ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

新宿七景

2024年08月07日 | 俳句
大鼠轢死伊勢丹裏片蔭に

定刻のごみ収集車七変化

蝮碾く漢方薬局夕薄暑

夕焼けて帝都炎熱地獄かな

寝釈迦棲むガード下こそ夏館

薔薇繚乱「新宿泥棒日記」観つ

夏満月紅天幕なき花園社
(篠209号より)



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さりさり(わりと最近の俳句~「篠」より)

2024年04月23日 | 俳句

花ざくろ

 

桑の実や戻橋よりもどらぬか

一人ッ子見上ぐ泰山木の花

忍冬の花の匂ひを指に嗅ぐ

えごの花ふりやまず夜を白くせり

竹ざるの篠の子どれも伸び盛り

花ざくろ双子の姉の影長し

機織の一斉に止み柿の花

 

四方の田へ山嶺映しあいの風

蟻ぞろぞろ金輪際より湧き出る

夏暁の貨物列車のながながし

吊革に磔まねてゐる夏夜

船頭の歌に親しき緑雨かな

稲妻を抜け隧道を信濃路へ

そら豆の皮を並べて楸邨忌

(「篠」205号より)

 

ピノノワール

 

黒猫の招き人形夢二の忌

蜩に惑はされたる森の道

盆波の浜に傘さす二人かな

十二支になれぬ熊猫の秋愁

横車押され夜業の人となり

秋の薔薇ピノノワールの瓶に差し

虫すだくピカソの名前いとながし

 

夕刊を待たずに落つる木槿かな

脛だけを覗かせてゐる秋簾

他人めく横顔残暑の三面鏡

威勢よき鳥のかたちの鳥威

朝採りの秋果売り切れ道の駅

海鳴や立ち尽くしたる曼珠沙華

友釣の竿を家宝と苦うるか

(「篠」206号より)

 

さりさり

 

鯖雲と言へば鰯と言ひ返し

先客に亀虫の居る峡の宿

絵巻解くやうにさりさり林檎剥く

屏風絵の銀泥黒む十三夜

白球の行方にもみじ冬紅葉

木枯の真夜を煙草火ぽうとして

世の終り説く軽トラック空つ風

 

桑枯れや猫神様と三毛呼ばれ

猫舌が鍋焼うどん真つ先に

じつとして命を溜める榾火かな

日向ぼこり立つ理科室のされかうべ

百体の水子観音帰り花

冬茜コロッケひとつ売れ残り

初時雨波止場の汽笛高からず

(「篠」207号より)

 

 

雪形

 

立子忌や石の月まで駅五つ

春愁や水に占ふ恋御籤

料峭や柞の杜に迷ひ入る

峡深く光生まるる雪解川

春の雪安曇比羅夫の像濡らす

手水舎のきさらぎの水硬からず

雪形は種蒔く翁爺ケ岳

春耕や常念岳は雲を出づ

春月はここに置けよと常念坊

山笑ふ羊の骨のスープ炊く

 

淡雪や料紙にかなの柔らかく

虹色の羽紛れたる春の泥

春光や月光菩薩の腰しなる

煙草臭き古書のラディゲや春の暮

神厩の神馬は木馬冴返る

北窓開く少し遅れて鳩時計

桑ほどくむらさき匂ふ奥秩父

(「篠」208号より)

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安東次男について知っている二三の事柄(2)「澱河歌」の周辺をめぐって

2024年03月28日 | 俳句

「澱河歌」の周辺をめぐって

 

 安藤次男氏が詩人、フランス文学の翻訳者から日本の古典文学・詩歌の評釈で新たな境地を開いたのが、与謝蕪村の短詩「澱河歌」(「でんがか」もしくは「でんがのうた」)の評釈『「澱河歌」の周辺』である。この論稿を含む同名の著書は、昭和三十七年の読売文学賞を受賞し、特に「澱河歌」の評釈は、古典詩歌の新解釈として高く評価された。

