●『玉陵(たまうどぅん)』
沖縄へ来て最初に訪れたのは『玉陵(たまうどぅん)』です。読み方が沖縄地方は独特で難しいですね。「ぎょくりょう」とならなんとか読めるのですが、「たまうどぅん」と読むとなると「玉子うどん=月見うどん」なんてな解釈をしてしまいそうです。しかし、ここは立派なお墓、しかも王家の墓です。
場所は首里城の近くにあって、うっかりすると見落とすかもしれません。たまたま自称ウチナンチュ(沖縄の地元民の意)のY君が知っていたので見に行きました。
本土の古墳とは全く別の発想で造られています。もともと沖縄は琉球王国で日本とは別の独立国家でしたから、当然といえば当然かもしれません。
戦争でかなりの損傷を受けたそうですが、立派に修復されていました。それでも
銃跡がまだ残っていて、それについては別編でお伝えするつもりです。
参詣道から玉陵に入り中門を見る所です。玉陵碑が見えています。パノラマにするのが面倒なので動画にしました。
こちらは、中門から見たところです。東室・円塔・中室・西室と順番に見えています。
玉陵は、1501年、尚真(しょうしん)王が尚円(しょうえん)王の遺骨を改葬するために築かれ、第2尚氏王統の陵墓となりました。
墓室は3つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体の造りは、当時の板葺き屋根の宮殿を表わした石造建造物になっています。墓域は2,442㎡.
たぶんこれもシーサーだと思うのですが、他のものとはだいぶデザインが異なっています。
カジュマルの木。垂れ下がっているのは「気根」といって徐々に土台や自分の幹に複雑にからみつきそれなりに立派なな姿になっていきます。現地の説明書きには台風などの強風に耐える為とか。
●『首里城』
まあ僕としては初めて沖縄へ来たんですから、とにかく寄るだけは寄ろうというこで来ました。
『守礼門』は尚王時代(1527~1555)に創建。「守礼之邦」とは礼節を重んずる国という意味だそうな。やっぱり沖縄は日本じゃないのかも・・・。
綺麗な衣装まとった女の人たちがいます。一緒に記念撮影してくれるそうです。僕達は頼みませんでした(理由は料金が高いから)。
門の造りも本土とは大分異なっています。
城全体の構造は本土のものと同じで攻め込みにくいものになっているようです。ただ階段の造りは独特で段毎に傾斜がついています。登るのにはそれほどでもないのですが、降りるのは少し違和感があります。
正殿は漆(うるし)の塗り直し作業が行われていました。
沖縄らしい音楽と踊りをLiveで観れて、来てよかったとしみじみ思いました。
「中山世土(ちゅうざんせいど)」琉球は中山が代々治める土地である、という意味なんだそうな。中国の皇帝から贈られた書らしいのですが、もちろんこれはイミテーション、本物は正殿を含めすべて戦争で消失しました。
寒水川樋川(スンガーヒージャー)。給水は城にとってまさに命です。これらの水施設は生活用水の他に防火用水としても利用されていたといわれています。
あふれ出た水は地中のみぞを通り、久慶門(きゅうけいもん)の外側の左右から再び地中に入り、向かい側にある円鑑地(えんかんち)に抜けました。円鑑地が満水になるとさらに龍潭(りゅうたん)に注ぎました。
こちらは「龍樋」。龍の口から湧き水が出ている事から名付けられ、王宮の飲料水として利用されていたそうな。
石垣の造りも変わっていました。上の両端が少し尖っています。
個々の石も丁寧に加工されています。それでも石と石が密着していません。これは故意に密着させてないんですねぇ。雨などで石垣の内側に溜まった水を石の隙間から排水します。そうしないと水の圧力で石垣が崩れてしまうんだそうな。
『龍』は琉球王家のシンボルだそうで、お手洗いの中の蛇口も龍の形にしてありました。
●座喜味城(ざきみじょう)跡
座喜味城(ざきみじょう)は、築城家として名高い護佐丸(ごさまる)が、15世紀初期に築いた城といわれている。 護佐丸は中山王の尚巴志(しょうはし)と伴に、北山や南山と戦い三山統一、いわゆる琉球王国の統一に大いに活躍した武将である。 護佐丸は、当初山田城(やまだぐすく)に居城していたが、滅びた北山の旧勢力を見張る目的で座喜味城を築城したと言われています。
