建武2年(1335年)に内藤顕勝は戦功により、足利尊氏より船井郡を与えられ、八木の標高330mの城山(桂川西の丘陵上)に築城を開始したのが丹波守護代内藤氏の丹波・八木城です。規模は、東西約700m×南北約900mで、丹波地域で最大規模である。丘陵全域にわたり、複数の曲輪群が配置され一体となって機能している。本丸は、石垣造りであったようである。
しかし、16世紀になると丹波で台頭した波多野氏や赤松氏に圧迫されるようになります。天文22年(1553年)内藤国貞が三好長慶と結んで八上城主波多野氏と対立中、波多野方の三好正勝・香西元成によって八木城を攻められ落城。内藤国貞は討死にした。その後、三好長慶の家臣で、松永久秀の弟松永長頼が八木城を奪還する。松永長頼は、内藤国貞の娘を娶って内藤宗勝と名を改め、八木城主となった。
内藤宗勝により衰退していた内藤氏の勢力も回復したが、永禄8年(1565年)黒井城攻めで討死にしたため、八木城の城主は、内藤国貞の一子・内藤貞勝が継いた。織田信長が足利義昭を京都から追放し、足利幕府が崩壊すると、天正7年(1579年)6月、内藤有勝が城主の時、織田信長の武将・明智光秀によって丹波攻略が開始され、丹波・八木城は落城し、内藤氏は滅亡した。
[所在地:京都府南丹市八木]
<アクセス>JR嵯峨野線・八木駅の西側、登山口まで徒歩約15分。
登山口から丹波・八木城本丸(頂上)まで約30分。
▼丹波・八木城の縄張り図
▼春日神社 ▼天神口側の登山口前のトンネル
▼登山口 ▼九合目
▼本丸は左へ・妙見宮は右へ ▼まもなく本丸
▼本丸 ▼本丸
▼本丸(頂上) 標高約330m ▼本丸の石垣
▼本丸からの眺め
2019/11/23訪城
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八木城の戦い 天正7年(1579年)
織田方の明智光秀軍が、2000騎で丹波侵攻、対する内藤方の内藤有勝・内藤正勝が丹波・八木城に1000騎で籠城して防戦。内藤有勝、内藤正勝討死。6月27日、丹波・八木城は落城。内藤氏は滅亡した。