nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

伊雑ノ浦から安乗崎灯台ヘ

2013年11月24日 | 文化・歴史散策

2013/11/24  三重県志摩市の伊雑ノ浦から安乗崎灯台へハイキングに行ってきました。

[ハイキングコース]近鉄・志摩磯部駅・・・伊雑ノ浦・・・宇気比神社・・・国府白浜海岸・・・国分寺・・・安乗埼灯台・・・安乗漁港(安乗バス停⇒⇒(三重交通バス)⇒⇒近鉄・鵜方駅                                                                

                              ▼伊雑ノ浦

 

伊雑ノ浦           ▼宇気比神社

 

のり網        ▼のり網・・・あおさ(あおのり)養殖です。

 

         国府白浜海岸・・・サーフィンに適した海岸。

 

        志摩国分寺(史跡文化財)・・・日本3国分寺の1つです。

 

             太平洋

  

 安乗埼灯台・・・登録有形文化財です。

灯台建設については、米仏英蘭の圧力で❕❕ 

 開国後、下関事件の賠償問題とからんで徳川幕府が米仏英蘭と結んだ改税約書(江戸条約11条)により、灯台10ケ所の設置が要求されていました

 

安乗漁港・・・安乗ふぐ有名です。 安乗バス停(三重交通)

 


高取城まつり

2013年11月23日 | 文化・歴史散策

2013/11/23  奈良県高市郡高取町土佐の高取城まつりに行ってきました。

アクセス近鉄吉野線・壺阪山駅下車すぐ。 土佐街道全域で開催していました。

高取城再現図

 

土佐町の由来

 大和王権(大和朝廷)の財政が、継体21年(527年)から一年余りにも及ぶ磐井の乱の鎮圧による戦費で財政破綻し、都造りをしていた土佐の人々が、故郷の土佐国に帰れず、この地に住みついてできた町と思われる。

時代行列

  

  

  

 

 

 

高取藩の大砲(複製品)

 

植村家長屋門(県文化財指定)

 

 

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植村家政(家存) (1541年~1577年)

 旗本先手の将(与力30騎)から家老職に進み、上杉謙信との同盟に力を尽くした三河統一期の功臣。植村氏は、美濃土岐氏の一族で岡崎北本郷に来住し植村を名乗り松平長親から代々従いました。家政(家存)の父は、清康、広忠の殺害者を討ち取りました。天正5年に死去。その子家次が家を継ぐが、信康事件によって、徳川家を離れる。のち、榊原康政の力添えで再出仕する。その後、子孫の植村家政は、寛永14年(1640年)大名に取り立てられ、25,000石で大和高取城へ入城して城主となりました。

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激突!  天誅組 VS  高取藩

 文久3年(1863年),天誅組(隊士約100人と十津川郷士約1,000人で兵力約1,100人)は、米提供等の協力を違約した高取藩への攻撃と城奪取を計画。土佐街道を進軍する天誅組に対し、情報を察知していた高取藩側(要所要所に兵を配置、郷民も動員で兵力約2,300人)は、強固な構えでこれを待ち受けた。8月26日早朝、万全の迎撃態勢をとっていた高取藩の攻撃に、天誅組は戦闘開始から僅か約2時間で敗走した。

高取藩士の配置表 

 


高野山の紅葉

2013年11月13日 | 紅葉

2013/11/13  和歌山県高野町の国指定史跡・世界遺産高野山に行ってきました。

[所在地:和歌山県伊都郡高野町高野山]

 アクセス>橋本から紀ノ川を渡り、九度山町より高野山道路(R370号,R480号)で、高野山(金剛峯寺)へ

金剛峯寺山門

金剛峯寺[県指定文化財]

 

 

蛇復路の紅葉

蛇復路の紅葉

蛇復路の紅葉

蛇復路の紅葉

 

根本大塔

 

  蛇腹路の紅葉がきれいでした。 

徳川秀忠霊屋                   ▼徳川家康霊屋

 


彦根城

2013年11月11日 | 滋賀県の城郭・環濠

 彦根城は、慶長5年(1600年),井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から移ってきた。その後直政は城を彦根山に移そうとしたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ケ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成。築城を始めてから実に20年の年月を要したもので、城域面積75,800坪、周囲4km、高さ約50mの彦根山に築城した平山城である。江戸時代を通じて、彦根城は、井伊氏の居城だったが、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのち禄高は、30万石から20万石に減封された。昭和26年(1951年)に彦根城天主閣をはじめ天秤櫓、太鼓門櫓、三重櫓、佐和口多門櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天主閣を国宝に、同31年(1956年),には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。

[所在地:滋賀県彦根市金亀町]

アクセス>JR彦根駅から徒歩約10分

彦根城略図

中堀

 

佐和口多門櫓正面左側(要文化財)   ▼佐和口多門櫓正面右側(重要文化財)

 

内堀                表門橋

 

 登り石垣

表門山道

 

                                                             鐘の丸

  