「澱河歌」は、安永六(一七七七)年、蕪村六十二歳の春興帖『夜半楽』に収められ、「春風馬堤曲」「老鶯児」との三部構成からなる組詩の一つである。なかでも「春風馬堤曲」は、佐藤紅緑が評価したことで多くの人に愛誦されることになった。また、小説家・佐藤春夫は、昭和二年にこの詩を題材に「春風馬堤図譜」という映画のシナリオを書いたほどで、残念ながら映画化には至らなかったが、その人気ぶりがうかがえよう。それに比べ「澱河歌」は、「従来とかく忘れられがちであったが、『馬堤曲』ひいては蕪村芸術そのものを解く、重要な鍵となる作品」と次男氏は述べている。

 では、漢詩、仮名詩で構成される特異な詩体をもつ「澱河歌」三首をみておこう。前書きには「伏見百花楼に遊びて浪花に帰る人を送る。妓に代はりて」とある。つまり妓女の恋情に託して自己の惜別の情を述べたもので、「春風馬堤曲」と同じ趣向である。

澱河歌三首

○春水浮梅花南流菟合澱 錦纜君勿解急瀬舟如電

○菟水合澱水交流如一身 舟中願同寝長為浪花人

〇春水梅花を浮かべ 南流して菟(と)は澱に合ふ

 錦纜(きんらん)を君よ解く勿れ 急瀬(きゅうらい)に舟は電(でん)の如し

〇菟水(とすい)澱に合ひ 交流して一身の如し 

 舟中願はくは寝を同(とも)にして 長く浪花(なには)人と為らん

○君は水上の梅のことし花水に

 浮(かみ)て去(さる)こと急(すみや)カ也

 妾(せふ)は江頭の柳のごとし影(かげ)水に

 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

【訳】

〇豊かな春の水は梅花を浮べ、南へ流れて宇治川は淀川に合流します。あなたよ、船をつなぎとめている錦のともづなを解いて下さいますな。疾い流れに舟は稲妻のように流れ下ってしまうでしょうから。

〇宇治川の水は淀川の水と相合い、交わり流れてまるで一身のようになります。その上を流れ下る舟の中で、願わくはあなたと共寝をして、末長く浪花人となりたいものです。

〇でもあなたは水上の梅花のように自由なお身の上、花は水に浮んでひとりすみやかに流れ去ってしまいます。あたしは川岸の柳のように不自由な身の上、影は水中に沈んで流れ去る花(あなた)に従うことができません。

(新潮日本古典集成〈新装版〉「與謝蕪村集」清水孝之の訳による)

※「菟」は宇治川、「澱」は淀川の中国風の表現。「錦纜」は錦のともづなのこと。

 

 以上のような詩である。川を下って浪花へ帰る男を見送る伏見あたりの妓楼の恋慕の情を詠んだと読める。「澱河歌」「春風馬堤曲」は、長年、出生地の毛馬を離れ京都に住み着いた蕪村が、老境に入って望郷の念にかられた心情を女性に託して詠んだ詩と解釈されてきた。しかし、「蕪村には老来、京・伏見を出て浪花に発展してゆく淀川の殷賑(活気に満ちたさま:筆者注)に、何か特別の愛着を寄せる理由があったのではないか?」と問いかける。そこで次男氏が着目したのが前二首の漢詩体で、「きわめてきわどい暗喩を底に秘めた、一種の情詩」と解釈する。

 一首目に「南流菟合澱」二首目に「菟水合澱水」とあり、「菟」は宇治川、「澱」は淀川のことで二つの川が合流する様を描いている。ところが「菟」とは、中国では古来より強壮薬のネナシカズラを意味し、菟を用いた歌は男女の性愛を描いたものといわれてきたという。ここから次男氏は独創的にイメージを広げていく。詩の舞台となった宇治川と桂川が合流して淀川となり浪花へ流れ注ぐ地形を想像し、その鳥瞰図から詩の意味を読み解くのだが、菟は男根、澱は女陰の暗喩で、「澱河歌」は、淀川を女体に見立てた蕪村の女体幻想と推論するのである。

