2018/03/29(木) 奈良県大和高田市の「高田川遊歩道の桜」を見に行ってきました。
<アクセス>近鉄大阪線・大和高田駅下車徒歩約15分
▼高田川遊歩道の略図
桜の木は高田川の両岸に植えられていました。
現在、高田川遊歩道の桜は、満開です。
2018/03/29(木) 奈良県大和高田市の「高田川遊歩道の桜」を見に行ってきました。
<アクセス>近鉄大阪線・大和高田駅下車徒歩約15分
▼高田川遊歩道の略図
桜の木は高田川の両岸に植えられていました。
現在、高田川遊歩道の桜は、満開です。
関ケ原の合戦後、北の庄68万石を与えられて入封した徳川家康の次男である結城康秀は、柴田勝家の居城であった北の庄城の跡地に金沢の前田氏を牽制するために、足羽川の流れを利用して広い堀が巡らされ、天守のある本丸を中心にした輪郭式の壮大な城を完成させた。3代藩主松平忠昌の時、福居(のち福井)と改称された。本丸北西隅に築かれた4層5階の望楼型天守は、寛文9年(1699年)の大火で焼失している。明治4年(1871年)の廃城令で建造物は全て無くなったが、内堀、石垣、土塁などが残っている。現在本丸跡には、県庁舎、議会議事堂、警察本部の建造物が建っている。
[所在地:福井県福井市大手3丁目]
<アクセス>JR福井駅より徒歩5分
▼福井城本丸復元図
▼内堀【南側】
▼本丸【南側】
▼結城秀康公とは!
▼結城秀康公像
▼天守台跡
▼小天守台跡 ▼天守台の井戸(福の井)
▼本丸【北側】 ▼内堀【北側】
2018/03/16 訪城
天正3年(1573年)、越前の朝倉氏は滅亡した。その後、織田信長は重臣の柴田勝家に越前8郡49万石を与え、越後の上杉謙信に備えるために朝倉氏の一乗谷城を廃止して、福井平野南部にある北庄(北ノ庄)に足羽川を天然の堀とする居城を築いた。これが北の庄城である。9層の天守を備えた城であったが天正11年(1583年)、賤ケ岳の戦いで前田利家ら部下の裏切りにより羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、北の庄城に逃げ込み火を放って自害したために城は築城からわずか9年余りで灰燼に帰した。発掘調査の結果、柴田神社境内が北の庄城本丸天守跡と推定され、そこには現在、柴田勝家の銅像も建てられて北の庄城址・柴田公園として整備されている。
[所在地:福井県福井市中央1丁目]
<アクセス>JR福井駅より徒歩5分
▼北の庄城址・柴田公園概略図
▼柴田神社
▼北の庄城址・柴田公園
▼柴田勝家像
▼北の庄城【想像図】
2018/03/16 訪城
組織的天下り問題で文部科学事務次官を引責辞任した前川喜平事務次官(63)が、2月に名古屋市の公立中学で行った授業内容を自民党議員が文部科学省に照会、同省が市教育委員会に問い合わせたとして騒ぎになった。その2日後に前川氏が名古屋市の私立高校で行った講演について参加した高校生から不満の声があがっている。講演時間の半分以上が「安倍政権批判」に終始していたというのだ。(ソース:夕刊フジ 3/23)
[コメント]
●引責辞任した公務員を同じ組織に属する公立校で授業なんかさせていいのか❕
ここの狂育委員会は全員クビだ!
●文部科学省にはこんな糞しかいないのか。
悪評のゆとり教育推進者の寺脇研(65)ともお友だちとは!糞だな‼
人財がいないのか⁇ 人材が不足なのか⁇ 人罪が多いのか⁇
●立憲民主党(反日・売国党)の不倫疑惑の山尾志桜里衆院議員も愛知県だ!
変な奴ばかりだな!
●学校が前川喜平の講演の録画を公開できないはずだ!
