nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

大溝城

2019年06月26日 | 滋賀県の城郭・環濠

 元亀年間(1570年~1573年)に織田信長は浅井長政を滅ぼして高島七頭も降すと、高島郡には磯野丹波守員昌が入部し新庄城を居城とした。織田信澄はこの磯野員昌の養子となっていたが、天正6年(1578年)磯野員昌は織田信長の勘気を被って追放されると所領は織田信澄が継いだ。織田信澄は織田信長の実弟織田信行の子である。

 天正6年(1578年)、織田信澄は、大溝に高島郡支配の拠点として、明智光秀の縄張り(設計)によって大溝城(水城)を築城しました。高島郡支配の拠点が新旭の新庄から、大溝に移ります。高島郡支配の拠点として大溝に城を構えた理由は西近江路が通る交通の要所であったことや、織田信長が琵琶湖の水運を重要視していたためです。

 天正10年(1582年)、織田信長が 明智光秀に攻められ本能寺で自害した際、織田信澄は四国征伐の副将として織田信孝(織田信長の三男)に従い大坂にいましたが、織田信澄の正妻が明智光秀の娘であつたことから内通が疑われ、織田信孝・丹羽長秀の軍勢に急襲され摂津の野田城で討たれた。

 織田信澄が世を去った後、大溝城主は丹羽長秀、加藤光秦、生駒親正、豊臣秀吉の直轄地、京極高次、織田三四郎、豊臣秀吉の直轄地、岩崎掃部佐とめまぐるしく代わります。

 慶長8年(1603年)大溝城は取り壊され、その部材は甲賀郡の水口岡山城に転用されました。現在、天守台の石垣は市の史跡(大溝城本丸跡)に指定されています。

 元和5年(1619年)、伊賀国上野より分部光信が2万石で入封し大溝藩となった。大溝藩は廃城となっていた大溝城の三の丸付近に大溝陣屋を構え、以後明治まで代々続いた。

【所在地:滋賀県高島市勝野】

アクセス>JR湖西線・近江高島駅下車徒歩5分。

大溝城までの概略図

大溝城本丸の概要

大溝城本丸

本丸天守台の石垣     ▼本丸天守台の石垣

乙女ケ池

 万葉の時代は『香取の海』と呼ばれる入り江でした。その後は、大溝城の外堀として利用され、現在は内湖として、散策や釣りを楽しむ人も多い。

 2019/06/16 訪城

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 ▼大溝城(陣屋)と武家屋敷図

 元和5年(1619年)に伊勢上野より分部光信が約2万石の大溝藩主として大溝に入封し、整備された大溝城(陣屋)と武家屋敷図。織田信澄が築いた大溝城の三の丸付近から西に陣屋を構えました。

惣門の概要

惣門

 分部氏によって整備された武家屋敷地の出入口の中で最も重要な門(正門)でした。現在、市指定文化財に指定されています。

2019/06/16 訪城


佐和山城

2018年10月14日 | 滋賀県の城郭・環濠

  佐和山城は、北国街道と中山道を押さえる要衝に位置する山城。鎌倉時代の初期の建久年間(1190年~1199年)に近江源氏・佐々木定綱の六男佐保時綱が佐和山の麓に砦として築く。その後、佐々木家は六角氏と京極氏に分かれ対立する。

   戦国時代に入ると、京極氏に代わって浅井氏と六角氏の抗争によって浅井氏の支配下になります。永禄4年(1561年)、浅井氏配下の磯野員昌が入城。元亀元年(1570年)、姉川の戦の際、磯野員昌が籠城して織田軍と対決しますが、約8ケ月ご織田信長に降伏します。織田信長は重臣の丹羽長秀を配し、本能寺の変後、堀秀政、堀尾吉晴、そして天正19年(1591年)、石田三成が代官の立場でにて入城。文禄4年(1595年)、石田三成が大名として居城し、大改修を行い、天守も築く。

  慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原の戦で石田三成が敗北し、佐和山城も徳川軍に攻められ、9月18日落城する。石田三成の父石田正継、兄石田正澄をはじめ多くの人々が自刃して果てました。徳川家康は、関ケ原の戦の論功行賞として、井伊直政に佐和山城が与えられました。翌年、井伊直政が死去。子の井伊直継が引き継ぐが、慶長8年(1603年)、家老の木俣守勝は徳川家康に相談し、彦根山への移築を決定し、佐和山城から資材が利用され、井伊直継が彦根城に移ったことにともない、慶長11年(1606年)、廃城となった。

