語で、この国に生まれた者」という意味。アイヌへの敬愛を忘れなかった武四郎は、「北のこの土地に生まれし者(アイヌ)の土地」という意味を込めて「北加伊道」という名を提案した。

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第19回武四郎まつり・・・北海道の名付け親「松浦武四郎」を称える祭りです。

 松浦武四郎記念館

三重県松阪市小野江町383番地

第19回武四郎まつりが、平成26年2月23日(日曜日)松浦武四郎記念館で、開催されました

 

2014/02/23  訪問 


松ケ島城

2014年03月03日 | 三重県の城郭・環濠

 松ケ島は伊勢神宮への参宮古道沿いにあって伊勢湾に面し、海陸交通の要衝であった。天正8年(1580年)近くの田丸城が消失したため、織田信雄(織田信長の二男)が新たに城を築き、松ケ島城と称した。五層の天守閣のある城であった。その後、織田信雄の家臣・津川義冬、滝川雄利が城主となり、最後は、天正12年(1584年)豊臣秀吉の部下・蒲生氏郷が12万石で入部した。ところが、城下が手薄だったため、天正16年(1588年)蒲生氏郷は、新しく松阪城を築いて,同年11月末までに松ケ島城の町人や寺社は全て松阪城に強制移住させられて、松ケ島城と城下町は廃城となった。現在は周りが畑ばかりの場所に幅約20m,高さ約2mの丘が1つだけあるだけです。昭和31年12月に、三重県指定史跡に指定されました。

[所在地:三重県松阪市松ケ島字城ノ腰]

アクセス>近鉄山田線松ケ崎駅から徒歩15分

松ケ島城の概要

 ▼本丸天守跡

本丸天守跡                                       ▼松ケ島城跡碑

 

2014/03/03 訪城

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北畠信雄(きたばたけのぶかつ)(1558年~1630年)

 織田信長の二男。永禄12年(1569年)秋、北畠氏との講和の時、養嗣子として送り込まれた。天正3年(1575年)6月より北畠当主。翌年11月、北畠一族を滅ぼし、南伊勢一帯の支配権を握る。その後、遊撃軍として各所を転戦。天正7年9月には、勝手に伊賀に兵を出して敗績し、父、織田信長より叱責された。伊賀は二年後総大将として平定,三郡を与えられる。本能寺の変後、弔い合戦に参加できず、尾張の加増にとどまる。小牧・長久手の役で徳川家康と組んで豊臣秀吉と戦ったが、結局これに従う。天正18年(1590年)、国替えを拒んで豊臣秀吉の怒りを買い、所領を没収、下野に配流された。

白米城伝説  応永22年(1415年)

  足利幕府に対抗し松阪城に立て籠もった北畠満雅の軍は幕府軍の水断ちによる兵糧攻めに対し、白米を流して水が豊富にあるように見せかけて撃退した。