石動山系北端の標高300mの尾根に築かれた七尾城。能登守護・畠山氏の居城で、16世紀前半には全国の戦国大名の本城の中でも5指に入る壮大な規模を誇った。7代畠山義総の死後、天文19年(1550年)、重臣遊佐続光と重臣温井総貞の対立で「能登天文の内乱」が発生して畠山氏が凋落に向かった。
天正5年(1577年)上杉謙信に攻められ、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛らの裏切りにより七尾城は開城し、能登畠山氏は滅亡した。その後七尾城には、上杉氏の家臣である鰺坂長実が城代として入るが、天正7年(1579年)、遊佐続光が今度は上杉氏を裏切って七尾城城代の鰺坂長実を追放し、七尾城を占拠した。だが、その2年後の天正9年(1581年)には,織田信長の侵攻で能登は征服され、織田信長より能登一国を前田利家に与えられ七尾城に入城する。
天正10年(16582年)前田利家は七尾城から小丸山城に移る、さらに天正11年(1583年)、加賀を与えられて金沢城へ移った。天正17年(1589年)には七尾城は役目を終え、廃城となった。
昭和9年(1934年)、七尾城が国の史跡に指定された。現在、曲輪・石垣・土塁・空堀などが残っています。
[所在地:石川県七尾市古城町]
<アクセス>①JR七尾駅から市内循環バス『まりん号』で約15分「城史資料館前」下車。城史資料館から七尾城本丸跡まで徒歩約60分。
②JR七尾駅から七尾城跡(本丸駐車場)まで車で約15分(約7Km)
▼七尾城の概要
▼七尾城の縄張り概略図
▼七尾城中心部復元図
▼堀切リ(関東堀)
▼調度丸跡
弓矢などの武具を備えた場所とされる。
▼本丸の石垣
▼本丸跡
▼本丸跡
▼七尾城本丸からの眺望
本丸は標高約300mの尾根に位置し、北面に視界が開けている。眼下の海は七尾南湾で、その向こうには能登島が見える。
▼桜馬場跡
▼桜馬場跡
▼二の丸跡
▼二の丸の復元図
▼二の丸跡
2018/03/15 訪城
加賀藩前田家二代藩主の前田利長は、隠居して富山城にいたが、慶長14年(1609年)3月の大火で城が全焼し、高岡の地に新しい城を築いた。しかし、元和元年(1615年)一国一城令にょって廃城となりました。建物や門は取り壊されたが、石垣や堀はそのまま残された。そのために、縄張りはほぼ完全に近い形で確認することができます。現在、高岡城跡は、高岡古城公園となっています。
[所在地:富山県高岡市古城]
<アクセス>JR高岡駅から徒歩約5分。
▼高岡城の概要
▼高岡城略図
▼高岡城跡碑(鍛冶丸跡)
▼射水神社(本丸跡)
▼本丸跡 ▼前田利長公像(本丸跡)
▼朝陽橋 ▼民部の井戸(三の丸跡)
▼内堀
2018/03/15訪問
犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に、天文15年(1546年)、石山本願寺の支院金沢御堂が創建された。天正8年(1580年)、織田信長の命により柴田勝家・佐久間盛政が金沢御堂を攻略し、その地に佐久間盛政が尾山城を築いた。賤ケ岳の合戦で柴田勝家についた佐久間盛政が処刑され、前田利家に尾山城が与えられた。その後二の丸・三の丸などの曲輪を拡張し、総構を築いて加賀、越中、能登の3ケ国120万石にふさわしい天守のある近世城郭金沢城と城下町を整備した。慶長7年(1602年)天守は落雷で焼失したが、以後再建されることはなかった。
明治4年(1871年)の廃城令で、金沢城の不要な建物や門などが取り壊されましたが、現在、金沢城公園として整備され、二の丸の菱櫓・橋爪・橋爪門続櫓・五十間長屋などが復元されています。
[石川県金沢市丸の内]
<アクセス>①JR金沢駅からバス
②JR金沢駅からタクシ約10分。
▼金沢城の概略図
▼石川門…金沢城の裏門である。 ▼石川門の櫓門
表門(中央)、二重櫓(左)、櫓門の屋根(右)
▼五十間長屋
左右に長く延びる五十間長屋。二重の多門櫓で、左手は橋爪門続櫓、右手は菱櫓。
▼橋爪門続櫓 ▼菱櫓
▼二の丸
▼極楽橋 ▼三十間長屋
二の丸と本丸の間にある空堀に架かる橋