「疑もなくそこには二本の脚(宇治川、桂川)をやや開き気味に、浪花を枕として、仰向けに寝た一つのなまめく女体(淀川)のすがたが、彷彿として浮かび上がってこざるを得ない。橋本の幽篁はその秘部にあたり、毛馬は胸許にあたる」

 秘部に見立てた橋本は宇治川と桂川の合流する竹林に囲まれた要衝地で、遊里としても栄えたところ。毛馬は蕪村の故郷である。そこに乳房をイメージしたと次男氏は見立てたのである。晩年の蕪村は度々、淀川を船で下り浪花の地へ赴いている。その船中で、こうした女体幻想が育まれたと推論する。そして同じ淀川=女体幻想を「春風馬堤曲」の解釈にも敷衍していくのである。

 晩年の蕪村がそうした春情を抱く根拠について、和漢の資料や蕪村の手紙、画工としての作品など周辺資料を駆使して論じていくのだが、次男氏が淀川=女体幻想にこだわる理由は何か別のところにあるのではないか、というのが率直な感想だった。

 種明かしは「蕪村との出会」(昭和四十七年)という次男氏のエッセイにあった。次男氏は、昭和十三年旧制三高時代に京都の古書店で、高嶋春松『大川便覧』(天保十四〈一八四三〉年)という京から浪花までの淀川の活況を描いた絵巻を買い、大そう心を動かされた。川の姿に、緩やかな曲線をもつモジリアニの裸婦像を想起さえした。青年特有の春情が芽生えたのかもしれない。だから蕪村の「澱河歌」「春風馬堤曲」を読んだ時、すぐさまこの絵図が思い浮かんだのだという。蕪村の詩は、故郷への郷愁だけではなく、老境の詩人の回春の情でなければならなかったのである。

 詩人・思想家の吉本隆明は、「澱河歌」の論稿を踏まえて、次男氏の評釈の新しさについて次のように述べる。

「研究者には安東のような自在なイメージの連鎖を想起してみせることはできまい。それは現代詩人としての安東の実作の習練によるものだからだ。しかし、現代詩人には、安東のような抑制と防御は可能ではあるまい。もっとほん放な空想を語ってみたくなる誘惑に抗し難いし、安東ほどの学殖もないからだ。このはざまに身を横えているところに安東次男の注解法の新しさがあるに違いない」(「ひとつの疾走」安東次男著作集Ⅳ「手帳Ⅰ」所収より)」

 一方、次男氏の仕事ぶりについて国文学者の今栄蔵は、次男氏の著書『芭蕉七部集評釈』(昭和四十八年)の書評で次のように述べている。

「印象的なのは、先行注釈家の何びとも嘗て想像しえなかった新見を意欲的に求める評釈態度である。(中略)しかし率直にいえば、それらの中には先注のマンネリにショックを与える効果はあるものの、殆どは独断、うがちすぎ、自己陶酔としか思えないものであり、独善と独創とが常時表裏をなして存在している」(「連歌俳諧研究」昭和四十九年47号)

 一般的に古典評釈の研究作法は、先人の研究成果をもれなく踏まえた上で、自分の新しい知見を加えていく。もちろん次男氏もそうした手順を徹底的に踏まえた上でのことだが、研究者と異なるのは、その評釈を一つの創作、極端に言えば詩に仕立てていることだろう。それを先行研究者は「独断と独創」とでもいう他はなかった。しかし、そうした批判を承知で、むしろそれを楽しむかのように次男氏は、奔放に想像力を働かせ、晩年の蕪村になり切って評釈しているかに思える。

 私には、「澱河歌」の評釈の女体幻想は、次男氏自身の女体幻想であったと思えるのである。

 

 

 

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安東次男について知っている二三の事柄(1)

