nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

大河内城

2020年07月30日 | 三重県の城郭・環濠

 応永22年(1415年)、北畠満雅が阿坂城で室町幕府に反旗をひるがえしたとき、標高110m余りの丘陵突端部一帯に、300m四方の範囲内で築城し、東に阪内川、北に矢津川が流れ、南と西は深い谷で自然の要害の地を形成している山城の大河内城に、弟・北畠顕雅を籠城させたという。以後、北畠顕雅の子孫が居城し、大河内御所を称した。

 永禄12年(1569年)、織田信長が南伊勢攻略の大軍を発した時、伊勢国司北畠具教は本拠を多気(津市美杉町上多気)よりこの城に移し、補強して織田信長の軍勢を迎えうった。北畠具教は籠城の末、織田信長の次男織田信雄を養子に向かえ北畠の家督を譲る条件で和議を結び、北畠具教は、大河内城を退去した。

 天正3年(1575年)、北畠信意(家督と相続後は信雄を信意に改名)により、大河内城は廃城となり、翌年南伊勢を統治する拠点を田丸城(度会郡玉城町田丸)に移した。

 現在、三重県の指定史跡で、本丸、二の丸、西の丸、馬場、土塁、堀切などが城のおもかげを残している。

【所在地:三重県松阪市大河内町城山525外

<アクセス>JR・近鉄松阪駅から三重交通バスで広畑バス停まで19分。広畑バス停から徒歩

大河内城の概要

大河内城の縄張り

西連寺          ▼搦手より登城する

              ▼搦手門跡

              ▼二の丸の石垣

              ▼二の丸

鳥居をくぐり本丸への通路を進む

              ▼馬場跡(通路の右側)

              ▼御納戸跡(通路の左側)

階段を登っていく     ▼階段の上が本丸

鳥居をくぐると本丸    ▼本丸

                   現在、本丸は大河内神社の境内地となっている

              ▼本丸

大河内合戦400年記念碑  ▼西の丸へ向かう

橋の下は堀切       ▼本丸と西の丸の間の堀切

              ▼西の丸

              ▼西の丸

2020/07/30 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大河内城の戦い  永禄12年(1569年)

 織田信長70,000騎と北畠具教・具房親子8,000騎の戦。50日に及ぶ籠城戦に耐え、織田信長の次男・織田信雄を北畠具房の養子に向かえて家督を譲ることで、和睦成立。大河内城を織田信雄に明け渡し、北畠具教は、三瀬館、北畠具房は、坂内城に移った。


志摩・取手山砦

2020年07月18日 | 三重県の城郭・環濠

 志摩・取手山砦は、JR・近鉄鳥羽駅の南にある標高62.5mの日和山(ひよりやま)の山頂から南東に張り出した標高50mの丘陵頂部に築かれている。切岸加工された頂部の本丸と北東の尾根に二の丸がある。本丸と二の丸の間には堀切があったと思われる。

 鳥羽は保元・平治(1156~1158年)以来、橘氏が代々住みついた所で、志摩・取手山砦は、永正年間(1504~1521年)に橘宗忠(鳥羽主水)が館を構えたところである。永正年間に、橘宗忠は、伊勢国司北畠に属して、志摩の二郡を領し、鳥羽殿と呼ばれ、取手山砦を築いて、往来する船から帆別銭を微収していた。橘宗忠(鳥羽主水)は志摩十三人地頭の一人である。

 永禄12年(1568年)に九鬼嘉隆に攻められ降伏し、橘成忠(橘宗忠の父)は娘を九鬼嘉隆に差し出したので、橘宗忠(鳥羽主水)と九鬼嘉隆は義兄弟である。

【所在地:三重県鳥羽市鳥羽1丁目4-65】

アクセス>JR・近鉄鳥羽駅南口から徒歩約8分(約500m)

志摩・取手山砦の概要

志摩・取手山砦

 本丸は、虎口からさらに一段高いところが本丸

本丸の裏側            橋の向こうは二の丸    

 木が生い茂っている上が本丸       橋の下には堀切がある      

右回りに登ると本丸へ       本丸 切岸加工された頂部の本丸

2020/07/16 訪城


赤木城

2019年09月26日 | 三重県の城郭・環濠

 赤木城は、三重県熊野市紀和町赤木の標高約230mの丘陵上に立地する平山城です。

 天正13年(1585年)、豊臣秀吉が紀伊に侵攻し、在地勢力の抵抗勢力は滅ぼされ、一応平定するが、天正14年(1586年)から天正17年(1589年)には奥熊野で天正の北山一揆が発生する。赤木城は、在地の反対勢力を抑える目的と熊野地域から産出する木材の木材伐採のため、北山川(熊野川の支流)流域支配の拠点とするために、大和・紀伊の大名であった豊臣秀長の家臣の藤堂高虎によって築城された。