【所在地:滋賀県彦根市佐和山町・古沢町】

アクセス>JR彦根駅から龍譚寺まで徒歩約20分。龍譚寺から佐和山山頂(本丸)まで約35分。

             *龍譚寺前には無料駐車場(彦根市営)が完備しています。

 佐和山城概略図

佐和山城         ▼登山地図

佐和山城の概要

佐和山城の歴史

龍譚寺山門        ▼塩硝櫓跡

西の丸

西の丸縄張り図      ▼西の丸

 ハイキングコースを登っていく

本丸の概要

本丸の縄張り図      ▼本丸(佐和山城碑)

本丸

本丸からの展望

 標高約233mの佐和山山頂からは琵琶湖や比良山系が一望できます。

2018/10/08 訪城


佐生(さそう)城

2015年12月03日 | 滋賀県の城郭・環濠

 佐生城(別名:佐生日吉城・佐野山城ともいう)は、佐々木六角氏の居城観音寺城が位置する繖山(きぬがさやま)から北側に張り出した尾根上、通称佐生山の山頂に築かれた城で、佐々木六角氏重臣の後藤氏が築城し、観音寺城北面の最終防衛にあたる出城であった。主郭内部は、東側と西側に、二段に分かれている。現在、主郭中央に後藤但馬守城址碑があり、遺構として、曲輪・石垣・土塁跡が残っている。

[所在地] 滋賀県東近江市佐野町・五個荘日吉町

アクセス>JR琵琶湖線・能登川駅から(能登川高校の前から北向十一面岩屋観音の石段下経由で)徒歩で約15分。

北向十一面岩屋観音の石段下・・・ここから佐生城主郭まで370mです。

 

案内板に沿って尾根を東に下る    ▼西側の石垣

 

北側の石垣               ▼南西の石垣

 

南側の苔むした石垣         ▼東側の石垣

 

後藤但馬守城址碑          ▼主郭

 

2015/11/28 訪城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 佐生城を訪城する前に、北向岩屋十一面観音を参拝しました。

北向岩屋十一面観音石段下      ▼石段を登っていく

 

猪子山の山頂付近

 

北向十一面岩屋観音

   猪子山山頂にあり、坂上田村麻呂が鈴鹿の鬼賊討伐の際に、ここに安置して祈願したと伝えられています。毎年7月17日の千日会には、大勢の信者が集まりにぎわいを見せます。またここからは湖東平野一望できます。

北向岩屋十一面観音よりの眺め

 

2015/11/28 参拝


山本山城

2015年06月05日 | 滋賀県の城郭・環濠

 山本山城は、余呉川下流域の歪曲部、標高324mの山本山に位置する。阿閉山城ともいう。平安末期の記録に見える山下城が前身といわれるが、当時は、城というよりも天然の要害程度で、山本山城が、本格的に山城として整備されたのは、戦国時代に京極氏家臣の阿閉氏の居城となってからである。永正年間には浅見城主浅見氏が詰城としていた。浅見氏は、一時浅井長政と反目したが、のち浅井氏の勢力下に組み込まれ、浅井長政の頃、阿閉貞征が城主となり小谷城防衛の最重要支城となった。天正元年(1573年)阿閉貞征が浅井氏を見限り織田方に下った結果、小谷城は孤立しついに落城した。天正10年(1582年)、本能寺ので織田信長が横死すると、阿閉貞征は明智光秀に与して、山崎の戦で羽柴秀吉が明智光秀を破ると、阿閉一族も豊臣秀吉に滅ぼされ、山本山城も廃城となった。現在、山頂尾根部に土塁をともなう細長い長方形状の曲輪と堀切が連続した状態でしっかりと残されています。

[所在地:滋賀県長浜市湖北町山本・高月町西阿閉]

アクセス>JR北陸本線・河毛駅から山本山登山口まで徒歩約70分。山本山登山口から山頂まで約40分。

   *JR「河毛」より「山本山登山口」まで、湖北町コミュニティバスがあるが本数が少ない。

山本山・・・ 標高324m            朝日山神社・・・山本山登山口である。

 

山本山城の縄張り図

 

三の丸               ▼二の丸

 

二の丸からの眺め          本丸(主郭)

 

堀切と土橋             ▼二番馬場跡

  

馬の蹴跡

  

