2014/02/20 中世の自由・自治都市『堺』を散策に行ってきました。
<ハイキングコ-ス>南海本線・七道駅・・・清学院・・・鉄砲鍛冶屋敷・・・山口家住宅・・・本願寺堺別院・・・妙国寺・・・関口神社・・・与謝野晶子生家・・・千利休屋敷跡・・・南宗寺・・・環濠・・・阪堺電軌阪堺線・宿院駅
◆堺の歴史◆
中世の時代、堺は日本で唯一の裕福な商人による自治の行われていた自由・自治都市であり、町を守る環濠としての役割を果たした土居川に囲まれていました。堺の繁栄に恐れを覚えた豊臣秀吉は、1586年に環濠を埋める命を下しました。その後、1615年の大阪夏の陣の後、徳川家康によって再び一周り大きく堀り起こされました。1704年に大和川が付け替えられると、土居川の河口に大量の土砂が堆積し、水が流れなくなりました。そのために新たに環濠が掘られましたが、それが今の内川です。環濠の一部は、阪神高速道路の建設に伴い埋め立てられましたが、現在も堺の旧市内を囲んでいます。環濠で囲まれた町は、基盤の目のように整備され、東西南北いずれからも町に出入りできるように多くの橋が架けられ、当時の日本の中でも先進的なインフラが整備されていたことを示しています。
▼南海七道駅 ▼河口慧海の像(南海七道駅前)
▼清学院(堺市立町屋歴史館)
江戸時代後期から明治時代初期にかけて寺小屋が開かれていた修験道の寺院。日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海もここで学んでいました。平成14年に国の登録有形文化財に登録されています。
▼鉄砲鍛冶屋敷(堺市指定有形文化財)
戦国時代の1543年から堺で鉄砲の生産が始まり、日本一の鉄砲生産地でした。わが国で唯一の現存する江戸時代の鉄砲鍛冶工房です。
▼山口家住宅(堺市立町屋歴史館)
江戸時代初期の町屋として、全国的にもきわめて貴重な民家で、昭和41年に国の重要文化財に指定されています。
▼本願寺堺別院
本願寺堺別院は、蓮如の創建で、文政8年(1825年)に再建された現在の本堂は、堺最大の木造建築です。明治4年から10年間、堺県庁の庁舎として使用されました。堺県は、和泉、河内、大和をあわせた大きな県(現在の大阪府東・南部から奈良県にまたがる地域)でした。
▼妙國寺
妙國寺は、永禄5年(1562年),堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と堺の豪商、油屋常言の息子の日光上人の尽力により創建。天正10年(1582年)6月2日京都で本能寺の変が起こった時、徳川家康は、堺見物で妙國寺に泊っていました。慶応4年(1868年)の堺事件の土佐十一烈士切腹の地でもあります。
▼史跡土佐十一烈士墓
▼関口神社
神功皇后により創建。旧市街唯一の式内社で海の神様として知られ、住吉大社の奥の院といわれています。明治時代には、本神社境内に、現在の堺市役所、大坂府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校等が置かれたこともありました。
▼大阪府立三国丘高等学校発祥之地の碑
▼与謝野晶子生家跡
女流歌人、与謝野晶子(1878年~1942年)の生家跡。現在は、歌碑と案内板が建てられています。
▼千利休屋敷跡
16世紀、堺の裕福な町衆に生まれた千利休は、「わび茶」の文化を大成しました。現在の茶道千家の始祖である利休の屋敷跡には、椿の井戸が残されています。
▼南宗寺
三好長慶が、建立し、大坂夏の陣で焼失した後、元和5年(1619年)沢庵和尚により再建された。千家一門の供養塔、伝説の徳川家康の墓がある。
▼環濠
▼環濠 ▼宿院駅
宿院駅からいわゆるチンチン電車で天王寺へ戻りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
和泉堺石津浦の戦 暦応元年(1338年)
南朝方・陸奥守北畠顕家の奥州軍、畿内の足利勢制圧のために上洛し、北朝方・高師直の軍と激戦となる。北畠顕家が堺の石津で討死。陸奥遠征軍壊滅。
応永の乱 応永6年(1399年)
足利義満の命で5,000騎の大軍を率いて周防から堺に着いた和泉と紀伊の守護職も兼務する大内義弘は、入京せず逆意を表す。大内義弘に呼応した鎌倉公方足利満兼が西上せず、将軍足利義満の幕府軍の30,000騎の攻撃で堺城が陥落。大内義弘討死。
