nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

米政府関係者が、イラン領空侵犯の事実を認める

2019年06月26日 | 歴史

 アメリカ政府関係者の1人が、『イランに撃墜されたアメリカの無人偵察機は、イランの領空に侵入していた』と語りました。

 イギリスの新聞ガーディアンのインターネットサイトは、『アメリカのトランプ大統領とその支持者らが6月21日金曜、ツイッターやインタビューの中で、トランプ大統領が、人的被害を阻止するためにイランへの空爆を中止し、イランの地元の司令官が許可なくアメリカの無人機を撃墜し、これを策略的な陰謀だと主張している一方で、アメリカのある政府高官は匿名で、表向きに事実に近い発言をし、対イラン攻撃の停止の理由は、この無人機やそのほかのアメリカの無人機P8Aポセイドンが実際に、本来の航路をはずれ、イランの領空に侵入していたことによるものだとしている』と報じています。

 今月20日、アメリカの無人偵察機グローバルホークが、イラン南部の領空を侵犯したため、同国のイスラム革命防衛隊・宇宙航空部隊に撃墜されました。(ソース:Pars Today japanese)

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コメント

●イラクの大量破壊兵器に続いてまたウソがバレましたね❣

●ウクライナー関連でも、ロシア叩きも、タンカーの攻撃も全部嘘❣

●P8Aポセイドンは、無人機ではないよ❣

 対潜哨戒機のP8Aポセイドンは有人機のため、一緒に領空侵犯した無人偵察機のグローバルホークを警告として撃墜しただけ❕ アメリカが悪い

トランプは知っていた。

●先に仕掛けた上に難癖つけて正当化、イラクの時と全く同じだな❕


イランの防空システム

領空侵犯で撃墜された米空軍の無人偵察機グローバルホーク

撃墜されたグローバルホークの残骸


[動画] 韓国の大嘘を暴く  韓国が隠したい映像

2016年09月04日 | 歴史

韓国の大嘘に下條正男(拓殖大学教授)が迫る!

韓国とNHKが日本人に最も見せたくない国会中継!

反日議員はこれを見て勉強せよ!

[動画]https://www.youtube.com/watnh?v=Wn3XKn-UJAk

                2011年5月26日 国会外交防衛委員会の様子です。

[コメント]

・NHKはこういう国会中継は報道せよ!

・反日議員は最後まで上記の動画を見て勉強しておけ!


大東亜戦争の真実

2015年03月28日 | 歴史

  わが国で言うところの、大東亜戦争、世界的には太平洋戦争とよばれる。この戦争で犠牲になった日本の死者は、310万人。それにしても、なぜこのような負けるに決まっている戦をおこなってしまったのか、繰り返し問わねばなりません。そして、思うことは、この戦争は日本にとって、少なくとも侵略戦争ではなかったということです。情報力を持たず、外交戦略を誤って世界から孤立し、ついに負ける戦争を始めさせられてしまったのです。

■□■大東亜戦争の真実■□■

https://www.youtube.com/watch?v=UdpaTT5EYI0&index=3&list=PL15ABE4355054BF62

まだ太平洋戦争と呼びますか?[大東亜戦争に込められた想い]

https://www.youtube.com/watch?v=PzymgZVDPAM

ミャンマーで大東亜戦争はどのように教えられているか。

https://www.youtube.com/watch?v=k3wmril0nIQ

日本人が知っておきたい戦争の真実 part. Ⅰ

https://www.youtube.com/watch?v=NJGeizNJMBU

東條由紀子様が語る大東亜戦争の真実と東条英機総理の遺言

https://www.youtube.com/watch?v=07iyY6HhkRg

■□■大東亜戦争の名言集■□■

https://www.youtube.com/watch?v=Gz8s23-SQG4

インドネシア独立戦争

https://www.youtube.com/watch?v=HPWS4h3WmI4

ビルマ(現ミャンマー)独立の父

https://www.youtube.com/watch?v=ZpGwvCKc_-Q 


スバス・チャンドラ・ボース(1897年~1945年) [インド共和国]

2014年03月31日 | 歴史

  スバス・チャンドラ・ボースは、1897年にインド(当時は、イギリス領インド帝国)のベンガル州(現在のオリッサ州)で生まれた。父親は、弁護士であった。1919年イギリスのケンブリッジ大学に留学し、近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究した。帰国後の1920年には、インド高等文官試験に合格しながら、マハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に、身を投じるために資格を返上した。