[補足]JR北陸本線・「河毛」より、湖北町コミュニティバスで「山本山登山口」下車 登山口まで徒歩5分。

 登山口から山頂まで徒歩約40分。地方の路線バスなので本数が少ない。

 

2015/05/31 訪城


横山城

2015年05月17日 | 滋賀県の城郭・環濠

 横山城は、 小谷城のある小谷山とは、姉川を挟んで対峙している。南北に横たわる丘陵上に築かれた山城で、標高312mの頂上から三方にのびる尾根上にY字形に築かれました。京極氏の支城であった横山城は、永正14年(1517年)に浅井亮政に攻められ浅井氏の城になり、小谷城の支城として永禄4年(1561年)浅井長政により改築された。元亀元年(1570年),横山城を攻略しょうとした織田軍と救援しょうとした浅井・朝倉連合軍が姉川で戦い(姉川の戦)、この戦で織田軍が勝利し、時の城主三田村氏を降伏させ、横山城を手中にし、木下藤吉郎を城代として入れた。横山城は、天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡するまで、北近江攻略の基地として、織田軍団の重要な拠点となっていた。木下藤吉郎は、約3年間この城を本拠とし、のちの賤ヶ岳合戦で豊臣秀吉が使用したあと、廃城となった。

[所在地:滋賀県長浜市堀部町・滋賀県米原市朝日町]

<アクセス>JR・東海道線・近江長岡駅下車徒歩約2時間。

横山城の概要 

横山城の縄張り

横山城(南城址)           ▼井戸

 

                     ▼横山城(北城址)

 

北城址からの東方の眺め

 

北城址からの西方の眺め

 

2015/05/15 訪城

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姉川の戦    元亀元年(1570年)

 元亀元年(1570年)2月、織田信長軍が越前の朝倉攻めの最中に、浅井氏が突然朝倉氏側に立って挙兵。朝倉攻めの織田信長軍が、京へ、脱出。6月浅井攻め。織田信長軍(23,000騎),徳川家康軍(5,000騎)が姉川で浅井長政軍(5,000騎),朝倉義景軍(8,000騎)と激突。援軍の徳川家康軍の奮闘で織田信長方の勝利。

小谷城の戦  天正元年(1573年)

 天正元年(1573年)8月、織田信長軍、越前の朝倉氏攻めの再開と浅井氏の小谷城攻めを開始。織田信長軍、一乗谷の戦で大勝した後、小谷城を猛攻し朝倉氏、浅井氏両家が滅亡。お市の方とお市の娘3人が浅井氏から織田信長に帰される。 


鎌刃城

2015年03月27日 | 滋賀県の城郭・環濠

 鎌刃城は、 鎌倉時代に土肥(とい)氏が居城として、のちに堀氏が居住した。標高384mの山頂に築かれた典型的な山城です。南近江と北近江の領地境の「境目の城」として築かれた。山頂の主郭と副郭という曲輪を中心に北西の尾根、西の尾根、南東の尾根の三方向に曲輪や堀切や土塁が設けられています。城の規模は東西・南北とも400mに及び湖北では小谷城に次ぐ規模を誇ります。元亀元年(1570年)に浅井長政が織田信長に反旗を翻した時には、浅井方の城主堀秀村は織田方に付き、坂田郡で6万石を賜り織田信長に湖北支配を任され鎌刃城はその拠点となりましたが、浅井方の小谷城落城後、羽柴秀吉が湖北支配を任されると天正2年(1574年)に堀氏が突然改易され、まもなく廃城となりました。現在、 総石垣の主郭や枡形虎口、建物礎石などに、近世初期の高度な築城技術が見られ、県の史跡に指定されています。

[所在地:滋賀県米原市番場]

アクセス>JR琵琶湖線・米原駅下車徒歩で約6.5km

鎌刃城概略図

殿屋敷遺跡

大手口より登城しました。

 

形虎口概要

枡形虎口

 北尾根先端に設けられた枡形虎口。門の礎石も確認でき、薬医門という形式の門がありました。

 

曲輪・・・土塁や石垣などで区切られた区画のことで、本丸、○○曲輪などとよばれます。

▼「水の手」の概要

水の手               ▼大櫓跡(中央のくぼみのところ)

 

曲輪の畝状竪掘群

 竪掘が連続する畝状竪掘群は、敵の横移動を防ぐもので、近江では余り見られない構造です。

 

