赤穂城は、古くは、仮屋城と呼ばれていた。戦国時代に、宇喜多秀家が起工した城である。のち、姫路城池田輝政の持城となり、その子輝興が城主となった。しかし輝興が病んで改易、正保2年(1645年)に浅野長直が53,000石で移封されてきた。浅野長直は、13年の歳月をかけて、旧城を改造、寛文元年(1661年)に完成させる。その構造は、戦を強く意識し、複雑に折れ曲がる堀や石垣、角度を違える諸門に特徴があります。5層天主の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天主台のみが今日に残っている。浅野氏は、長矩の代に断絶。以後、城主は、永井氏(33,000石)が1代,森氏(20,000石)が、12代続いて明治維新となった。明治6年の廃城令で城内の建物は、破壊され、石垣・堀のみが残っていたが、現在、城跡は、大手門・大手隅櫓・本丸櫓門等が復元され、堀・石垣・本丸御殿跡・本丸庭園等もきれいに整備されて、国史跡に指定されています。
[所在地] 兵庫県赤穂市
<アクセス>JR赤穂線・播州赤穂駅下車徒歩20分
▼国史跡・赤穂城跡図
▼大手門
▼大手隅櫓 ▼大石邸長屋門
▼武家屋敷跡
▼赤穂城本丸門(手前は高麗門・奥は櫓門)
▼土塀・石垣と内堀 ▼櫓 門
▼天主台跡 ▼本丸跡
▼本丸跡 ▼本丸庭園(国名勝)
▼厩口門(台所門) 浅野家時代は、厩口門、森家時代は、台所門と呼ばれていた。
▼石垣と内堀
▼石垣と内堀
▼西仕切門
▼遊水池 ▼石垣と外堀
2013/10/27 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼赤穂市内略図 ▼大石内蔵助良雄像
(播州赤穂駅前)
▼赤穂藩の上水道
▼息継ぎ井戸
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
浅野家赤穂藩改易 元禄14年(1701年)
浅野城主、浅野長矩(53,000石)が、高家筆頭の吉良義央を江戸城中に斬り、即日切腹、改易。
浅野長矩公 ⇒即日切腹
赤穂藩 ⇒改易
吉良義央 ⇒咎めなし・・・義央は、事件後に辞職、隠居。
⇓
浅野家再興の願い・・・・『長矩の弟・浅野大学の閉門を解き、藩主と認めよ』
⇓
却下 👉閉門は解くが浅野本家に預ける。⇒藩再興も不可能となり、吉良義央の襲撃・殺害を決議した。
⇓
赤穂浪士討ち入り 元禄15年(1702年)
元禄15年12月14日午前4時ごろ、火消し装束の赤穂浪士大石内蔵助良雄ら四十七士が吉良邸に討ち入り吉良上野介義央(よしなか)を討つ。浅野長矩公の無念をはらす。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●花岳寺(かがくじ)
花岳寺は、正保2年(1645年)に浅野長直が父華獄院と母台雲院の菩提寺として建立した曹洞宗永平寺の末寺。以後、歴代藩主となる永井家、森家の菩提寺でもある。境内には、浅野家墓脾、森家墓脾、赤穂義士47人の墓脾がある。
▼花岳寺山門(赤穂城の西惣門)
▼鳴らずの鐘
▼本堂 ▼二代目大石名残り松
▼赤穂義士の墓所
2013/10/27 訪問
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●大石神社
大石神社は、三の丸の一部の大石内蔵助及び藤井又左衛門の屋敷跡に大正元年(1912年)に建立された。赤穂歴代藩主、赤穂義士らを祀る神社。
2013/10/27 訪問
2013/10/22 奈良県吉野郡上北山村の『大台ケ原』に紅葉を見に行ってきました。
<アクセス>近鉄吉野線・大和上市駅下車⇒⇒⇒(奈良交通バスで約1時間45分)⇒⇒⇒大台ケ原下車
[ハイキングコース] 東大台登山口・・・(中道)・・・尾鷲辻・・・牛石ケ原・・・大蛇グラ・・・イオカラ谷・・・大台ケ原バス乗り場
▼近鉄・大和上市駅 ▼大台ケ原(吉野熊野国立公園)
▼東大台登山口
▼尾鷲辻
▼神武天皇像
▼牛石ケ原
▼大蛇グラ
▼シオカラ吊り橋
▼シオカラ谷
▼シオカラ谷
▼大台ケ原バス乗り場
