土曜日に所沢駅前にできた商業施設エミテラスにあるシネコン「グランエミオ」で「グラディエーターⅡ」を観た。午後の時間帯で適当な映画がなかったのだが、ビートたけしが「面白い」とCMで宣伝していたので観てみたのだった。
監督は今や巨匠のリドリー・スコット。莫大な製作費と物量をかけたことは想像できるし、VFXを多用した古代ローマの街並みの再現や戦闘シーン、全編に流れる感情を高ぶらせるような音楽は、戦闘ものゲームなどが好きな方にはたまらないかもしれない。
ストーリーは奴隷に身をやつした前皇帝の息子が、グラディエーターとして戦いながら、暴君とその側近を倒しローマ帝国のかつての栄光を取り戻そうという、いわば復讐ものなのだが、そもそも美しい日本をとりもどすとか、強いアメリカを取り戻すといったノスタルジックな言説が、いかに今日の分断や差別を生んできたことか。
社会派と言われ権力批判的な視点で映画を作る監督と言われもしたリドリー・スコットだが、この映画の栄光のローマをとりもどす、という主調音は、まさに今日のトランプ復権のスローガンに重なるではないか。
ストーリーは奴隷に身をやつした前皇帝の息子が、グラディエーターとして戦いながら、暴君とその側近を倒しローマ帝国のかつての栄光を取り戻そうという、いわば復讐ものなのだが、そもそも美しい日本をとりもどすとか、強いアメリカを取り戻すといったノスタルジックな言説が、いかに今日の分断や差別を生んできたことか。
社会派と言われ権力批判的な視点で映画を作る監督と言われもしたリドリー・スコットだが、この映画の栄光のローマをとりもどす、という主調音は、まさに今日のトランプ復権のスローガンに重なるではないか。
そもそもリドリー・スコットは、弟ですでに亡くなった監督トニー・スコットに比べて映画的な主題には無頓着な監督だ。トニーが遺作の「アンストッパブル」で走る列車をいかに止めるかという、リュミエール以来の映画的主題に挑んで、アクション映画の傑作を、「グラディエーター」に比べれば遙かに低予算で軽々と撮ってしまったのに比べ、兄のリドリーは、コロッセオという円形の競技場を円環運動ではなく単に直線運動にだけで終わらせるというセンスのなさを露呈させた。同じ物量でも60年前の作品、アンソニー・マン監督「ローマ帝国の滅亡」のCGなどに頼らぬ本物の物量で描く、兵士の行進や入城、戦闘シーンに見られる奥行のある画面に比べ、宮殿や地形の高低を生かせない構図のため、奥行きを感じない平坦な画面にみえてしまうのだった。
そんなわけで、「グラディエーターⅡ」は、音楽がうるさいだけの印象しか残らない、残念な映画だった。