宮尾城は、厳島北西にある標高27.1mの要害山の丘を中心に築かれた連郭式平山城です。現在と違い、築城当時は、城の北部の山麓まで海が迫り、三方が海に面していた。そのために味方の水軍と連絡できる海城の特色も併せ持っていた。遺構として廓、井戸、空堀、石垣などが残る。現在、城を含む島全体が、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。
【所在地:広島県廿日市市宮島厳島要害山】
<アクセス>JR宮島口駅より徒歩5分で宮古島口桟橋/広電宮島口駅すぐ宮島口桟橋。
宮島口桟橋よりフェリーで片道約10分で宮島桟橋。
宮島桟橋から要害山(宮尾城)まで徒歩5分。
▼宮尾城付近の概略図
宮島桟橋を降りると、すぐに正面右に見えるの丘が宮尾城である。
▼宮島桟橋の南西側の小さなトンネルをくぐり、階段を上る。
▼階段を上がり、『要害山』方向へ歩く。 ▼鹿が出迎えてくれた。
▼二の丸跡 ▼今伊勢神社
▼要害山山頂(宮尾城跡)標高27.1m▼宮尾城(本丸跡)
▼宮尾城の概要
▼宮尾城本丸からの眺め
▼石垣 ▼今伊勢神社の階段
2019/01/24 訪城
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厳島の戦 弘治元年(1555年)
天文23年(1554年)5月、厳島を占領した毛利元就は宮尾城に城兵を置き、補修に着手した。弘治元年(1555年)9月、陶晴賢率いる25000騎の大軍が厳島に上陸し、宮尾城を攻撃したが、約300騎の城兵は持ちこたえた。毛利元就は主力の3000騎を率い、夜中厳島渡海し、包ケ浦から上陸して、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、伊予村上水軍の来援と宮尾城の城兵も毛利輝元軍に呼応して陶軍を壊滅させた。陶晴賢自刃。