堺が自由都市として町衆の自治支配となる 応永26年(1419年)
堺の南荘が、領主の京都相国寺に対して、730貫の年貢請負をし領主の直接支配を排除した。のち堺の南荘、北荘から選ばれた36人の会合衆によって町の自治が一層強まる。
堺会合衆(町衆)による自治制の終り 永禄12年(1569年)
堺が三好三人衆を援けるのを織田信長に攻められ、屈服して矢銭2万貫を織田信長に献じる。
堺事件 慶応4年(1868年)
慶応4年(1868年)2月15日午後3時頃、当時は外国に対して開港地となっていなかったにもかかわらず、堺港に、フランス帝国水兵数十名上陸して町内で遊びまわった。夕刻、近隣住民の苦情を受けた堺の警備にあたっていた土佐藩士数十名との間で銃撃戦が起こり、フランス帝国水兵は、11名が死亡し多数が負傷しました。この事件は、国際問題となり、責任を追及された土佐藩士十一名が堺の妙國寺の境内にて切腹しました。彼らは妙國寺の北側にある宝珠院に葬られました。
日本やアメリカなど34ケ国が加盟する経済協力機構(OECD)は、2月13日、外国人の金融資産を管理するために,外国人の口座情報等を加盟国間で共有する仕組みをつくることで合意した。2月22日23日にシドニーで開催される主要20ケ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議でも協力を求める。2年後の2015年末までに各国が実地できる体制を整えるとしている。各国は、所得を海外の口座に移して預金することが絶えない。このため、国内に住んでいない「非居住者」の口座情報を各国の国税当局が把握して、口座の名義人が実際に住んでいる国の国税局に口座残高、利子や配当の受け取り総額を把握し各国に報告をする体制をつくる。
日本のいわゆる悪僚(財務省・国税庁)は、「富裕層が海外に持つ口座を全て把握し、税金を取り締まる」としている。
2014/02/11 大阪府(摂津国)と京都府(山城国)の境に位置する山崎へ『山崎の合戦跡』の地を散策に行ってきました。
山崎は、淀川沿いにあり、平安時代には山城国の国府が置かれた地。西国から京に入る交通の要所として栄えた。名水でも知られ、千利休が茶室「待庵」を造った。
<ハイキングコース>JR長岡京駅・・・勝龍寺城公園・・・勝龍寺・・・淀川河川敷・・・観音寺(山崎聖天)・・・山崎合戦之地脾・・・旗立松・・・宝積寺・・・JR山崎駅
▼勝龍寺城公園(勝龍寺城跡)
▼勝龍寺
山崎の合戦の時、明智光秀本陣は勝龍寺の南、約500mに置いた。
▼天王山登山口
▼観音寺(山崎聖天)山門
▼観音寺(山崎聖天)境内
▼空堀跡
▼旗立松(山崎の合戦の史跡)
羽柴秀吉は、天王山へ駆け登り、味方の士気を高めるために松の樹上高く千成瓢箪の軍旗を揚げた。これを見た羽柴軍は、一気に敵陣内に攻め入り明智軍はその結果防戦一方になり総崩れになってしまった。これによって光秀は、僅かな手勢を従えて近江に落ちていくのである。現在の松は、五代目の旗立松である。
▼山崎合戦之地脾
▼青木葉谷展望台 ▼青木葉谷展望台からの眺め
▼宝積寺・・・行基によって開基。聖武天皇の勅願寺。真言宗智山派
山崎の合戦の前日、6月12日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の本陣が宝積寺に置かれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山崎の合戦 天正10年(1582年)6月13日夕刻
本能寺の変後、明智光秀16,000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40,000騎とが山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は、一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起をはかるべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ、自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際には、11日間の天下人であった。