 赤木城は、山頂の主郭から南北に延びる3本の屋根には、東郭(1・2)、西郭(1・2)、北郭があり、東郭と西郭の間の谷間には南郭(1・2・3)がある。高く積まれた石垣や、枡形虎口など近世城郭の要素も見受けられる。赤木城は、江戸時代の改修を受けなかった織豊系城郭の典型例であり、平成元年(1989年)10月9日に国指定史跡に指定された。

[所在地:三重県熊野市紀和町赤木字城山]

<アクセス>JR紀勢本線『熊野市駅』から車で約40分。

      駐車場:WC付きの無料停車場あり(約30台)

赤木城跡遠望        ▼赤木城跡の看板(駐車場)

赤木城の縄張り図

南郭(1・2・3)     ▼東郭(1・2)

東郭(1・2)                        ▼東郭から西郭への通路

西郭(1・2)と東郭からの通路西郭(1・2)

東郭から見る主郭虎口    ▼主郭の門跡

主郭

主郭の石垣

主郭からの眺め

2019/09/22訪城


采女城(うねのじょう)

2019年03月04日 | 三重県の城郭・環濠

 藤原氏を祖先とする後藤伊勢守基秀は、文応元年(1260年)、先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭職となり一族郎党を引き連れて采女の地に移住、采女山(北山)に、標高50~70メートルの三つに分かれた丘陵尾根を利用した放射状連郭の平山城で、主郭には、深井戸を掘って水を得るようにした要害の采女城を築いた。

 以来三百有余年、連綿と治政して続いたが、後藤采女正藤勝の時、織田信長の重臣・滝川一益の侵略に遭った。関家・蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568年)遂に落城した。

  現在、城跡は采女城跡保存会の人々で整備され、本丸には井戸と説明版があり、土塁や空堀の遺構もよく保存されています。さらに、木橋で散策路が整備され歩きやすい見ごたえのある山城です。

【所在地:三重県四日市市采女町字北山】

<アクセス>四日市あすなろう鉄道内部線・内部駅下車徒歩約20分。

         

あすなろう鉄道は電車の中で最も線路幅の狭い特殊狭軌線ナローゲージの鉄道。

釆女城付近の概略図

釆女城の由来

釆女城の縄張り図

采女城の碑        ▼(采女城の)登城口

登城口から谷筋の道を登っていく

虎口(一の郭に通じる虎口)     ▼虎口(八の郭へ通じる虎口)

五の郭

一の郭(本丸)                    ▼一の郭(本丸)の土塁

              ▼空堀

二の郭          ▼物見櫓跡

              三の郭

2019/03/02 訪城


伊勢上野城

2019年02月08日 | 三重県の城郭・環濠

 元亀元年(1570年)、織田信包が津城(安濃津城)の仮城として分部光嘉に築城させた伊勢上野城は、上野の町なみを見下ろす標高30mの台地を利用した平山城です。台地の東側は険しい崖の上にあり、他の三方は谷に囲まれ、敵を防ぎやすい地形ですが、さらに、城の周りを深く掘りその土を盛り上げて、土塁が造られていた。伊勢上野城の規模は、東西約230m、南北約120mの規模で、本丸は約80m四方の高台で、東側に二の丸が置かれ、その東側には幅約20mの空堀が造られていました。

 天正8年(1580年)、津城の完成により、織田信包が居城を津城(安濃津城)に移したため、分部光嘉が城代となり、文禄3年(1594年)に織田信包が近江へ改易になると、分部光嘉が城主に任じられて独立した1万石の城となった。その後、慶長5年(1600年)の関ケ原の前哨戦では、津城主富田知信と共に徳川家康に組して、石田三成の毛利秀元と戦い、その恩賞で2万石の大名になった。慶長6年(1601年)、分部光信(分部光嘉の孫)が城主になり、元和5年(1619年)、分部光信の代に近江国大溝城(滋賀県高島市)へ転封となったため、伊勢上野城は廃城となり、その後この地は紀州領になった。