こちらも門が石造りになっています。本土の城は殆んどが木造でしたが、文化の違いに新鮮さを感じました。
天守閣の跡?礎の数が少な過ぎる気もしないでもありません。
沖縄の城は中国の影響をかなり受けているような気がしました。万里の長城も規模はまるで違いますが、こんな雰囲気だと思います。
ここは何の跡でしょう。基礎構造物が見当たりませんでした。
本土の城もそうですが、建屋が無くなっているのは残念です。
●『斎場御嶽(セーファウタキ)』
「斎場御嶽」をなんで「せーふぁうたき」と読むのか分かりません。ここまでくると全く別の言語ですね。
ここから先は「御門口(うじょうぐち)」といって、とても神聖な場所で世が世なら僕のような下賤の民の立ち入れる場所ではなく、王府関係者のみだったそうな。一般の民はここから奥に向かって拝んだそうです。
石畳の道が歩き易く出来ています。
「大庫理(ウフグーイ)」。首里城正殿の2階も大庫理と呼ばれていて、祭祈的な機能を持つ格式の高い場所だそうで、聞得大君のお新下りの儀式での「お名付け(霊威付け)」儀礼が首里城と同じ名前のこの場所でも行われたそうです。
前面にある磚敷(せんじき)の広間では神女達が聞得大君を祝福し、琉球王国の繁栄を祈ったそうな。
「寄満(ユインチ)」。寄満とは首里城内にある建物の名前で、国王の為に食事を作る厨房を指すんだそうな。当時ここには国内外からの海幸・山幸が集まりそれが「豊穣の寄り満つる所」と理解されていったらしいです。
左側(参道から奥)が「シキヨダユルアマガヌビー」、右側(参道側)が「アマダユルアシカヌビー」と言うんだそうな。滴り落ちる水はとても神聖で、[触れてはならぬ]とのお触れ書がありました。
観光ガイドによく載っている写真です。「三角岩」です。
この水路の水もやはり神聖なんでしょうねぇ。
三角岩の奥にあるのがここ、「三庫理(サングーイ)」と呼ばれる場所で、金製勾玉などが鎮められていたそうな。やはり、[触れてはならぬ]とのお触れ書が・・・。
この画像では良く分かりませんが、海の向こう側に久高島(くだかじま)が見えています。久高島はこの地点の東側にあり、太陽の昇る方向です。そんなあの島は、東方楽土(ニライカナイ)へのお通し(遥拝)所として沖縄各地で崇拝されているんだそうな。どうでもいいけど、仏教では西方楽土だったような気がします。
帰り道、珍しいトカゲと出会いました。お腹の赤いトカゲです。
『美ら島・沖縄の旅』は3回程に分けて投稿する予定です。膨大な写真や動画を適当に選択編集しても1回で収めるにはかなり厳しいものがあるからです。さて次回は『●文化編・観光編』です。くれぐれも期待しないでお楽しみにして下さい。
沖縄へ来て最初に訪れたのは『玉陵(たまうどぅん)』です。読み方が沖縄地方は独特で難しいですね。「ぎょくりょう」とならなんとか読めるのですが、「たまうどぅん」と読むとなると「玉子うどん=月見うどん」なんてな解釈をしてしまいそうです。しかし、ここは立派なお墓、しかも王家の墓です。
場所は首里城の近くにあって、うっかりすると見落とすかもしれません。たまたま自称ウチナンチュ(沖縄の地元民の意)のY君が知っていたので見に行きました。
本土の古墳とは全く別の発想で造られています。もともと沖縄は琉球王国で日本とは別の独立国家でしたから、当然といえば当然かもしれません。
戦争でかなりの損傷を受けたそうですが、立派に修復されていました。それでも
銃跡がまだ残っていて、それについては別編でお伝えするつもりです。
参詣道から玉陵に入り中門を見る所です。玉陵碑が見えています。パノラマにするのが面倒なので動画にしました。
こちらは、中門から見たところです。東室・円塔・中室・西室と順番に見えています。
玉陵は、1501年、尚真(しょうしん)王が尚円(しょうえん)王の遺骨を改葬するために築かれ、第2尚氏王統の陵墓となりました。
墓室は3つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体の造りは、当時の板葺き屋根の宮殿を表わした石造建造物になっています。墓域は2,442㎡.