①6/11 秀吉軍先遣隊、天王山(標高270m)に布陣。 秀吉本陣は尼崎。
②6/12 秀吉軍、宝積寺に本陣を置く。
③6/13 円明寺川(小泉川)を挟んで両軍が対峙する。
④6/13 午後4時から戦闘開始。
⑤6/13 午後6時光秀が勝龍寺城に撤退。
⑥6/13 秀吉軍、勝龍寺城を包囲。
⑦6/13 光秀が逃亡。近江の坂本城を目指すが、途中の山科・小栗栖で落ち武者狩りにあって自害する。
大垣城は、明応9年(1500年)土豪の竹腰尚綱によって牛屋川東河岸にあった牛屋に築城したのが始まりです。天文4年(1535年)には、美濃国守護土岐氏の家臣の宮川安定が大尻に築城したとも言われています。天文13年(1544年)に織田信秀により落城し、織田信辰が5年間城主を務める。その後、天文18年(1549年)斎藤家臣の竹腰尚光が城主となる。永禄2年(1559年)には、氏家直元が城主となり、土塀・堀・総囲い等を整備する。織田氏、斎藤氏、織田氏、と支配権が移った後、天正11年(1583年)池田恒興が、城主となったころから、城郭として整備され、伊藤氏時代に白亜の天主が築かれた。関ヶ原の戦いでは、当時城主であった伊藤盛宗が西軍に属したために、西軍の本営として利用され、石田三成が、率いる主力部隊は、大垣城から決戦の地関ヶ原へ出撃。東軍は、関ヶ原盆地で繰り広げられた決戦に勝利を収めると、大垣城を包囲。石田三成の義弟の福原直高は、留守を任されていたが、降伏勧告に応じて開城した。江戸時代には、、譜代・親藩大名が歴任し、戸田氏10万石の時代に明治維新を迎えた。天主閣は、戦災によって焼失したが、昭和34年(1959年)再建された。本丸、二の丸跡は、大垣公園として整備されている。
[所在地:岐阜県大垣市郭町二丁目]
<アクセス>JR大垣駅下車南口から徒歩7分
▼大垣城の概要
▼大垣城絵図
▼東門(旧柳口門)
▼天主閣(復興天主閣)
▼乾隅櫓
▼西門 ▼戸田氏鉄公騎馬像
▼天主閣よりの眺め
2014/02/09 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
関ヶ原の戦 慶長5年(1600年)
天下を二分する戦。東軍・徳川家康軍9万騎と西軍・毛利輝元(石田三成)軍8万騎が、美濃・関ヶ原で激突。結果は、西軍の敗北。
◆氏家直元(卜全) (生年不明~1571年)
美濃・大垣城主。西美濃三人衆の一人。斎藤氏に仕える重臣だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)稲葉良通(一鉄),安藤守就とともに、織田信長に内応。以後、織田信長配下として活躍。元亀2年(1571年)伊勢長島攻めに従軍。退却の時,殿軍を受け持ち、討ち死にした。長男直通が三人衆の一角を担った。
曽根城は、永禄年間(1558年~1569年)の初期,揖斐川の支流平野井川の湾曲部を利用して稲葉通貞により築かた平城です。本丸は、約1000坪、二の丸を含めると約5000坪と推定されます。その子稲葉良通(一鉄)は、斎藤龍興・織田信長に仕え、稲葉貞通の代の天正16年(1588年)に郡上八幡に移封。後は、西尾光教が入府するが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後に揖斐陣屋に移り、慶長6年(1601年)廃城となった。享保19年(1734年),稲葉一鉄が母の菩提をともなう為に建立した華渓寺が、本丸跡に移築された。また、城跡周辺は、曽根城公園として整備されています。
[所在地:岐阜県大垣市曽根町1丁目]
<アクセス>JR大垣駅下車、大垣駅北口より名阪近鉄バスで大野バスセンター行きに乗車 「曽根」下車徒歩8分
▼曽根城の概要
▼曽根城跡図
▼曽根城本丸跡に建つ華渓寺
▼曽根城の石垣 ▼曽根城公園
▼曽根華渓寺の福水
2014/02/9 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆稲葉良通(一鉄) (1516年~1588年)