【所在地:三重県津市河芸町上野

<アクセス>近鉄名古屋線・豊津上野駅から徒歩約15分。

伊勢上野城付近の概略図

現在の伊勢上野城跡

伊勢上野城の縄張り

本丸へ          ▼本丸

本丸           ▼二の丸

    後ろの建物が展望台。

   2階資料室は毎週日曜日10時~15時まで開館。

空堀           ▼城への登り口

2019/02/02 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

安濃津城の戦  慶長5年(1600年)

  石田三成が挙兵。大坂方の毛利秀元の約30000騎の大軍で伊勢侵攻。富田知信、分部光嘉が2000騎で、津城(安濃津城)で籠城戦。木食上人のすすめで富田知信が開城。


羽津城

2017年05月02日 | 三重県の城郭・環濠

 羽津城は、15世紀頃、赤堀盛宗が築城した。彼は、藤原秀郷の子孫で、応永年間(1394年~1428年)に、上野国赤堀庄から当地に移って赤堀城を築いた藤原景信の長男だった。赤堀景信の次男は赤堀城を継ぎ、三男の忠秀は浜田城に城を構え、盛宗とともに赤堀三家といわれて、北勢地方で勢力を誇った。

 羽津城は、盛宗の後、宗久・宗善・宗慶・宗昌と続いたが、元亀3年(1572年)、六代近宗の時に織田信長に滅ぼされた。羽津山町の正法寺には、六代の過去帳がある。現在、城跡と称しているところは、昔の本丸跡で、土塁が残っている。

[所在地:三重県四日市市羽津町字城山]

<アクセス>近鉄名古屋線・阿倉川駅から東北へ約500m。

羽津城の概要

羽津城跡碑        ▼本丸跡

 

本丸の土塁        ▼本丸の土塁

 

2017/04/30 訪城 


茂福城(もちふくじょう)

2017年05月02日 | 三重県の城郭・環濠

  平維茂の子孫、平貞冬が、越前朝倉よりこの地へ来て城を築き朝倉を名乗った。保々西城の朝倉備前守と同族である。

 永禄10年(1567年)にいたり最後の城主、茂福掃部輔盈豊は、織田信長の武将、滝川一益に不信を持たれ、長島城へ誘いだされ殺害された。城主を失った茂福城兵は滝川勢と激しく戦ったが攻め落とされたという。

 滝川一益は目代として山口氏を置き治めさせた。

[所在地:三重県四日市市茂福町字里の内]

<アクセス>近鉄名古屋線・近鉄富田駅から南南西へ約1Kmまたは、霞ケ浦駅から北北東へ約1Km。

      JR関西線・富田浜駅から西北へ約700m。

茂福城の概要

茂福城(主郭の北西角)

茂福城(主郭の北西角)

茂福城(主郭の北西角)

2017/04/30 訪城


滝川氏城(別称:小波田城)

2016年10月29日 | 三重県の城郭・環濠

  滝川氏城は天正9年(1581年)、織田信長が伊賀に攻め入った「天正伊賀の乱」の際に北畠(織田)信雄の家臣、滝川三郎兵衛雄利(滝川一益の娘婿)が築いた城郭(平山城)です。伊賀特有の単郭式で四方に土塁と堀を巡らしています。郭内は、約70m四方です。この種の城では三重県下最大規模で、兵の駐屯地と考えられます。道を挟んだ南側には、北畠(織田)信雄の陣屋といわれる桜町中将館があり、天正12年(1584年)に豊臣秀吉に追われるまで、南伊賀支配の拠点となりました。現在、城址は、地区のグランドになっており、周囲は土塁と空堀が残っています。

[所在地:三重県名張市下小波田字下出]

<アクセス>近鉄大阪線・美旗駅下車徒歩約25分

川氏城の概要

滝川氏城の縄張り図

滝川氏城の土塁

滝川氏城の郭内

 現在、滝川氏城址は、地区のグランドになっています。

2016/10/16 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天正伊賀の乱   天正9年(1581年)

 天正7年(1579年)、伊賀国の北畠(織田)信雄が、8000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年(1581年)9月27日、織田信長は、45000騎の大軍勢で、伊賀の6つの入り口から一斉に攻め込み、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に惨殺した。最後の拠点、柏原城(滝野城)で約1600騎の土豪が最後まで抵抗したが、10月28日、城主、滝野十郎吉政が筒井順慶に柏原城(滝野城)を明け渡し降伏した。天正9年(1581年)の伊賀再討は伊賀全土が焦土化した。