『大台ケ原』の紅葉は、これからが見ものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■□■奈良交通バスの時刻表■□■
●上市駅発 大台ケ原行き「特急」
平日は、9:00 土・日・祝日は、9:00と9:30
●大台ケ原発 上市駅行き「特急」
平日は、15:30 土・日・祝日は、14:30と15:30
2013/10/13 奈良県側の竹内街道から『二上山』へ行ってきました
▲二上山▲ 標高 雌岳474.2m・雄岳517.2m
<ハイキングコース> 近鉄南大阪線・磐城駅下車・・・長尾神社・・・線弓塚・・・竹内峠・・・岩屋峠・・・二上山(雌岳)・・・馬の背・・・二上山(雄岳)・・・馬の背・・・万葉の森・・・近鉄南大阪線・上の太子駅
▼近鉄・磐城駅 ▼長尾神社 ・・・長尾神社は、西日本の長尾姓の発祥地といわれています。
▼長尾神社の神輿 今日は、秋祭りでした。
▼竹内街道・・・わが国最古の官道で難波と大和を結ぶ街道として栄えた。
▼芭蕉旧跡 綿弓塚
松尾芭蕉の「野ざらし紀行」の中に詠まれた句を記した塚で、線弓広場に設置されています。
▼竹内街道から山道を登る
▼史跡岩屋
▼岩屋の千年杉 ▼岩屋峠
平成10年9月の台風で,千年杉が倒れてしまいました。
二上山は、雄岳と雌岳よりなるトロイデ型火山です。約2,000年前には、噴火活動をしていました。
▼雌岳山 ▼馬の背 ▼雄岳山頂
▼二上山墓(天武天皇皇子大津皇子の墓)・・・雄岳山頂から東へ約100mです。
▼万葉の森の出口(入口)・・・ここから竹内街道に入り、近鉄・上の太子駅へ
ボー・グエン・ザップ将軍は、建国の父、故ホー・チ・ミン主席の側近としてベトナム人民軍を創設。1954年5月、旧宗主国フランスとの戦いで最高司令官として北部の要塞(ようさい)ディエンビエンフーを人海戦術で陥落させた。その2ヶ月後にジュネーブ協定が結ばれ、フランスによる植民地支配が終結。西側諸国では、「赤いナポレオン」との異名を取った。その後、アメリカのかいらいのゴジンジェム政権の旧南ベトナム政府軍と米軍50万人を相手にしてのベトナム戦争でも国防相として指揮を執り、1975年4月のサイゴン(現ホーチミン)陥落により勝利をもたらし、戦略家としての名声を不動にした。1980年のカンボジア内戦への関与そのものについては将軍は反対し、国防相を解任された。筋を通す人であった。2013年10月4日、老衰のためハノイの「軍108病院」で102歳で死去。天寿をまっとうされたと思われる。全国民からも信頼され、政府にも意見具申する婆娑羅将軍でもあった。国葬は、10月12日行われた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆フランスのベトナム支配(植民地政策)
フランスのベトナム支配(植民地政策)は、支配住民を愚民化するために学校を破壊し、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が、逮捕されサイゴンの監獄が満員となり多くの囚人が死亡した。
1945年、ホー・チ・ミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りがこめられている。
「・・・彼らは学校を破壊し、多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。・・・」
フランス革命以後、自由、平等、博愛等を掲げ、人権意識の発達をリードしてきたとされる、欧米諸国だが、彼らの言う人権とは、白人固有のものであり、有色人種に対しては、それを認める気は全く無かった。
■□■西洋の植民地になるとこうなる■□■
https://www.youtube.com/watch?v=cT-3DE6nSZs
■□■大東亜戦争の名言集■□■
菟田の高城(うだのたかぎ)は、神武天皇が八咫鳥(やたがらす)に導かれて大和の国に進行した時に、軍の休息に築いたといわれるわが国最古の城跡。ここを大和侵攻の拠点とした。城といっても、石垣を積んだような城でもなく、礎石を持つ建造物跡もない。現在、城跡には、「神武天皇御東征 菟田高城」の碑があります。