美濃崇福寺の僧侶だったが、牧田合戦で一族討ち死にのため家を継ぐ。土岐・斎藤氏に仕える重臣で、美濃・曽根城主。しかし、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)氏家直元・安藤守就とともに、織田信長に内通、稲葉山落城の因を作った。以後、氏家直元。安藤守就とともに西美濃三人衆と称された。織田信忠が美濃支配を譲られた後も、三人衆は、織田信長に直属した。姉川合戦で徳川家康援軍として武勇を上げた。本能寺の変後、秀吉・勝家の対立深まる中、秀吉方に属した。その後、揖斐郡・清水城に移り、74歳で病没。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
✡梁川星厳記念館(華渓寺境内)
当地出身(曽根出身)の江戸時代の漢詩人梁川星厳とその妻紅蘭を記念した梁川星厳記念館です。
▼梁川星厳邸宅跡(大垣市指定史跡) ▼梁川星厳・紅蘭の像(曽根城公園)
長良川西岸の墨俣の地は、交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた。尾張の織田信長による美濃侵攻にあたって、織田方の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が永禄9年(1566年)の長良川の美濃川の岸に、わずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣城である。一夜にして築いた伝わるが、建築資材を筏に組んで上流から流し、2,3,日で組み立てたものであった。そして藤吉郎は、完成した城の城将に据えられたという。現在は、河川改修で城跡の半分が削られてしまったが、残された土地は公園として整備され、公園内に鉄筋コンクリート造四層六階建ての天主様式の墨俣一夜城歴史資料館が建つ。墨俣一夜城歴史資料館では、築城当時のようすが映像などによって解説・展示されている。
[所在地:岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1]
<アクセス>JR大垣駅南口から名阪近鉄バスで岐阜聖徳学園大学行きに乗車、「墨俣」下車徒歩約5分
▼豊臣橋のたもとには、瓢箪とともに「太閤出世橋」の碑が、、、
▼模擬天主閣(墨俣一夜城歴史資料館)
▼藤吉郎の馬柵
▼太閤秀吉出世の泉
▼模擬天主閣よりの眺め
2014/02/09 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆安藤守就(道足) (生年不明~1582年)
美濃の人。本巣郡・北方城主。斎藤氏に仕える重臣の一人だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年),稲葉良通(一鉄)・氏家直元とともに織田信長に降りる。以後彼らは西美濃三人衆と呼ばれ、まとまって行動をすることが多い。美濃が織田信忠の支配下に置かれた後も、彼等は織田信長に直属した。天正8年(1580年)8月、武田に通じたとの嫌疑により、突然追放され所領を失う。本能寺の変後、旧領復帰のため隆起した安藤守就ら安藤一族を討伐したのはかっての三人衆の同僚であった稲葉良通(一鉄)であった。
◆稲葉良通(一鉄) (1516年~1588年)
美濃崇福寺の僧侶だったが、牧田合戦で一族討ち死にのため家を継ぐ。土岐・斎藤氏に仕える重臣で、美濃・曽根城主。しかし、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)氏家直元・安藤守就とともに、織田信長に内通、稲葉山落城の因を作った。以後、氏家直元・安藤守就とともに西美濃三人衆と称される。織田信忠が美濃支配権を譲られた後も、三人衆は、織田信長に直属した。姉川合戦で徳川家康援軍として武勇を上げた。本能寺の変後、秀吉・勝家の対立の深まる中、秀吉方に属した。その後、揖斐郡・清水城に移り、74歳で病没。
◆氏家直元(ト全) (生年不明~1571年)
美濃・大垣城主。西美濃三人衆の一人。斎藤氏に仕える重臣だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)稲葉良通(一鉄)・安藤守就とともに、織田信長に内応。以後、織田信長配下として活躍。元亀2年(1571年)伊勢長島攻めに従軍。退却の時、殿軍をうけ持ち、討ち死にした。後、長男直通が三人衆の一角を担った。