菰野(こもの)城

2015年11月02日 | 三重県の城郭・環濠

  菰野城は、慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の後、加賀の前田利長説得の功で、徳川家康より菰野藩1万2千石を土方雄氏に与えられ、二代目土方雄高が陣屋と城下町を整えました。現在の菰野小学校の敷地が城跡であり、西南に角櫓が建っていました。今も西北には城堀の一部と土塁が残っています。この城跡碑の立つあたりは藩邸の奥庭のあった場所です。菰野城は土方雄氏から十二代土方雄永に至る明治二年廃城になるまで、その間、藩士の移封もなく約270年間土方氏の居城でありました。現在、城門は金蔵寺と光徳寺に移築されて現存しています。菰野小学校の南側道路脇には、案内板と石碑が立っています。

[所在地] 三重県三重郡菰野町大字菰野(菰野小学校)

アクセス>近鉄・湯の山線・中菰野駅下車徒歩約5分

菰野城の概要

菰野城跡(案内板あり)   ▼菰野城跡の石碑

 

野城の概略図

表御門の制札

菰野藩の小史

2015/10/31 訪城


丸山城  (伊賀国)

2015年10月17日 | 三重県の城郭・環濠

 伊勢の国司北畠氏の養子となっていた織田信長の次男北畠信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を狙っていたが、天正6年(1578年)2月、伊賀国の郷士下山甲斐が北畠信雄を訪れて、伊賀国への手引きを申し出たので、北畠信雄の第一次伊賀攻めの際の拠点とするべく、北畠信雄の家臣の滝川雄利(滝川一益の娘婿)に命じて丸山城を築かせた。城は、比自岐川の南岸の標高180m~213mの丘陵上に築かれ、山頂部の本丸には三層の天守閣があり北、西側の尾根筋には堀切りで防衛された多くの曲輪や櫓台も存在する。南側の谷を隔てた丘陵地にも出丸がある。伊賀地域の中では本格的な大規模な山城である。この築城が、「天正伊賀の乱」の要因となった。天正6年(1578年)10月,伊賀の土豪・国人衆はこの城を攻撃し滝川雄利を敗走させます。翌年の天正7年(1579年)9月の「第一次伊賀天正の乱」でも北畠信雄軍8000騎を伊勢国に敗走させますが、天正9年(1581年)9月の[第二次伊賀天正の乱」では、織田信長自ら45,000騎で伊賀に攻め込み、土豪・国人衆の立て籠もる丸山城を始めとする伊賀の城砦をことごとく陥落させ、伊賀を完全に領国とした。織田信長は、滝川雄利に伊賀郡、名張郡、阿拝郡を与え、丸山城は滝川雄利の持城となった。天正12(1584年)に伊賀国から伊勢国松ケ島城の城主として入城したために丸山城は、廃城となった。

 [所在地:三重県伊賀市下神戸]

アクセス>伊賀鉄道・丸山駅下車、丸山城・本丸まで徒歩約20分

北側より見た丸山城    ▼川を渡る丸山城登山口

 

丸山城跡への表示板(丸山城登山口) 北側から山道を登っていく

 

 ▼丸山城・本丸への道             山道を登っていく

 

 ▼丸山城・本丸付近        ▼丸山城の石碑(山頂に建つ)

 

2015/10/16 訪城 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天正伊賀の乱  天正9年(1581年)

  天正7年(1579年)9月、伊勢国の北畠(織田)信雄が、8,000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年(1581年)9月27日、織田信長は、45,000騎の大軍勢で、伊賀の6つの入り口から一斉に攻め込み、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に惨殺した。最後の拠点、柏原城(滝野城)で約1,600騎の土豪が最後まで抵抗したが、10月28日、城主、滝野十郎吉政が筒井順慶に柏原城(滝野城)を明け渡し降伏した。天正9年(1581年)伊賀再討は、伊賀全土が焦土と化した。


柏原城(滝野城)

