2014/02/11 大阪府(摂津国)と京都府(山城国)の境に位置する山崎へ『山崎の合戦跡』の地を散策に行ってきました。
山崎は、淀川沿いにあり、平安時代には山城国の国府が置かれた地。西国から京に入る交通の要所として栄えた。名水でも知られ、千利休が茶室「待庵」を造った。
<ハイキングコース>JR長岡京駅・・・勝龍寺城公園・・・勝龍寺・・・淀川河川敷・・・観音寺(山崎聖天)・・・山崎合戦之地脾・・・旗立松・・・宝積寺・・・JR山崎駅
▼勝龍寺城公園(勝龍寺城跡)
▼勝龍寺
山崎の合戦の時、明智光秀本陣は勝龍寺の南、約500mに置いた。
▼天王山登山口
▼観音寺(山崎聖天)山門
▼観音寺(山崎聖天)境内
▼空堀跡
▼旗立松(山崎の合戦の史跡)
羽柴秀吉は、天王山へ駆け登り、味方の士気を高めるために松の樹上高く千成瓢箪の軍旗を揚げた。これを見た羽柴軍は、一気に敵陣内に攻め入り明智軍はその結果防戦一方になり総崩れになってしまった。これによって光秀は、僅かな手勢を従えて近江に落ちていくのである。現在の松は、五代目の旗立松である。
▼山崎合戦之地脾
▼青木葉谷展望台 ▼青木葉谷展望台からの眺め
▼宝積寺・・・行基によって開基。聖武天皇の勅願寺。真言宗智山派
山崎の合戦の前日、6月12日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の本陣が宝積寺に置かれた。
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山崎の合戦 天正10年(1582年)6月13日夕刻
本能寺の変後、明智光秀16,000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40,000騎とが山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は、一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起をはかるべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ、自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際には、11日間の天下人であった。
①6/11 秀吉軍先遣隊、天王山(標高270m)に布陣。 秀吉本陣は尼崎。
②6/12 秀吉軍、宝積寺に本陣を置く。
③6/13 円明寺川(小泉川)を挟んで両軍が対峙する。
④6/13 午後4時から戦闘開始。
⑤6/13 午後6時光秀が勝龍寺城に撤退。
⑥6/13 秀吉軍、勝龍寺城を包囲。
⑦6/13 光秀が逃亡。近江の坂本城を目指すが、途中の山科・小栗栖で落ち武者狩りにあって自害する。