 主郭の概要

主郭の虎口

 主郭の北には、石垣によって築かれた枡形の虎口がありました。

  

南尾根の堀切

 城の南東は、尾根続きになっているために、敵の侵入を阻止するために、この尾根には8条にのぼる堀切が設けられた。

 

2015/03/25 訪城

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鎌刃城からの帰りに、鎌刃山のふもとにある鎌刃城城主土肥三郎元頼公が再興した蓮華寺によりました。

  蓮 華 寺

[所在地:滋賀県米原市番場511]

アクセス>新幹線米原駅よりタクシーで約10分

 

勅使門          ▼本堂

 

土肥三郎元頼公の墓の概要

鎌刃城城主・土肥三郎元頼高の墓・・・蓮華寺を再興した時の領主(鎌倉時代近江坂田郡の地頭であった)

 

               ▼血の川

 

南北朝の古戦場

   元弘3年(1333年)5月7日の京都合戦に敗れた六波羅探題北條仲時公は、北朝の天子光厳天皇・後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下り番場の宿に着いた時、南朝軍の重囲に陥り止む無く蓮華寺に玉輩を移し、大いに戦いたるも、再び戦いに敗れ遂に本堂前庭に於いて、北條仲時以下432名自刃した。時の三代住職同阿上人は深く同情してその姓名と年齢および仮の法名を一巻の過去帳に認め、さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔う。その墓は境内にあり、過去帳は重要文化財として当山に所蔵されている。これらの史実は、太平記などに詳しく記載されています。

史跡・北条仲時公並びに432名の墓(蓮華寺供養塔)

一向上人の御廟         ▼樹齢700年の巨木「一本杉」

 

 2015/03/25 訪問

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京極道誉(1295年~1373年)

 第5代京極高氏(道誉)は能、狂言、茶道、華道に長じ田楽を楽しみ、派手好きであったといわれ「婆裟羅大名」と呼ばれています。北條高時の小姓足利尊氏とも親交があり、正中の変(1324年),元弘の変(1331年)でも活躍しています。後醍醐天皇の隠岐への護送、北畠具行卿の鎌倉への護送などを担ったほか、1333年足利尊氏と共に六波羅を攻め、米原市番場の蓮華寺で北條仲時以下432名を追い詰めました。1373年、滋賀県甲良町にある道誉の菩提寺勝楽寺で78年の生涯を閉じました。


伊庭城

2015年03月09日 | 滋賀県の城郭・環濠

 伊庭城は、建久年間、観音寺城主・佐々木行実の四男・高実が伊庭氏を名乗り代々この地に城を築き当地を領してきた。南北朝時代から室町時代にかけて、伊庭氏は近江守護六角佐々木氏家中で守護代を務め、近江支配の実権を握っていたが、文亀2年(1501年)伊庭城主伊庭貞隆、貞説の二代にわたり守護の六角佐々木氏に謀叛、滅亡する(伊庭の乱)。伊庭氏滅亡後、徳永法印領。徳永法印は関ヶ原の合戦に大津城の京極高次を海上より支援し、その功により,慶長5年(1600年)美濃高須城主(56000石)の大名となり転移で天領となったのち、元禄11年(1698年)旗本三枝氏が甲府より転封され、ここに陣屋を構えていた。明治維新後、陣屋の建物の一部は、村役場となり、明治12年には伊庭小学校を建て、現在は謹節館(公民館)が建っています。

[所在地:滋賀県東近江市伊庭町]

アクセス>JR琵琶湖線・能登川駅下車徒歩30分

伊庭(いば)城の概要

伊庭城を囲む水路

 

 ▼伊庭城址(郭内)                                                    

  

謹節館(現在:公民館)

屋根の鯱鉾

 

伊庭城の石垣

 

2015/03/07訪城

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伊庭氏

 近江源氏佐々木氏の支流で、佐々木経方の子、行実の四男高実が,はじめて近江国神埼郡伊庭邑に移住し、伊庭氏を称した。伊庭城は、建久年間(1190年~1199年)に、伊庭高実が、築城した。

 