[所在地:奈良県宇陀市菟田野佐倉]
<アクセス>国道166号線から「桜実神社」へ約300m入って来た時、神社の手前に北への細い道があり、そこを登ると木立の中にある「菟田の高城」に至ります。
▼国道166号線 国道166号線から西に約300mで下の標識に来る。
ここまで、車で来られます。ここから徒歩で木立の中にに入ります。
▼菟田の高城跡
▼菟田の高城跡(郭内)
▼神武天皇御東征 菟田高城の碑
▼久米歌
2013/10/09 訪問
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。宮域は、南北800m,東西500mの規模である。下層には、斉明朝の後飛鳥岡本宮、皇極・斉明朝の伝飛鳥板葺宮(でんあすかいたぶきのみや)など、宮が重なって置かれたこの地は、古代飛鳥の中心地。大化の改新で、蘇我入鹿が暗殺された場所でもある。藤原京に遷都後、飛鳥の地を懐かしく想い、歌を詠んだ志貴皇子の万葉歌碑がある。現在、史跡に指定されている。
[所在地:奈良県高市郡明日香村岡]
<アクセス>橿原神宮駅からバス『飛鳥』下車(バス10分)
▼志貴皇子の万葉歌碑
2013/10/08 訪問
天正13年(1585年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武功を立てた羽柴秀吉の甥、羽柴秀次は、同年の8月23日,の論功行賞で近江八幡430,000石を与えられると,安土城の隣地の鶴翼山、通称八幡山(標高286m、比高100m)の南半分を利用して放射状式連郭山城と居館を築いた。山上の本丸等の主郭部と山麓の居館部が同時に構築され、石垣によって固められた。城下町は、安土城下町の町民を移住させて進められ近隣からも移住を促した。琵琶湖から水を引いた八幡堀によって町の周囲が防衛された。秀次の尾張清州移封で京極高次が28,000石で入るが、文禄4年(1595年)の秀次が切腹させられた時、廃城となった。現在、壮大な石垣を残すのみですが、周遊歩道が整備され、本丸跡には、村雲御所瑞龍寺門跡が建っています。
[ 所在地:滋賀県近江八幡市宮内町]
<アクセス>JR近江八幡駅下車徒歩約30分でロープウェイ公園駅。公園駅からロープウエイで近江城跡駅へ。
▼八幡山城の概要
▼八幡山城の概略図
▼八幡山城略図
▼西の丸址・・・・・琵琶湖の眺め最高!
▼北の丸址
▼瑞龍寺山門(本丸への虎口跡)
▼村雲御所・瑞龍寺門跡の概要
▼村雲御所・瑞龍寺本堂(本丸跡)
文禄5年(1596年),豊臣秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼公が、豊臣秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から京都村雲の地と瑞龍寺の寺号及び寺領1,000石を賜り創建され、昭和36年(1961年)に京都よりこの八幡山へ主要建物が移築されました。日蓮宗唯一の門跡寺院です。
▼二の丸址
▼八幡堀 ▼八幡堀
▼近江八幡の町なみ(新町通り)
2013/10/02 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆豊臣秀次(羽柴秀次) (1568年~1595年)
豊臣秀吉の姉、とも(日秀尼公)の子として生まれる。天正13年(1585年)近江国八幡山城主となり、ついで尾張・伊勢を領する100万石の大大名となった。天正19年(1591年)秀吉の子鶴松が亡くなると秀吉の養子となり、跡継ぎとして関白になった。しかし、秀頼の誕生により跡継ぎの地位が危うくなったのか次第に粗暴な振る舞いが目立つようになったと言われているが、この史実のほどは、明らかではない。ただ、折に触れて秀吉と衝突したことは確かで、最後は、謀反の疑いをかけられ高野山に追放され、切腹を命じられた。二十七歳の生涯を閉じた。さらに、妻子など40人余が京都三条河原で見せしめに斬首された。