2023年06月02日 | 俳句

◆師系・安東次男について

 私が所属する俳句結社「篠」のルーツを表す「師系安東次男」について、少し探っていきたいと思う。

 私が「篠」への入会を決めたのは、句会が六本木であること、師系が安東次男となっていたことに大変魅かれたからだった。大学時代に次男氏翻訳のエリュアールの詩集や現代詩文庫の『安東次男詩集』などを読んでいて、俳人の名前はあまり知らなかったが、安東次男の名前はなじみがあったのだ。師系のことを当時副主宰だった現主宰・辻村麻乃先生にお尋ねすると、父君の岡田隆彦先生が、主宰の岡田史乃先生に安東次男氏を紹介され、俳句の指導を受けたのが始まりとうかがった。しかし、史乃先生の句柄は、どちらかといえば次男氏と同じ加藤楸邨門下の川崎展宏氏に近いともうかがった。展宏氏の句集『春』を読んでみると、確かに言葉少なくしかも平易で、対象を大胆に切り取るところや独特のおかし味は、史乃先生と近しいものを感じたのだった。

 そうはいってもやはり安東次男が気になった。私の記憶では、戦後のラジカルな詩人、フランス文学者という印象が強く、その一方で日本の古典文学への造詣も深い方と認識していたが、俳句に接したことはなかった。次男氏の著作や句集はほぼ絶版になっていて、なかなか読む機会がなく、古書店で安東次男句集『流』(ふらんす堂発行)を入手して、ようやく読むことができたのである。

 次男氏の俳句は、古今東西の古典や芸術への深い理解に依拠しながら詠まれており、見かけはシンプルだが内から光を放つよく磨かれた石のような趣がある。これを読み解くなど私の浅薄な知識では敵わないが、本稿では次男氏の俳句を味わいながら、「篠」のルーツへの旅ができればと思う。

 安東次男氏(一九一九~二〇〇二年)は、岡山県生まれ。東京大学の学生時代に加藤楸邨に師事し俳句を始めた。戦後は、俳句から詩作に転じ、詩集『六月のみどりの夜は』(一九五〇年)などで注目を浴びる。詩人、翻訳家、評論家としての活動を中心としながら、第一句集『裏山』(一九七二年)、第二句集『昨』(一九七九年)を刊行、この頃より蕪村や芭蕉の評釈に長く取り組み、高く評価される。これが一段落した一九九〇年代に、「寒雷」に復帰、再び句作に取り組むようになる。復帰後の句集に『花筧』(一九九二年)、『花筧後』(一九九五年)、『流』(一九九七年)。俳号は流火艸堂。墓所は東京・調布の深大寺三昧所墓地で、墓碑には次の句が刻まれている。

  木の実山その音聞きに帰らんか

 掲句は、七十七歳の時の句集『花筧後』に収録した七十七句の内の一句である。この「木の実山」は

  蜩といふ裏山をいつも持つ

と、処女句集『裏山』に詠んだ故郷の裏山に呼応しているのではないかと思う。

◆二つの追悼句

 安東次男氏は俳号を流火艸堂と号した。流火とは、夏の宵に南の空に赤く輝くアンタレス、さそり座のアルファ星のこと、もしくは地上近くに流れる箒星のことだが、陰暦七月の異称としても使われる。安東は一九一九年(大正八年)の七月七日、即ち七夕生まれ。そんなことに因んでの俳号流火だったのだろう。

 艸堂は、草堂、草庵、庵などと同じで、俳諧の宗匠たちの中には、専ら〇〇庵、〇〇堂などと名乗るものが少なくなかった。次男氏は自ら呼びかけて大岡信、丸谷才一らと歌仙を巻いたというから、艸堂も遊び心みたいなものだろうか。流火という俳号にもどこか洒落っ気を感じるのである。ちなみに大正八年生まれの俳人には、金子兜太、森澄雄、佐藤鬼房、鈴木六林男、沢木欣一など、昭和俳句を牽引した錚々たる人材がいる。兜太氏は一九一九年をもじって一句一句世代と呼んだとか。