小谷城

2014年06月12日 | 滋賀県の城郭・環濠

  小谷城は、大永3年(1523年)頃に、初代浅井亮正が小谷山の南の尾根に築いた山城です。築城時は、現在の本丸跡よりさらに北の大嶽城が、本丸であった。二代、浅井久政、三代、浅井長政によって拡張を重ね多くの砦を持つ堅固な山城となった。元亀・天正の争乱で4年間織田信長に攻められ天正元年(1573年)8月28日落城した。その後、浅井氏の旧領のうち伊香郡・浅井郡・坂田郡は、羽柴秀吉に与えられた。羽柴秀吉は、小谷城を嫌い、天正3年(1575年)に今浜に新しい城を築城して居城(長浜城)した。そのため小谷城は城割りで廃城となった。現在、曲輪(郭)、石垣、空堀、土塁などが残っています昭和12年(1937年)に国の史跡に指定された。

[所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)]

アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩

JR北陸本線・河毛駅前の浅井長政と市の像    ▼正面の山が小谷山

 

小谷城とその支城・砦の配置図 

出丸跡     

 本丸などがある尾根の先端にあり、敵の侵攻に対しては最前線で、戦い、敵の侵入を食い止めるための砦である。敵の動きを見張る役目した。                             

 

出丸の略図

 

金吾丸跡

 大永5年(1525年)、浅井亮政を攻めるため六角定頼に味方した朝倉教影太郎左衛門尉が陣地を築いた所である。金吾丸の「金吾」は、左衛門尉のことである。

 

③番所跡             ▼番所略図

 本丸への入り口にあたり、通行する人を見張ったり、怪しい人を呼びとめて検問した所である。

 

番所からの眺め 中央の山が織田軍が布陣した『虎御前山砦』です

御茶屋跡            ▼御茶屋略図

 中央に土塁が見られ、その内部に御殿があった。

 

 ▼御茶屋跡

 

御馬屋跡          

 馬屋があったところです。                     

 

御馬屋略図

 

首据石                               

 天文2年(1533年)、京極氏の家臣だった今井秀信が六角氏に味方したため、浅井亮政が秀信を神照寺(長浜市神照寺)に呼び出して謀殺し、その首をこの石にさらした。      

赤尾屋敷跡

 浅井氏の重臣の屋敷跡で、天正元年(1573年)9月1日,浅井長政は、29歳でここで自刃した

黒金御門跡

 石段を上ったところに黒金御門があった。

 

桜馬場跡             ▼桜馬場略図

 南北に長く、東西二段からなっている曲輪(郭)跡である。 ここは、最も重要な「物見」の場所であった。                  

 

浅井長政と家臣の供養塔

 小谷城の戦で700名もの兵士が亡くなり、小谷城址保勝会が、浅井氏と家臣団の霊を慰めるため、昭和47年にこの供養塔が建立されました。

大広間跡

 小谷城の曲輪(郭)の中では、一番広いところ(約3,000m)であった。

 

本丸跡

 

本丸・大広間略図        ▼御局屋敷跡

 

大堀切跡

 本丸北側の下の大きくくぼんだところは、「堀切」で「大堀切」と呼ばれている

 

中丸跡             中丸略図      

 中丸は、三段からなる曲輪(郭)で、それぞれ上段から下段に向かい、また、虎口の左右から侵攻する敵を討つように造られている。           

 

京極丸跡               小丸跡

 

小丸・京極丸略図

 

 

山王丸跡            ▼山王丸略図 

 

六坊跡             六坊略図

 浅井氏の領国内にある寺院の出張所が置かれていた。                 

 

大嶽(おおづく)城跡

 小谷山の最高峰(標高495m)に、初代城主浅井亮政が最初に築いた城跡である。

 

大嶽城概略図

 

福寿丸跡            福寿丸略図 

 元亀3年(1572年)、に朝倉軍が最新の築城技術を駆使して手直しした城郭です。 

 

 

山崎丸跡            ▼山崎丸略図                      

 朝倉軍の築城技術によって改造された城郭。 

 

 

2014/06/10 訪城 

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姉川の戦     元亀元年(1570年)

 2月、浅井氏が突然朝倉氏側に立って挙兵。朝倉攻めの織田信長が京へ脱出。6月浅井攻めに着手、織田信長軍2万3千騎・徳川家康軍5千騎と浅井長政軍5千騎・朝倉義景軍8千騎が姉川で激突。援軍の徳川家康軍の奮闘で織田信長方の勝利。

小谷城の戦   天正元年(1573年)

 8月織田信長軍の越前侵攻と小谷城攻め。織田信長軍、一乗谷の戦いで大勝した後小谷城を猛攻し朝倉氏、浅井氏両家の滅亡。お市の方と娘3人が浅井氏から織田信長に返される。