天秤櫓(重要文化財)

 

太鼓門櫓(重要文化財                    ▼本丸跡

 

                    表御殿のひこにゃん

 

天主閣(国宝)

大手門橋               内堀

 

2013/11/09  訪城

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井伊直政(1561年~1602年)

 井伊直政は、今川氏の家臣で代々遠江の井伊谷に居住していた。井伊氏の直親の子である。直親が家康や織田信長に通謀したという疑惑をかけられ殺害された時、直政はわずか二歳であった。今川氏真はこの嬰児をも殺せと命じたが,助命を乞う者があってその者のもとに養育され、以後寺から寺へ艱難流離の生活をおくった。幼少期の荒涼たる生活は、後年、直政の人物に幅と奥ゆきを形成したものと想われる。のみならず家康は、浜松の城下で鷹狩りの最中に直政を見出した時、自分に相似た暗い過去をもつこの端正な面だちの少年に、憐憫をこえた不思議な親近の情を感じたのではないか。家康自身、三歳で母に生き別れ、六歳で人質にとられ、八歳で父を暗殺されている。直正は二十二歳の天正10年(1582年)を境に、破竹の勢いで頭角をあらわしていった。この年の六月,例の伊賀越えの難においては、小姓組の一人として家康にこ従したにすぎない直政は、まもなく家康が甲州に入り,信州から南下してきた北条氏直の大軍と対峙した時、その講和の使者に立てられて大任をはたした(10月29日)。同年、武田の遺臣74騎と名ある坂東武者43騎を与えられ、同時に武田の「赤備え」(赤一色の武装)を継承することを命じられている。武田の軍団の有能な遺臣を配下にしたことは、その後の直政の活躍の大きな原動力となった。小牧・長久手の戦ののち、秀吉が「赤鬼」と称すべき勇姿を戦場に馳せ巡らせた井伊直政と、榊原康政・本田忠勝の三人を絶賛したことがある。これを聞いた家康は、彼らが悦ぶだろうと、三人に告げると、直政は毅然として、股肱(ここう)の臣を貶め敵将を褒めるのは主将たる人の道ではないと秀吉を批判し、さらに、秀吉は、自分たちを誘惑する底意があることを指摘した。そして、「たとえ天下を賂(まいな)うとも、この直政は他人の禄を貧(むさぼ)るべくもござらぬ」と言い放った。新参ながら、譜代の気骨を常に失わなかった婆娑羅大名であった。関ヶ原の戦で受けた戦傷がもとで、中一年おいて佐和山に没した。譜代最大の大名(30万石)でもあった。


長浜城

2013年11月10日 | 滋賀県の城郭・環濠

 天正元年(1573年)9月浅井長政滅亡後、湖北(滋賀県北部)を支配したのは、、羽柴(豊臣)秀吉であった。姉川合戦と小谷城攻めで手柄をあげた秀吉は、その功績によって浅井氏の領国の大部分を与えられた。天正2年(1574年)、夏には、羽柴秀吉が、琵琶湖の辺に位置する今浜(いまはま)の地に築城工事を開始し、翌年には、小谷城より本拠を移し、地名を「今浜」から「長浜」と改めて天正10年(1582年)まで長浜12万石の城主として在城した。天正10年(1582年)の清州会議で長浜城は、柴田勝家に譲られ、勝家の甥勝豊が入城したが、早くもその年の12月、秀吉は勝豊を攻めて、翌年4月に行われた柴田勝家との賤ケ岳合戦に際しては、軍事拠点としている。その後、天正13年(1585年)から天正18年(1590年)までは、山内一豊が城主となり、その移封後は、次第に荒廃し、湖北真宗門徒の惣会所が城内に設けられた。この時期は湖北は、佐和山城主石田三成の支配下に入っている。慶長11年(1606年)には、内藤信成が城主となり大改修を行う。慶長17年(1607年)その子信正が城主となるが、元和元年(1615年)摂津高槻城への移封によって、長浜城は、湖北支配の役目を彦根城に譲り使命を終えた。長浜城の石垣、櫓材等は、彦根城等に運ばれ、廃城になった。しかし、昭和58年(1983年)に秀吉の長浜城を再興しようという市民の熱望により天正期の模擬天主閣が再興された。現在、長浜城跡は、市指定史跡になっています。

[所在地:滋賀県長浜市公園町]

アクセス>JR長浜駅から徒歩約5分

長浜城と城下町推定復元図

 長浜城跡一帯は、「豊(ほう)公園として整備されています。

 

長浜城本丸跡

 

復興天主閣

復興天主閣よりの眺め

 

大通寺台所門(長浜城大手門)

 

秀吉公と石田三成公 出逢いの像

 

長浜領境界碑

 

長浜領の特権(下図の赤線で囲まれた町屋敷)

     年貢300石免除地域 [秀吉の特権は、江戸幕府にも認められた。]

2013/11/09 訪城 

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姉川の戦  元亀元年(1570年)