2015年09月25日 | 三重県の城郭・環濠

 柏原城(滝野城)は、永禄年間(1558年~1570年)に滝野貞清が築城した平山城である。天正2年(1574年)に滝野貞清が没すると、滝野十郎吉政が継いだ。天正9年(1581年),織田信長の第二次伊賀攻めにより柏原城に約1600騎の土豪などが立て籠もったが、織田信長軍の猛攻に力尽き、降伏し、筒井順慶に明け渡された。城は、四方を二重の堀と土塁に囲まれた堅固な本廓と西側にも堀切と土塁により防御を固めた廓がある二連複郭式の城である。本廓南側に虎口がある。

[所在地:三重県名張市赤目町柏原字滝野]

アクセス>近鉄大阪線・赤目駅下車徒歩約20分

柏原城(滝野城)の概要

決戦之地柏原城の碑                     

    勝手神社の北西脇勝手神社外側)               柏原城址(滝野城址)

 

              本廓(四角い廓)   

 

本廓(四角い廓)

本廓の周りの土塀の石垣

 

柏原城(滝野城)の概略図

2015/09/22 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天正伊賀の乱   天正9年(1581年)

  天正7年(1579年)9月、伊勢国の北畠(織田)信雄が、8,000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年(1581年)9月27日,織田信長は、45,000騎の大軍勢で、伊賀の6つの入り口から一斉に攻め込み、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に惨殺した。最後の拠点、柏原城(滝野城)で約1,600騎の土豪が最後まで抵抗したが、10月28日、城主、滝野十郎吉政が筒井順慶に柏原城(滝野城)を明け渡し降伏した。天正9年(1581年)の伊賀再討は伊賀全土が焦土と化した。


八田城(はったじょう)

2014年10月12日 | 三重県の城郭・環濠

  八田城は、桓武平氏の流れをくみ、相模国(現在の神奈川県),三浦半島に勢力をもっていた三浦義明の孫三浦五郎左衛門盛時が鎌倉時代に相模からこの地に移住して、標高約58m,山麓からの比高差約34mの山頂に立地する平山城を築城しました。堅固な城になったのは室町期である。城の中心は、土塁に囲まれた曲輪(郭)で、その東・南の2ケ所に虎口(出入り口)があります。主郭の東にも曲輪がある他、見張り台、井戸、堀切などの城の施設がありました。この地では、「三浦」姓を改め、「大多和」姓を名乗り、津市美杉町多気を本拠とする伊勢国司の北畠氏の配下となりました。永禄12年(1569年),盛時より10代にあたる大多和兵部少輔監物が城主の時、織田信長の伊勢侵略の際、木下藤吉郎(豊臣)秀吉に攻められるも、龍城しました。しかし、北畠具教は織田信長と和睦したため、城を開城しました。その後、天正4年(1576年)の北畠氏滅亡により、本城も陥落し、大多和氏は下之庄村に隠棲、帰農して、子孫は姓を元の「三浦」姓に改めました。現在、八田城跡は、市指定史跡になっています。

[所在地:三重県松阪市嬉野八田町字城山]

<アクセス>近鉄・伊勢中川駅下車徒歩で約60分(約5.1Km)又はタクシーで約10分。

八田城山(八田城)              ▼八田城跡碑

 

八田城跡の概要

八田城の縄張り図

東屋(あずまや)

砦門

 

堀切          ▼土塁

 

             曲輪

 

史跡指定記念看板(主郭) ▼見張り台

 

あぶな橋       ▼井戸跡

 

2014/10/12訪城  2018/10/13訪城


木造城(こつくりじょう)

2014年06月10日 | 三重県の城郭・環濠

 木造城は、正平21年(1366年)に伊勢国司・北畠顕能の次男北畠顕俊が一志郡木造に築城した平城です。北畠顕俊は地名を取り木造氏と改め、初代城主として一志郡を支配しました。現在の木造城跡は、7代木造俊茂が亭禄元年(1528年)、古城の北約300mに新しく築いた新城です。城は、低湿地に囲まれた天然の要害で、多重に堀を巡らし守りに適した堅固な城であった。永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻してくると北畠家を離反し、木造具政は、北畠侵攻の案内役を務めます。信長の次男信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣事で和解した後は、木造氏は、織田(北畠)信雄の家老となり、9代木造具政が天正12年(1584年)に「小牧・長久手の戦」の局地戦の宮山城、戸木城の戦で織田軍の家老として奮戦しています。戦後に、戸木城に移ったことにより、木造城は廃城となった。現在、田園の真ん中に小高い丘が残っているだけですが、これが木造城の土塁の一部と思われます。城跡の南にある集落は、かっての武家屋敷の名残とされ、木造氏ゆかりの木造神社や引接寺があるかっての城下町である。