大嶽(おおづく)城

2014年06月12日 | 滋賀県の城郭・環濠

 大嶽城は、大永3年(1523年),小谷山の最高峰(標高495m)に、初代浅井亮政が最初に築城した山城である。その後、主郭は、現在の「本丸」跡に移されたが、ここは朝倉氏の築城技術を取り入れて、強固な守りの城に改造された。土塁に囲まれた主郭の周囲には、横堀や段々状の曲輪(郭)が造られている。しかし、天正元年(1573年)8月12日,小谷山の北側にあった焼尾砦の主将、浅見対馬守が織田信長に寝返ったため、大嶽城は、落城した。現在、土塁、石垣が残っています。

[所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部]

アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩

険しい尾根を登って行く。

 

 

大嶽城略図                 ▼大嶽城址碑

 

大嶽城主郭          小谷山山頂(主郭)

 

2014/06/10 訪城


観音寺城

2014年06月03日 | 滋賀県の城郭・環濠

 観音寺城は、湖東平野の中心部にある独立丘陵、標高432.9m、南北に伸びる繖山(きねがさやま)の南半分を中心に築かれた日本最大規模をほこる山城です。本格的に城郭としての整備を行うのは応仁の乱以降で、南腹の斜面に多くの廓(曲輪)を造り、家臣や国人領主の屋敷を配置した。天文年間には、城下町・石町も置かれ、日本最初の楽市令が敷かれた。さらに鉄砲の伝来による戦術の変化に対応し、1550年代には石垣を整備し、今日見られるような総石垣の城構えとなった。しかし、城の大きさの割に防御施設というほどのものが無く、それは六角氏が地元の有力国人の連合政権の上に成立していたためである。永禄11年(1568年)六角承禎が、織田信長の攻撃を受け、戦わず城を放棄したことにより、観音寺城は、落城。その後、永禄11年(1568年)廃城となった。、本丸、落合丸、平井丸、池田丸以外の郭は、ほとんど草木に覆われている。現在、観音寺城跡は、国の史跡になっています。

[所在地:滋賀県近江八幡市安土町大字石寺]

<アクセス>JR琵琶湖線・安土駅下車徒歩70分        

    安土駅(徒歩約40分)桑實寺(徒歩約30分)観音寺城本丸跡

    *()安土駅から、近くまでタクシーで行く方法、他のアクセスもあります。

観音寺城の概要

観音寺城跡略図

 

本丸の石垣      ▼本丸跡碑    ▼本丸跡中心部分

  

本丸の石垣                                   ▼本丸跡中心部分

 

本丸石垣

 

落合氏屋敷跡碑          ▼平井丸虎口 

  

食い違い虎口           ▼平井丸角の石垣

 

平井氏屋敷跡碑           ▼立派な石垣

 

池田氏屋敷跡碑            ▼本丸からの石垣の階段                

 

観音正寺への道         観音正寺境内

 

 現在の観音正寺の場所は、上御用屋敷であった。

                  ▼観音正寺本堂

 

2014/06/01 訪城   


虎御前山城

2014年05月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 元亀元年(1570年)6月、姉川合戦において織田信長軍に敗退した浅井軍は、小谷山城に籠城。織田信長は、横山城に前線基地を置き、浅井氏攻略を計りましたが、元亀3年(1572年)7月以降は、小谷城の眼前にまで包囲網を縮小し、標高約230mの虎御前山に城を構え、持久戦に備えました。7月27日から築城を開始し、8月中に城は完成しました。虎御前山は、四方の見通しがきく独立丘陵で、小谷城のすぐ南面に位置するため最前線基地を築くのに適していました。虎御前山の尾根上には古墳が点在しているため、織田信長はこれらの古墳をうまく利用して砦を築きました。尾根の南から多賀貞能砦・蜂屋頼隆砦・丹羽長秀砦・滝川一益砦・堀秀政砦・織田信長本陣砦・木下秀吉砦・柴田勝家砦と虎御前山の稜線にそって砦が築かれてました。こうして最初の攻撃からおよそ3年の月日を要した小谷城攻略ですが、天正元年(1573年)8月浅井氏滅亡、小谷城落城後、虎御前山城は廃城となりました。現在、虎御前山の約2kmのハイキングコースが整備されています。

[所在地]滋賀県長浜市湖北町別所~中野町

アクセス>JR北陸本線・虎姫駅又は河毛駅下車徒歩約15分

虎御前山

虎御前山城略図

矢合神社

 