 さて、安東次男氏は、二〇〇二年、四月九日に亡くなった。岡田史乃先生は、追悼句を残されていて、次の二句が句集「ピカソの壺」に収録されている。

    師安東次男逝く 二句

  四ン月が流火先生連れ去りぬ   

  囀や先生の声返してよ

 おそらく四月という季語を選んだのは、流火が意味する七月に呼応してのことだろう。箒星が飛ぶ七月ではなく花の季節に逝ったことへの感慨が、「連れ去りぬ」の措辞に表れている。もう一句は、これほど囀りが悲しく聞こえる句もなかろうと思わせる。史乃先生にとって安東次男は声の人だったのだろう。姿は写真で、思想は文章や詩で蘇らすことができる。最もその人の不在を感じるのが声ではないだろうか。謦咳に接するという慣用句があるように、師との出会いはしばしば声や話によって鮮やかに記憶されよう。「声返してよ」という口語の措辞に師を失った作者の深い悲しみが伝わってくる。

 では次男氏は、俳句の師である加藤楸邨が亡くなった時、どんな句を詠んでいたのか。

    平成五年七月三日早暁豪雨、楸邨逝く

  乾坤のたねを蔵してあばれ梅雨

                (句集『流 』より)

「乾坤のたね」とは、松尾芭蕉が『三冊子』(芭蕉の門人服部土芳が師の教えをまとめた俳諧論)に言う「乾坤の変は風雅のたね也」を意味する措辞だろう。俳句とは自然の一瞬の変化を言い留めること、という俳句の神髄と共に師楸邨が逝ってしまった。この梅雨の豪雨の早暁に―芭蕉を引用しながら追悼句をまとめるあたりに、師への深い思慕と尊敬の念がうかがえる。(つづく)

 

 

 

 

      

 

 

  

 

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ポンコツ

2023年05月31日 | 俳句

ポンコツ

 

少しづつポンコツになる古希の春 

春の雪匙に崩るる角砂糖

永き日や革のソファのひび割れて

藪椿落つる準備をしてゐたる

寄せ合うて山茱萸の花戦ぎ出し

身をこそぐうちに冷めたる蜆汁

春の夢エンドマークが出て終はる

 

冴返るとりわけ東京タワーなら

おはようと春帽浮かせ古希の人

先生の声あたたかし夢に居て

薄氷が閉じ込めてゐる光かな

花器もなく庭の椿を手折りては

飯碗の濯ぎに残す花菜漬

春の夜の仏間に一人寝てゐたる

(「篠」204号より/2023年)

 

 

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日向ぼこ

2023年05月31日 | 俳句

日向ぼこ

 

冬眠の寝息をまたぐ軍靴かな

地球儀へ水ッ洟落つリトアニア

思ひ出すやうにたばしる霰かな

地獄絵の鬼の貌してゐる魴鮄

冬天や脚の短き馬引かる

福耳のピアスの穴や霜焼けて

盛り塩を変へて笹鳴く裏鬼門

 

村の名にゼウス秘す里冬日燦

手に馴染む菜切包丁かぶら汁

こんな顔のまんま死にたき日向ぼこ

しみじみと燗酒通る胃の腑かな

ジャン・ギャバン真似てコートの襟たてり

裸木となりて素性は分かりかね

指先を舐る冬薔薇刺したれば

(「篠」203号/2022年)

 

 

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紙の月

2023年05月31日 | 俳句

紙の月

 

玻璃の戸に影を踊らせ秋の水

朝刊のことんと届き新豆腐

鳩吹くや水音低き峡に風

行き合ひの空や風鐸動かざる

琅玕の闇のはずれを秋灯

昆虫の貌してむくろ法師蟬 

鷹揚に行きも帰りも茄子の馬

 