 イギリスが武力でインドを支配している以上、インドの独立は武力によってのみ達成されるという強い信念を抱いており、インド会議派内の左派としてガンディーの非協力・非暴力運動に強く反対した。1939年、会議派主流と対立、ついに会議派から除名された。彼は、常に、インドの解放は、帝国主義者間の対立戦争を利用すべきであると考えていた。第二次世界大戦勃発後、猛烈な反英運動を展開し、逮捕された。獄中で病気にかかり、釈放された。太平洋戦争が始まると日本は、その後ドイツにいたボースを日本によこすよう何度も要求した。

 アジアの解放のために、マライ戦線において多くのセポイの捕虜(英軍の傭兵として戦ったインド兵の捕虜)を得た日本軍は、インドには軍隊がなかったために、藤原少佐は、シンガポールでこの捕虜をインドが独立するために、その中核となる軍隊として再編成し、インド国民軍[1万5000人 志願兵部隊]を結成し、インド侵攻のときに備えて訓練していたのである。

 1943年10月21日、シンガポールで自由インド仮政府樹立。スバス・チャンドラ・ボースが首班に就任した。

   ここでのボースの演説(要約)。

   他国から与えられた独立は、他国により簡単に奪われる。我々が血を流し勝ち取らねばインドの真の独立は得られない。何人が生き残れるか解らない。しかし 我らの任務はデリーで、勝利の行進をするまで終わらない。

   ボースの演説は、アジアの民衆の独立を高らかにうたい、大東亜宣言五原則 インド独立支援を訴えたのである。まさに強い信念の婆沙羅首班であった 11月東京で、ボースの主催する大東亜会議が東京の国会議事堂で開催された。

 アジアで初めてのアジアサミットのメンバーは、

      スバス・チャンドラ・ボース(自由インド仮政府首班) 

      ホセ・ラウエル(フィリッピン大統領) 

      ワンワイタヤコーン親王(タイ王国) 

      東条英機総理大臣(日本) 

      汪兆銘中華民国行政院院長(中華民国) 

      張景恵国務院総理(満州帝国)

      パー・モウ内閣総理大臣(ビルマ)である。

 その後、日本軍85,000人とインド国民軍15,000人は、共同でインドのデリーへのインパール作戦。死者3万人負傷者5万人の悲惨な大敗北する。インド国民軍が日本軍と一緒に血を流したという それが日本の敗戦後インドの独立戦争において大きな力になった。インド国民軍はその後,主にビルマで連合軍と戦う。日本の降伏にへこたれず、インドの戦いはまだ終わっていない。敵の敵は味方 戦後の世界戦略を見据えソ連に期待するース さらに 日本へ しかし当時の台湾から乗った飛行機が墜落で事故死(1945年8月18日午後11時41分) インド独立を夢見て後を同志に託した。

 戦後、インド国民軍は、イギリスの捕虜となった。1945年9月にインド国民軍指導者を「反逆罪」で全員死刑に裁いたイギリス軍の裁判が独立前夜のインドにおいて英印軍(セポイの傭兵のインド兵)はじめインド人の反乱を巻き起こしたため裁判は中止され,全将校が釈放された。さらに、ガンジーの指導の下に立ちあがった国民会議・学生・労働者・インド全土に反英闘争が広がり、イギリスは、どうすることもできず、二年後にインドは独立を繋がるのである。ボースは死してインドを独立に導きました。

 インド国家議事堂に飾られる三人の肖像は、

     左にインドの初代首相ネール、

     右にインド独立のガンディー、

 そして中央には指導者のスバス・チャンドラ・ボース。

  戦後のアジア・アフリカの独立が雨後の竹の子のようになされたのは、この大東亜戦争が一大転機であったのです。なぜか、ボースのお墓は、東京都杉並区の日蓮宗・蓮光寺にあります。終戦後、ボースの遺骨を引き取りに蓮光寺の住職が引き受けられ、それ以来法要されておられます

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*セポイ・・・インドでは、イギリス東インド会社が雇ったインド人兵士の呼び名。インド人傭兵。

*ローラット法(1919年3月18日制定

 インドの反英運動を弾圧するために、令状なしに逮捕、裁判抜きの投獄が認められた。

*サティアグラハ(非暴力運動)(1919年4月6日)

 サティアグラハとは真理をつかまえるという意味であり、危険にさいしても決して暴力を用いない非暴力の戦いをさすのである

 ヒンドゥー教本来の精神は非暴力であり、絶対に自己を抑制することを原則とする。

 ガンディーは、ヒンズゥーの教えからサティアグラハの運動を編み出し、自らその先頭に立った。

*ハルタル(1919年4月6日)

 闘争にあっては忠実に真理に従い、生命、人格、財産に対する暴力を慎むという規律を守りながらインド政庁の悪法に従うことを拒否する、という運動です。つまり、あらゆる仕事をやめることを意味する。