2018/03/16 訪城
2018年3月7日(水)大阪城公園の『大阪城梅林』に花見に行ってきました。開花状況は7分咲きでした。
<アクセス>JR大阪環状線・大阪城公園駅下車徒歩約12分
▼大阪城公園の概略図
大阪城梅林では、100品種の1200本余りの梅を見ることができます。
▼大阪城梅林エリア
元和5年(1619年)、備後南部10万石を得た徳川譜代の臣、水野勝成(徳川家康の従兄弟)は、福山の地に天守閣のほかに7基の三重櫓と二重の堀で防備された新城と城下町完成させた。そして地名を福山と名付け、福山城と称した。
福山城を築城した水野氏は元禄11年(1698年)、5代の水野勝岑に後継ぎがなかったため、取り潰しとなり代わって元禄13年(1700年)には出羽山形より松平忠雅が入城したが、宝永7年(1710年)には伊勢桑名へ転封し、同年、福山城には阿部正邦が入り、以後明治維新まで阿部氏が10代にわたって福山城主を務めた。
明治6年(1873年)の廃城令で、天守閣・本丸・一部の櫓などは残されたが多くの建造物は取り壊された。さらに、昭和20年(1945年)8月の米軍の福山大空襲で天守閣、御湯殿、涼櫓等多くの文化財が焼失したが、昭和41年(1966年)、市政50周年記念事業として、天守閣と御湯殿、月見櫓等が復元された。
[所在地:広島県福山市丸の内1丁目8番]
<アクセス>JR福山駅から徒歩約5分
▼福山城の概要
▼二の丸西側の石垣 ▼伏見櫓
▼筋鉄御門の全景 ▼筋鉄御門
▼伏見櫓 ▼鐘櫓
▼天守閣・・・・・右の二重の建物は小天守
▼天守閣よりの眺め
2018/2/14 訪城
広島城は、天正17年(1589年)4月15日、中国山地から流れる太田川河口に開けたデルタ地帯に、毛利輝元が築城を開始し、10年後には、5重の大天守と小天守2基を備えた壮大な城郭を完成させた。しかし、慶長5年(1600年)、毛利輝元は天下分け目の関ケ原の合戦に敗れ、周防・長門2国に減封。この決定により築城主であった毛利輝元は完成間もない広島城を去り、東軍についた福島正則が、安芸広島と備後鞆49万8000石の大封を得て、広島城入城となった。
福島正則は、石垣職人集団「穴太衆」を雇い入れ、毛利輝元時代に不十分だった外堀や外郭の整備を進め内堀、中堀、外堀をもつ1Km四方に及ぶ広大な広島城を完成させた。しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた福島正則は元和五年(1619年)に安芸・備後2ケ国を没収され、代わって紀伊から浅野長晟が安芸一国・備後半国42万6000石の領主として広島城に入城となった。以後、浅野家のもと12代約250年にわたり平和な時代が続き、明治維新を迎えた。
明治維新後には広島鎮台となり、廃城令により建造物は次第になくなったが、昭和20年(1945年)8月6日、米軍の原爆投下により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在、大天守、二の丸表御門、多門櫓なども復元されている。
[所在地:広島県広島市中区元町21番1号]
<アクセス>JR広島駅から徒歩約25分
▼本丸の石垣 ▼二の丸平櫓と二の丸表御門
▼二の丸表御門
▼長櫓(多門櫓) ▼太鼓櫓
▼外観復元された天守閣
▼広島城天守閣からの眺め
2018/2/14 訪城
中国人観光客向けに無許可でタクシー営業(中国式白タク)を行ったとして、大阪府警交通捜査課は、3月1日、道路運送法違反の疑いで、レンタカー業の高晶(ガオ・ジン)容疑者(32)=大阪市浪速区戎本町=ら中国籍の男女3人を逮捕したと発表した。
逮捕容疑は昨年11月~12月、国土交通相の許可を受けずに6回にわたり、中国人観光客らを車に乗せ、関西空港から大阪市内などに有料で運んだとしている。大阪府警は3人の認否を明らかにしていない。
訪日中国人の急増に伴い、在日中国人が割安で送迎する中国式白タクは各地で横行。大阪府警は関空などを中心に摘発を強化している。(ソース:産経新聞)
[コメント]
●全財産を没収の上、中国へ強制送還を❕
●犯罪者は、強制送還を!