瀧川一益陣地跡

 

堀 秀政陣地跡

 

織田信長陣地跡          ▼織田信長陣地想定図

 

 ▼織田信長陣地略図

織田信長本陣跡より望む

 この織田信長陣営は、秀吉の砦以外はすべて小谷城を背(南向き)にして攻撃の構えがある。木下秀吉の砦が一番堅固であった

木下秀吉陣地跡(砦跡      大曲輪

 

土塁                 かざし堀

 

木下秀吉陣地跡(砦跡)より小谷山(小谷城跡)を望む

2014/05/09 訪城


丁野山城

2014年05月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 丁野山(よおのやま)城は、永正15年(1518年)、浅井亮政(すけまさ)が築いた城で、別名、岡山城ともいわれる。織田信長の侵攻に備えて、天正元年(1573年)浅井氏の援軍、朝倉方の堀江勘助、久保田勘十郎、平泉寺玉泉坊らの兵がはいる。織田信長に攻められ、8月13日落城。現在でも郭を取り巻く土塁がしっかり残っている。

[所在地]滋賀県長浜市小谷丁野町

アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩約15分

丁野山城略図

丁野山城跡

 

丁野山城跡

 

2014/05/09 訪城


中島城

2014年05月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 中島城は、小谷城の攻略が激しくなる天正元年(1573年)に,織田信長の侵攻に備えて、浅井氏の家臣の中島宗衛門直親が築城した。丁野山城と直線距離で約300mしか離れていないので、この城は、丁野山城の出城と考えられる。織田軍の攻撃で、天正元年(1573年)8月13日落城。現在でも郭を取り巻く土塁がしっかり残っている。

[所在地]滋賀県長浜市小谷丁野町岡山

アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩約15分

中島城略図

中島城跡

 

中島城跡

  

2014/05/09 訪城


彦根城

2013年11月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 彦根城は、慶長5年(1600年),井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から移ってきた。その後直政は城を彦根山に移そうとしたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ケ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成。築城を始めてから実に20年の年月を要したもので、城域面積75,800坪、周囲4km、高さ約50mの彦根山に築城した平山城である。江戸時代を通じて、彦根城は、井伊氏の居城だったが、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのち禄高は、30万石から20万石に減封された。昭和26年(1951年)に彦根城天主閣をはじめ天秤櫓、太鼓門櫓、三重櫓、佐和口多門櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天主閣を国宝に、同31年(1956年),には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。

[所在地:滋賀県彦根市金亀町]

アクセス>JR彦根駅から徒歩約10分

彦根城略図

中堀

 

佐和口多門櫓正面左側(要文化財)   ▼佐和口多門櫓正面右側(重要文化財)

 

内堀                表門橋

 

 登り石垣

表門山道

 

                                                             鐘の丸

  

天秤櫓(重要文化財)

 

太鼓門櫓(重要文化財                    ▼本丸跡

 

                    表御殿のひこにゃん

 

天主閣(国宝)

大手門橋               内堀

 

2013/11/09  訪城

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井伊直政(1561年~1602年)

 井伊直政は、今川氏の家臣で代々遠江の井伊谷に居住していた。井伊氏の直親の子である。直親が家康や織田信長に通謀したという疑惑をかけられ殺害された時、直政はわずか二歳であった。今川氏真はこの嬰児をも殺せと命じたが,助命を乞う者があってその者のもとに養育され、以後寺から寺へ艱難流離の生活をおくった。幼少期の荒涼たる生活は、後年、直政の人物に幅と奥ゆきを形成したものと想われる。のみならず家康は、浜松の城下で鷹狩りの最中に直政を見出した時、自分に相似た暗い過去をもつこの端正な面だちの少年に、憐憫をこえた不思議な親近の情を感じたのではないか。家康自身、三歳で母に生き別れ、六歳で人質にとられ、八歳で父を暗殺されている。直正は二十二歳の天正10年(1582年)を境に、破竹の勢いで頭角をあらわしていった。この年の六月,例の伊賀越えの難においては、小姓組の一人として家康にこ従したにすぎない直政は、まもなく家康が甲州に入り,信州から南下してきた北条氏直の大軍と対峙した時、その講和の使者に立てられて大任をはたした(10月29日)。同年、武田の遺臣74騎と名ある坂東武者43騎を与えられ、同時に武田の「赤備え」(赤一色の武装)を継承することを命じられている。武田の軍団の有能な遺臣を配下にしたことは、その後の直政の活躍の大きな原動力となった。小牧・長久手の戦ののち、秀吉が「赤鬼」と称すべき勇姿を戦場に馳せ巡らせた井伊直政と、榊原康政・本田忠勝の三人を絶賛したことがある。これを聞いた家康は、彼らが悦ぶだろうと、三人に告げると、直政は毅然として、股肱(ここう)の臣を貶め敵将を褒めるのは主将たる人の道ではないと秀吉を批判し、さらに、秀吉は、自分たちを誘惑する底意があることを指摘した。そして、「たとえ天下を賂(まいな)うとも、この直政は他人の禄を貧(むさぼ)るべくもござらぬ」と言い放った。新参ながら、譜代の気骨を常に失わなかった婆娑羅大名であった。関ヶ原の戦で受けた戦傷がもとで、中一年おいて佐和山に没した。譜代最大の大名(30万石)でもあった。