たぶんこれもシーサーだと思うのですが、他のものとはだいぶデザインが異なっています。
カジュマルの木。垂れ下がっているのは「気根」といって徐々に土台や自分の幹に複雑にからみつきそれなりに立派なな姿になっていきます。現地の説明書きには台風などの強風に耐える為とか。
●『首里城』
まあ僕としては初めて沖縄へ来たんですから、とにかく寄るだけは寄ろうというこで来ました。
『守礼門』は尚王時代(1527~1555)に創建。「守礼之邦」とは礼節を重んずる国という意味だそうな。やっぱり沖縄は日本じゃないのかも・・・。
綺麗な衣装まとった女の人たちがいます。一緒に記念撮影してくれるそうです。僕達は頼みませんでした(理由は料金が高いから)。
門の造りも本土とは大分異なっています。
城全体の構造は本土のものと同じで攻め込みにくいものになっているようです。ただ階段の造りは独特で段毎に傾斜がついています。登るのにはそれほどでもないのですが、降りるのは少し違和感があります。
正殿は漆(うるし)の塗り直し作業が行われていました。
沖縄らしい音楽と踊りをLiveで観れて、来てよかったとしみじみ思いました。
「中山世土(ちゅうざんせいど)」琉球は中山が代々治める土地である、という意味なんだそうな。中国の皇帝から贈られた書らしいのですが、もちろんこれはイミテーション、本物は正殿を含めすべて戦争で消失しました。
寒水川樋川(スンガーヒージャー)。給水は城にとってまさに命です。これらの水施設は生活用水の他に防火用水としても利用されていたといわれています。
あふれ出た水は地中のみぞを通り、久慶門(きゅうけいもん)の外側の左右から再び地中に入り、向かい側にある円鑑地(えんかんち)に抜けました。円鑑地が満水になるとさらに龍潭(りゅうたん)に注ぎました。
こちらは「龍樋」。龍の口から湧き水が出ている事から名付けられ、王宮の飲料水として利用されていたそうな。
石垣の造りも変わっていました。上の両端が少し尖っています。
個々の石も丁寧に加工されています。それでも石と石が密着していません。これは故意に密着させてないんですねぇ。雨などで石垣の内側に溜まった水を石の隙間から排水します。そうしないと水の圧力で石垣が崩れてしまうんだそうな。
『龍』は琉球王家のシンボルだそうで、お手洗いの中の蛇口も龍の形にしてありました。
●座喜味城(ざきみじょう)跡
座喜味城(ざきみじょう)は、築城家として名高い護佐丸(ごさまる)が、15世紀初期に築いた城といわれている。 護佐丸は中山王の尚巴志(しょうはし)と伴に、北山や南山と戦い三山統一、いわゆる琉球王国の統一に大いに活躍した武将である。 護佐丸は、当初山田城(やまだぐすく)に居城していたが、滅びた北山の旧勢力を見張る目的で座喜味城を築城したと言われています。
こちらも門が石造りになっています。本土の城は殆んどが木造でしたが、文化の違いに新鮮さを感じました。
天守閣の跡?礎の数が少な過ぎる気もしないでもありません。
沖縄の城は中国の影響をかなり受けているような気がしました。万里の長城も規模はまるで違いますが、こんな雰囲気だと思います。
ここは何の跡でしょう。基礎構造物が見当たりませんでした。
本土の城もそうですが、建屋が無くなっているのは残念です。
●『斎場御嶽(セーファウタキ)』
「斎場御嶽」をなんで「せーふぁうたき」と読むのか分かりません。ここまでくると全く別の言語ですね。
ここから先は「御門口(うじょうぐち)」といって、とても神聖な場所で世が世なら僕のような下賤の民の立ち入れる場所ではなく、王府関係者のみだったそうな。一般の民はここから奥に向かって拝んだそうです。
石畳の道が歩き易く出来ています。
「大庫理(ウフグーイ)」。首里城正殿の2階も大庫理と呼ばれていて、祭祈的な機能を持つ格式の高い場所だそうで、聞得大君のお新下りの儀式での「お名付け(霊威付け)」儀礼が首里城と同じ名前のこの場所でも行われたそうです。
前面にある磚敷(せんじき)の広間では神女達が聞得大君を祝福し、琉球王国の繁栄を祈ったそうな。
「寄満(ユインチ)」。寄満とは首里城内にある建物の名前で、国王の為に食事を作る厨房を指すんだそうな。当時ここには国内外からの海幸・山幸が集まりそれが「豊穣の寄り満つる所」と理解されていったらしいです。
左側(参道から奥)が「シキヨダユルアマガヌビー」、右側(参道側)が「アマダユルアシカヌビー」と言うんだそうな。滴り落ちる水はとても神聖で、[触れてはならぬ]とのお触れ書がありました。
観光ガイドによく載っている写真です。「三角岩」です。
この水路の水もやはり神聖なんでしょうねぇ。
三角岩の奥にあるのがここ、「三庫理(サングーイ)」と呼ばれる場所で、金製勾玉などが鎮められていたそうな。やはり、[触れてはならぬ]とのお触れ書が・・・。
この画像では良く分かりませんが、海の向こう側に久高島(くだかじま)が見えています。久高島はこの地点の東側にあり、太陽の昇る方向です。そんなあの島は、東方楽土(ニライカナイ)へのお通し(遥拝)所として沖縄各地で崇拝されているんだそうな。どうでもいいけど、仏教では西方楽土だったような気がします。
帰り道、珍しいトカゲと出会いました。お腹の赤いトカゲです。
『美ら島・沖縄の旅』は3回程に分けて投稿する予定です。膨大な写真や動画を適当に選択編集しても1回で収めるにはかなり厳しいものがあるからです。さて次回は『●文化編・観光編』です。くれぐれも期待しないでお楽しみにして下さい。