ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

漱石の雨の日の女

2006年04月24日 | 
 漱石の「こころ」「道草」を読む。
「こころ」は有名な先生からのながーい手紙による告白で先生の過去が明かされるのだが、どうも、この手紙の形式で事実を明かすというスタイルには感心しない。死にそうな実家の父を放り出して、上京する列車に飛び乗る主人公と思しき青年のそれからはどうなるのだろうか。

「道草」は久々の3人称で完結される作品で、もちろんここでも何も解決も発展も物語には存在しないのだが、妻が主人公の話を無視するように赤ん坊に頬ずりするシーンで終わるラストはそれでも、終わりのない終わりが演じられてはいる。「道草」は自伝的小説、私小説などといわれるが、抽象化が進み、人の出入りがひたすら繰り返されるという奇妙な世界が描かれていると思う。もちろんかつての養父から金をせびられる話ではあるのだが、非常に簡素な舞台装置を人が出たり入ったりする、それだけの運動に終始する話であり、その人と人との間をさえぎるのが雨なのだった。

「彼岸過迄」「行人」「こころ」を海の三部作と評した本があったが、いずれも「実は・・・」という告白によっていきさつが語られ、読み手は欲求不満のまま終わる三部作でもあった。

 こうして漱石を読んでくると、海に限らず、雨、湖、川、水溜り、鉢の水などなど、水が極めて重要な役割を演じていることが分かる。漱石の小説の世界が水の主題と変奏によって成り立っていることを含め、横臥の運動、縦の構図、漱石による漱石の反復など、漱石の世界の表層的な特徴を抽出しながらまったく新しい漱石の読み方を提示してみせる蓮実重彦著「夏目漱石論」は、実に刺激的だ。だが、この本は絶版になっているらしくなかなかみつからない。図書館で借りた青土社版は、こんなにこの本を読んだ人がいたのかと思うほどぼろぼろで、書架ではなく書庫から出されてきたのだった。
 
 そういえば、漱石の女たちは、たいがいが「雨の日の女」、RAINY DAY WOMENではなかったか。
コメント
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