片影を教会の影突き出して

あをあをと海もえ残る凌霄花

アスファルトの雨粒黒き敗戦日

ひぐらしや露人ミハエル眠る墓地

村芝居神楽殿には紙の月

母の歌ふ黒人霊歌ダリア咲く

秋扇いちいち指図したる手に

 

(「篠」202号より/2022年)

 

 

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砂漠の民

2023年05月12日 | 俳句

砂漠の民     

 

咲き急ぐ桜を笑ふ鳩時計

 

春帽子投ぐ名画座の空席へ

 

島影の百重なしたる卯波かな

 

「民族の祭典」冷房効きすぎる

 

桑の実やくに境まで橋二本

 

手に馴染む石を拾うて夏の川

 

まぐはひも人の手を借る蚕蛾かな

 

橋裏を仰ぐ白雨の過ぐるま

 

にんげんの声に驚く山の秋

 

仏具屋の夜寒を金のほとけさま

 

月天心裸身を反らすボレロかな

 

すめろぎはそこに御座すや浮寝鳥

 

月蝕はラルゴのやうに神の留守

 

憂国忌さくら餡ぱんはんぶんこ

 

青纏ふ砂漠の民や寒昴

(「俳句大学」7号 2022年掲載)

 

 

 

青き踏む

 

 

春帽子祈りの時は胸にあて

 

青き踏む風にいちまい鳩の羽

 

おろしやの火酒割りたる雪解水

 

あしあとは裏の森より木の根明く

 

蹼に淡き血の脈水温む      ※蹼:みづかき

 

コンセントに生かされてゐる熱帯魚

 

片影を教会の影突き出して

 

ひぐらしや露人ミハエル眠る墓地

 

琅玕の闇のはずれを秋灯

 

昆虫の貌してむくろ法師蟬 

 

御射鹿池の深き縹(はなだ)や緋衣草    ※縹:はなだ

 

いとど鳴く切腹最中腹いつぱい

 

二度聞いてまた聞き返す夜長かな

 

不器用な男とあたる焚火かな

(俳句大学8号掲載 2023年3月)

 

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色見本~俳句を始めたころの十五句

2022年09月26日 | 俳句

色見本

 

清濁の等しくなりぬ春の雪

風光る熊野の森の百重なす

東スポにくるむバナナの熟れ具合

切り傷に唾塗る女花石榴

あめんぼに国のゆくへを尋ねけり

校了の朱筆入れ終へ夏夕焼

ピアニスト死す夕凪の半音階

ジャズ祭のシャバドゥビダヴァダ晩夏光

ががんぼの薄き影より飛び立てり

蜜月は三月かそこら百日紅

番犬のふぐり伸びたる秋暑かな

セロ弾きのカタロニアの歌小鳥来る

告白はとぎれとぎれに鰯雲

吾子を抱くやうに白露のマンドリン

秋うらゝ十万色の色見本

(「俳句大学」創刊号掲載/2015年)

 

 

 

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映画監督・小津安二郎と俳句

2022年09月22日 | 俳句

映画監督・小津安二郎と俳句

~『全日記 小津安二郎』より~

 

 文人俳句に親しむ

昨年(2018年)は映画監督・小津安二郎(1903三~1963)の生誕115年ということで、戦後の主な作品が4K修復で上映され、ご覧になった方も少なくないだろう。

小津監督は、そのスタイリッシュな作風で世界的に評価されているが、生涯独身だったことや、家族という同じテーマを描き続けたこと、ローポジションのカメラアングルへのこだわりなど、ストイックでどこか謎めいた伝説をもつ監督でもある。

私生活を知る手掛かりとして、私たちは小津監督が残した日記を『全日記 小津安二郎』(田中眞澄編纂/フィルムアート社刊)として読むことができる。昭和8(1933)年から同38年まで、途中欠落はあるものの30年あまりの日常が記録されている。内容はほぼ交遊と食べ物のメモ程度の記録で、日々の心境は余り綴られていない。実に素っ気なく、いわゆる文学者の読ませるための日記ではない。しかし、その中にあって、謎めいた監督の日々の心情がうかがえる貴重な記録が、百数十句残された俳句なのである。

