2022/5/20
隣町の甘楽町小幡には織田氏7代の墓がある、
小幡を織田氏が領有したのは徳川の時代
元和元年(1615年)織田信長の次男
信雄(のぶかつ)に大和国宇陀郡3万石と
上野国2万石の領地が与えられた、
宇陀には信雄自身が入り(大和宇陀藩)、
小幡領には信雄の四男信良が入部した、
信良は信長の孫であったことから
特別に国主格の待遇を与えられ
ここから織田氏7代の統治が始まる、
(だが墓石は信雄を初代としている)
寛永3年(1626年)に信良が没すると
2歳の信昌が跡目を相続し
第2代藩主となったが
信雄の命によって信昌の叔父にあたる
織田高長が後見を務めた、
この信昌のときに検地が行なわれて
藩政の基礎が固められたり
藩庁が福島から小幡に移された、
一方で財政難も信昌の治世末期に始まり、
宝暦5年(1755年)の5代藩主織田信右の代には
収入が6269両であるのに対して、
支出が2倍近くの1万2844両に及んだ、
7代藩主信邦の代には、
財政再建をめぐって重臣間で紛争が生じた、
これをきっかけとして明和4年(1767年)に
尊王思想家の山県大弐らが捕らえられた(明和事件)、
明和事件に連座して信邦は蟄居処分となり、
信邦の跡を継いだ養嗣子信浮は
出羽高畠藩へ移されて
織田氏の7代に渡る統治は終わった。
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