[所在地:三重県津市木造町字城]

アクセス>近鉄名古屋線・桃園駅下車徒歩約30分

田園の中の小高い丘に石碑と案内板が建っている。

 

木造城址碑

 

2014/06/08 訪城 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戸木(へき)の戦  天正12年(1584年)

 織田信雄と豊臣秀吉の抗争で、絶縁。「小牧・長久手の戦」の局地戦。豊臣秀吉方、松ケ島城主・蒲生氏郷と織田信雄方戸木城主・木造(こつくり)長政が激突。豊臣秀吉と織田信雄、徳川家康が和議。のち織田信雄没落。関ヶ原の戦で、木造長政は織田秀信(西軍)に従う。


斎宮城

2014年06月10日 | 三重県の城郭・環濠

 斎宮城は、室町時代の後半、戦国時代の頃、斎宮の住人、野呂三郎が築城した平城です。野呂三郎は、弘治元年(1555年)12月に南伊勢のあぶれ者数百人と結託して、勝手に借物を破ろうと企て、徳政の乱(つまり徳政一揆:負債の破棄を要求する暴動)を働いた。一味の者どもがほら貝を吹き、ときの声を上げて、あちこちを焼き払い、斎宮城に立て籠もった。しかし、伊勢国司・北畠材親(きちか)配下の伊勢南部の武士によって討伐された。その後、廃城となった。現在、城跡は、明治39年(1906年)に始まる神社統合命により、明治44年(1911年),旧斎宮村にあった25社の神を合祀して誕生した竹神社となっている。

[所在地:三重県多気郡明和町斎宮字牛葉(竹神社)]

<アクセス>近鉄山田線・斎宮駅下車徒歩約5分

案内板             ▼斎宮城跡碑

 

竹神社(斎宮城跡)

   現在は、旧斎宮村にあった25社の神を合祀して、竹神社になっています。

 

2014/06/08 訪城


松ケ島城

2014年03月03日 | 三重県の城郭・環濠

 松ケ島は伊勢神宮への参宮古道沿いにあって伊勢湾に面し、海陸交通の要衝であった。天正8年(1580年)近くの田丸城が消失したため、織田信雄(織田信長の二男)が新たに城を築き、松ケ島城と称した。五層の天守閣のある城であった。その後、織田信雄の家臣・津川義冬、滝川雄利が城主となり、最後は、天正12年(1584年)豊臣秀吉の部下・蒲生氏郷が12万石で入部した。ところが、城下が手薄だったため、天正16年(1588年)蒲生氏郷は、新しく松阪城を築いて,同年11月末までに松ケ島城の町人や寺社は全て松阪城に強制移住させられて、松ケ島城と城下町は廃城となった。現在は周りが畑ばかりの場所に幅約20m,高さ約2mの丘が1つだけあるだけです。昭和31年12月に、三重県指定史跡に指定されました。

[所在地:三重県松阪市松ケ島字城ノ腰]

アクセス>近鉄山田線松ケ崎駅から徒歩15分

松ケ島城の概要

 ▼本丸天守跡

本丸天守跡                                       ▼松ケ島城跡碑

 

2014/03/03 訪城

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

北畠信雄(きたばたけのぶかつ)(1558年~1630年)

 織田信長の二男。永禄12年(1569年)秋、北畠氏との講和の時、養嗣子として送り込まれた。天正3年(1575年)6月より北畠当主。翌年11月、北畠一族を滅ぼし、南伊勢一帯の支配権を握る。その後、遊撃軍として各所を転戦。天正7年9月には、勝手に伊賀に兵を出して敗績し、父、織田信長より叱責された。伊賀は二年後総大将として平定,三郡を与えられる。本能寺の変後、弔い合戦に参加できず、尾張の加増にとどまる。小牧・長久手の役で徳川家康と組んで豊臣秀吉と戦ったが、結局これに従う。天正18年(1590年)、国替えを拒んで豊臣秀吉の怒りを買い、所領を没収、下野に配流された。

白米城伝説  応永22年(1415年)

  足利幕府に対抗し松阪城に立て籠もった北畠満雅の軍は幕府軍の水断ちによる兵糧攻めに対し、白米を流して水が豊富にあるように見せかけて撃退した。