日記の俳句は、小津監督が応召する昭和12年までに、ほぼ集中している。20代から俳句を詠み始めたようだだが、久保田万太郎(1889~1963)の俳句を好んでいたことは、日記からうかがえる。

また、昭和10年3月の日記に――

十九日(火)

山中貞雄より京のすぐきをもらいければ

  春の夜に(を)さらさら茶漬たうべけり

「に」を「を」に改めるは久米三汀の教なり

との記述がある。

久米三汀は夏目漱石門下の小説家、劇作家の久米正雄(1891~1952)の俳号で、若くして「俳句日本」の巻頭作家になるなど、大正俳壇、新傾向俳句の旗手といわれた(久米の生涯は破天荒で面白過ぎるが)。小説に専念し、一時俳句から遠ざかるが、昭和9年頃から久保田万太郎らを宗匠格とした文人俳句のグループ「いとう句会」に参加。戦後は万太郎と『互選句集』を刊行するほどであった。文人との交流が活発だった小津監督も、こうした作家たちとの交流の中で俳句に親しみ、三汀の手ほどきを受けるに至ったのだろう。

  梅咲くや銭湯がへりの月あかり

この句などは、万太郎の句を模したとあり、遠くおよばないとも記している。

 

俳句に綴られた恋

心情をあまり綴らない日記の中にあって、小津監督の心の内が最も鮮やかに浮かび上がるのが、実は恋の句である。小津監督は昭和10年頃、小田原の芸妓千丸こと森栄と逢瀬を重ねていた。日記には昭和十年から「小田原に行く」「夕方から小田原の清風楼に酒を呑む」(2月12日)などの記述が目につくようになり、そのあとには、決まって一句が添えられている。

  小田原は灯りそめをり夕ごゝろ(十五日)

 三月五日(火)

 ~十時十分東京駅から小田原清風へ行く

  明そめし鐘かぞへつゝ二人かな

これも久保万の明けやすき灯をに遠くおよばず

小津の万太郎好みはこんなところにも。それはそれとして、この句は後朝の一句であろう。そしてさらに、

  ひとり居は君が忘れし舞扇

ひらきてはみつ閉ざしてはみつ(十三日)

  雪の日のあした淋しき舞扇(二十二日)

21日の夜小田原へ行き、23日午後帰京しての一句。女が帰った後、忘れ残した扇を開いたり閉じたり、その反復行為が切ない。雪の日ならなおさらだ。

さらに3月23日(土)には、「またしても小田原清風に一同行く」とあり、その後に次の2句である。

  口づけをうつつに知るや春の雨

  口づけも夢のなかなり春の雨

春の雪は雨へと降り変っていた。女は明け方先に帰ったのだろう。帰り際にそっと口づけしたのか、それとも夢の出来事なのか。これまた後朝の句だが、どこか覚めた目で自分を見ている。この時、小津安二郎32歳。

「夢のなかなり」の句は、小津俳句としてしばしば取り上げられるが、ストイックな小津監督の映画からは想像しがたい艶めかしさだ。戦後の小津映画では『早春』(1956年)など男女の情欲を描くものは数少ない。それだけに、これらの恋句には驚かされてしまう。しかし、俳句という言葉の無駄を省く定型詩によって自らをクールに見つめているところが、スタイリストの小津監督らしいといえるかもしれない。

「篠」187号掲載(2019年1月)

【追記】

小津安二郎の俳句については、2020年に松岡ひでたか著『小津安二郎と俳句』が出版されて、巻末に小津監督の全223句が掲載されている。同著は2012年の小津監督の50回忌を記念して私家版で出版され、私も長く探していたものだが、20年に復刻され日の目を見ることになった。この「篠」掲載のエッセイは、復刻前に『全日記』より句を拾って書いたものであることをお断りしておく。

写真はネットより

 

 

 

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