アムリツァール虐殺事(1919年4月13日)

 パンジャブ州で、三方を壁で囲まれた広場に集まった約1万の群衆の大集会対し、イギリス軍側は、装甲車を用意し、前触れもなしに射撃を命じた。弾丸は、1605発発射され、死者374名、負傷者千名以上におよんだ。ただちにパンジャブは、戒厳令下におかれ、飛行機による農村群衆に対する銃撃、爆撃が行われ、無差別の逮捕が始まった。この惨劇について、パンジャブ以外の地方でも何カ月にもわたって報道はされず、イギリス本国へすら半年以上も記事が差し止められたのである。

■□■西洋の植民地になるとこうなる■□■

https://www.youtube.com/watch?v=cT-3DE6nSZs

■□■大東亜戦争の名言集■□■

https://www.youtube.com/watch?v=Gz8s23-SQG4

 


ネルソン・マンデラ(1918年~2013年) [南アフリカ共和国]

2013年12月06日 | 歴史

  1918年7月18日南アフリカ南東部トランスカイの村でテンブ人の首長の子として生まれる。父親は、王族の相談役を務めていた。国内の出身氏族を示すマンディバの愛称で知られた。1942年にウィトワーテルスランド大学法学部を卒業し、法律事務所に就職。1944年に黒人解放組織、アフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取り組む。その後1950年、ANC青年同盟議長に就任する。1952年、友人と南アフリカ初の黒人による法律事務所を設立、同年以後、ANCによる非暴力の反アパルトヘイト(人種隔離)政策闘争を率いた。反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され,27年間に渡り刑務所に収容された。刑務所の2畳ほどの独房で過ごしたあいだ、獄中で、白人が話すアフリカーンス語も学び、考え分析しながら戦略を立てた。釈放時には大統領になる準備が出来ていた。釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の副議長に就任。その後、議長。デクラークとともにアパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導き1994年に大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した婆娑羅大統領であった。2013年12月5日、ヨハネスブルグの自宅で95歳で死去。国葬は、12月15日に決まった。

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アパルトヘイト* 

  アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に、南アフリカ共和国は、17世紀から、オランダ、英国の植民地支配を受け、独立後も南アフリカ共和国における白人支配層が、多数を占める非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーなどからの非白人アジア系住民やカラードと呼ばれる混血民)を極度に差別する諸関係を規定する人種隔離政策のことである。

■□■西洋の植民地になるとこうなる■□■

https://www.youtube.com/watch?v=cT-3DE6nSZs

■□■日本人が知らないといけないイギリスの残酷植民地政策■□■

https://www.youtube.com/watch?v=FTdRz4dECE

 


ボー・グエン・ザップ将軍(1911~2013) [ベトナム国]

2013年10月13日 | 歴史

 ボー・グエン・ザップ将軍は、建国の父、故ホー・チ・ミン主席の側近としてベトナム人民軍を創設。1954年5月、旧宗主国フランスとの戦いで最高司令官として北部の要塞(ようさい)ディエンビエンフーを人海戦術で陥落させた。その2ヶ月後にジュネーブ協定が結ばれ、フランスによる植民地支配が終結。西側諸国では、赤いナポレオンとの異名を取った。その後、アメリカのかいらいのゴジンジェム政権の旧南ベトナム政府軍と米軍50万人を相手にしてのベトナム戦争でも国防相として指揮を執り、1975年4月のサイゴン(現ホーチミン)陥落により勝利をもたらし、戦略家としての名声を不動にした。1980年のカンボジア内戦への関与そのものについては将軍は反対し、国防相を解任された。筋を通す人であった。2013年10月4日、老衰のためハノイの「軍108病院」で102歳で死去。天寿をまっとうされたと思われる。全国民からも信頼され、政府にも意見具申する婆娑羅将軍でもあった。国葬は、10月12日行われた。    

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フランスのベトナム支配(植民地政策)

 フランスのベトナム支配(植民地政策)は、支配住民を愚民化するために学校を破壊し、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が、逮捕されサイゴンの監獄が満員となり多くの囚人が死亡した。

 1945年、ホー・チ・ミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りがこめられている。 

 「・・・彼らは学校を破壊し、多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。・・・」

 フランス革命以後、自由、平等、博愛等を掲げ、人権意識の発達をリードしてきたとされる、欧米諸国だが、彼らの言う人権とは、白人固有のものであり、有色人種に対しては、それを認める気は全く無かった。

■□■西洋の植民地になるとこうなる■□■

https://www.youtube.com/watch?v=cT-3DE6nSZs

■□■大東亜戦争の名言集■□■

https://www.youtube.com/watch?v=Gz8s23-SQG4