長浜城

2013年11月10日 | 滋賀県の城郭・環濠

 天正元年(1573年)9月浅井長政滅亡後、湖北(滋賀県北部)を支配したのは、、羽柴(豊臣)秀吉であった。姉川合戦と小谷城攻めで手柄をあげた秀吉は、その功績によって浅井氏の領国の大部分を与えられた。天正2年(1574年)、夏には、羽柴秀吉が、琵琶湖の辺に位置する今浜(いまはま)の地に築城工事を開始し、翌年には、小谷城より本拠を移し、地名を「今浜」から「長浜」と改めて天正10年(1582年)まで長浜12万石の城主として在城した。天正10年(1582年)の清州会議で長浜城は、柴田勝家に譲られ、勝家の甥勝豊が入城したが、早くもその年の12月、秀吉は勝豊を攻めて、翌年4月に行われた柴田勝家との賤ケ岳合戦に際しては、軍事拠点としている。その後、天正13年(1585年)から天正18年(1590年)までは、山内一豊が城主となり、その移封後は、次第に荒廃し、湖北真宗門徒の惣会所が城内に設けられた。この時期は湖北は、佐和山城主石田三成の支配下に入っている。慶長11年(1606年)には、内藤信成が城主となり大改修を行う。慶長17年(1607年)その子信正が城主となるが、元和元年(1615年)摂津高槻城への移封によって、長浜城は、湖北支配の役目を彦根城に譲り使命を終えた。長浜城の石垣、櫓材等は、彦根城等に運ばれ、廃城になった。しかし、昭和58年(1983年)に秀吉の長浜城を再興しようという市民の熱望により天正期の模擬天主閣が再興された。現在、長浜城跡は、市指定史跡になっています。

[所在地:滋賀県長浜市公園町]

アクセス>JR長浜駅から徒歩約5分

長浜城と城下町推定復元図

 長浜城跡一帯は、「豊(ほう)公園として整備されています。

 

長浜城本丸跡

 

復興天主閣

復興天主閣よりの眺め

 

大通寺台所門(長浜城大手門)

 

秀吉公と石田三成公 出逢いの像

 

長浜領境界碑

 

長浜領の特権(下図の赤線で囲まれた町屋敷)

     年貢300石免除地域 [秀吉の特権は、江戸幕府にも認められた。]

2013/11/09 訪城 

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姉川の戦  元亀元年(1570年)

 織田信長軍,越前の朝倉攻めの最中に、近江の浅井氏が突然朝倉氏側に立って挙兵。挟み撃ちにされたため、朝倉攻めの信長が京都へ脱出。6月織田信長23,000騎と援軍の徳川家康軍5,000騎で浅井攻め。浅井長政5,000騎と援軍の朝倉義景8,000騎が姉川で激突。援軍の徳川軍の奮闘で織田方の勝利。

小谷城の戦  天正元年(1573年)

 8月織田氏の越前侵攻再開と小谷城攻めを開始。織田軍一乗谷の戦で大勝した後、小谷城を猛攻し朝倉氏、浅井氏両家の滅亡。お市の方と娘3人が、浅井氏から信長に返される。

賤ケ岳の戦  天正11年(1583年)

 織田信長の跡目を定める尾張清州会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立。賤ケ岳で柴田方の前田利家が戦線離脱と秀吉方の七本槍の活躍で勝利。柴田勝家北ノ庄で自刃。