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世界文化遺産「原城址」(2021九州no9)

2022-02-18 | 九州

 いただいたパンフの表紙がこれでした。桜花の城址、祈っている天草四郎が小さく配されていました。

 そして原城は手前の海辺、海岸に突き出た高い崖の上にあるのでした。これでは海側からは攻め入る手はないでしょう。

 お昼ご飯をいただいた原城温泉のホテルがマイクロバスを出してくださって城址にやってきた。そこでは原城址についての説明書きがありました。1496年に築城されたというこのお城、1637-1638年の島原・天草一揆では度重なる飢饉や領主の弾圧に堪えかねた2万を超える農民が蜂起し、島原城を取り囲んだのが始まりだそうです。そして一揆勢は各地から廃城となっていた原城に集まり籠城。一揆勢のほとんどがキリシタンだったといい、4ヶ月に及ぶ長期戦も兵糧攻めの末、12万もの幕府軍の下に落城、ほとんどの一揆勢が命を落とした。・・・などと書かれていた。かわいい傘を持っている方が愉快なベテランガイドさん。

 ビューポイントと表示されているところを上に登った平らなところが本丸跡。

 そして本丸跡にやってきた。「島原・天草一揆」は江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆だといいます。そんな一揆が再び起こって、このお城が再度籠城の拠点とならないよう幕府軍によって徹底的に破壊され地中に埋め尽くされたといいます。

 ここは本丸の西にある櫓台跡(天主台)三層の櫓が建てられていたという。ここに来るとバーッと海がひろがっている。

 

 世界遺産の中には城跡の4割ぐらいに農地が残っているといいます。できうればこの農地をなくそうと努力していると聞いたつもりですが定かではありません。遠く雲仙普賢岳には雲がかかっていました。

 キリシタンの記念碑だそうですがいつ建立されたのか知りませんし、天草四郎の墓碑が奥の多分桜の木だろう大木の根元にあるらしいのですが近くまで歩を進めませんでした。

 少年「天草四郎(益田四郎時貞)」だ。どんな才能があったのか弱冠15歳で一揆軍の総大将に推されて幕府軍と対峙したってホントの話なんでしょうか。なおこの像の作者はあの西村西望だそうです。

 横に回ってお顔を大写し。

 どなたかの墓石があった。

 

 「石垣の破壊」と書いてある。1990年(平成2)から始まった発掘調査時には礫と土砂によって石垣は埋め尽くされていたなどと書かれている。                                      城址の見学が終わりました。「徳川幕府を震撼させ、日本を鎖国へ導いたといわれる島原・天草一揆」とパンフの1ページ目の頭に書いている。歴史上ではおおいに意義があり、世界遺産とされたところでしょうが、「長崎と天草地方のキリシタン関連遺産」の中では異質な遺産でした。

 いただいたパンフのなかで、発掘調査で破壊された城の残骸の中、人骨などと一緒に出土したオランダ軍艦などから打ち込まれた砲弾、鉛製十字架、火縄銃の弾、ロザリオの珠などが紹介されています。

コメント
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