 織田信長軍,越前の朝倉攻めの最中に、近江の浅井氏が突然朝倉氏側に立って挙兵。挟み撃ちにされたため、朝倉攻めの信長が京都へ脱出。6月織田信長23,000騎と援軍の徳川家康軍5,000騎で浅井攻め。浅井長政5,000騎と援軍の朝倉義景8,000騎が姉川で激突。援軍の徳川軍の奮闘で織田方の勝利。

小谷城の戦  天正元年(1573年)

 8月織田氏の越前侵攻再開と小谷城攻めを開始。織田軍一乗谷の戦で大勝した後、小谷城を猛攻し朝倉氏、浅井氏両家の滅亡。お市の方と娘3人が、浅井氏から信長に返される。

賤ケ岳の戦  天正11年(1583年)

 織田信長の跡目を定める尾張清州会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立。賤ケ岳で柴田方の前田利家が戦線離脱と秀吉方の七本槍の活躍で勝利。柴田勝家北ノ庄で自刃。


『真田幸村の史跡』を訪ねて

2013年11月03日 | 文化・歴史散策

2013/11/03  大阪市内の真田幸村の史跡めぐりに行ってきました

[ハイキングコース]  JR鶴橋駅・・・三光神社・・・心眼寺・・・円珠庵・・・高津宮・・・生国魂神社・・・七坂めぐり・・・安居神社・・・四天王寺・・・JR天王寺駅

三光神社[大阪城の出丸・真田丸跡]真田幸村像(三光神社境内)

 

真田の抜け穴跡(三光神社境内

 大阪城と地下道でつながっていると伝えられる真田の抜け穴の跡。   

 

心眼寺 (真田幸村 出丸城跡)

 真田幸村とその子大助の供養の為に真田家の祖先滋野氏が江戸時代に建てた寺で、門扉には真田家の家紋である六文銭が飾られている。

 

円珠庵 [鎌八幡]

 境内には鎌八幡と呼ばれる霊木があり、大坂冬の陣の時、真田幸村が必勝を祈願して榎の木に鎌を討ちつけて必勝を祈願し、勝戦をあげたと伝えられる。

 

高津宮

 

真言坂

 

生国魂神社

 神武東征の時、難波津に上陸した神武天皇が、国土の神である生島神・足島神を現在の大阪城付近に祀ったのに始まる神社。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585年)に遷座した。元和元年(1615年)の大阪夏の陣で炎上し、徳川秀忠が再建した。

 

源聖寺坂

 

口縄坂

 

愛染坂

 

清水坂

 

天神坂

 

   

安居神社

 境内には、真田幸村が大阪夏の陣で戦死した地と伝えられ、石碑が建てられています。

 

                              真田幸村戦死跡の碑(安居神社境内)

 

 

逢 坂

 

四天王寺                ▼阿倍野ハルカス

 

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真田幸村(信繁)  (1567年~1615年)

 真田昌幸の次男。本来の名は、真田信繁。天正14年(1586年)豊臣秀吉の臣となり、文禄3年(1586年)豊臣信繁(のぶしげ)の名で従5位下佐衛門佐(さえもんのすけ)に就任した。軍事的才能に優れ、特に大阪冬の陣・夏の陣で奮戦し、徳川方を悩ませた。秀吉の人質時代には、秀吉の奉行大谷吉継の娘を娶り、関ヶ原の戦いで西軍につく一因となった。

真田幸村の足跡

①1585年、上杉景勝の人質として海津城へ、後に春日城へ赴く。

②1586年、豊臣秀吉の人質として大阪城へ赴く。

③1599年、徳川家康に属し京都に赴く。

④1600年、上杉攻略のため徳川家康に従い関東に向かうも途中で離脱。

⑤1600年、石田三成の密書を受け取り父、真田昌幸とともに兄・真田信之と別れ豊臣方(西軍)へつく(犬伏の別れ)。

⑦1600年、上田城に戻り、2,000騎で籠城。徳川秀忠軍38,000騎と戦い退ける(第二次上田合戦)。

⑧1600年、関ヶ原の戦で、西軍が敗れたため(西軍についたため)父・昌幸とともに高野山へ流される。

⑨1614年、子・真田大助とともに大阪城へ入る。大阪冬の陣では、大阪城の出丸・真田丸で奮戦する。

⑩1615年、大坂夏の陣にては、真田隊3,000騎全員鎧・甲冑を赤装束に統一し、死を覚悟して徳川家康めがけて突撃し戦死。


曽爾高原のススキ

2013年11月02日 | 紅葉

2013/11/01 奈良県宇陀郡曽爾村の曽爾高原のススキを見に行ってきました。

[所在地]:奈良県宇陀郡曽爾村太良路

 

曽爾高原駐車場(WC有り)             

 

 曽爾高原は、室生赤目青山国定公園の特別地域で、樹木が少なく、秋になるとあたり一面ススキが覆いつくし、高原全体を黄金色に染める。また、遊歩道もあります。