「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

80年代の韓国歩紀~龍頭山公園

2024-12-02 21:51:08 | 日記
 釜山市街地の中心に「龍頭山」という小高い丘があり「龍頭山公園」という公園があります。公園内には「釜山タワー」という展望タワーがありました。


 高さは120mほどですが龍頭山自体が標高180mほどありますので釜山市内が一望できます。




 準戦時国家である韓国は空港などの主要施設や高所からの写真撮影は禁止されているはずです。もし見つかれば国家保安法違反容疑で拘束されるかもしれません。しかし英語でも日本語でも漢字でもそのような注意書きはありませんでした。もしハングルで書かれていたのであれば「外国人」観光客には読めませんよ。「サジンチャリョンクムジ(写真撮影禁止)」。私は読めましたが…。
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気象予報士

2024-11-30 13:02:31 | 日記
 ニュース番組や天気予報で「お天気解説」をするアナウンサーやお天気お姉さんと呼ばれる女性キャスターとは異なり、気象庁の観測データー等を元に専門的知識による「気象予報」をするための国家資格です。平成の時代に入ってできた比較的新しい資格です。

 受験資格に制限がないため小学生や高齢者の合格者もおり話題になりますが、合格率が数%の超難関資格のため一種のトレンドや趣味として受験する人も多く、俳優やニュースキャスターを始めいろんな人が取得している資格としても有名です。

 気象予報士を本業とされている方のほとんどは淡々と気象予報をし、企業や報道機関、官公庁などに気象予報情報を提供しているのでしょうが、ほんの一握りの方は報道番組の「お天気キャスター」として毎朝毎晩テレビに出演し、半ば「芸能人化」している方もいらっしゃいますね。

 また気象予報の内容によっては洪水や土砂災害も予想されることから「雨による災害にご注意ください」から一歩踏み込んで「水や食料の準備、避難場所の確認をしましょう」と解説されることもあります。そのためでしょうか?ほとんどのお天気キャスターは防災士の資格もお持ちですね。ただ気象予報士は明らかに防災士より上級の資格のうえ防災士は民間資格なので気象予報士資格があれば、わざわざ防災士の資格を取らなくても良いような気もしますが…。

 そして先日あるニュース番組のお天気キャスターの方が「今晩から明日の朝にかけて寒暖の差が激しいです」の後「こういう日は喉のイガイガに気をつけましょう」とおっしゃっていました。そして何と次の日の朝。目覚めると本当に喉がイガイガしていました。気象予報士さんってすごいですね。お医者さんみたいです。
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琵琶湖一周歩紀7~寺院集落と内湖を訪ねながら「幻の城」をめざし湖東を歩く~

2024-11-24 00:54:25 | 日記
訪問日:令和6年11月20日(水)
出 発:JR「彦根駅」
到 着:JR「安土駅」

 今日はとても寒いです。「秋」はどこへ行ったのでしょうか。日本は「暖季」と「寒季」の「二季」の国になってしまったようです。今のうちに歩きましょう。ということで今回は彦根城の南側にある城下町を散策した後、広大な平野に点在する浄土真宗寺院を中心とした「寺院集落」や土砂の堆積等により琵琶湖から分離した「内湖」と呼ばれる沼を訪ねながら織田信長が築城した幻の名城「安土城」をめざします。基本的に県道(さざなみ街道)に沿って歩くので給水・トイレには困りませんが飲食店はネット情報で。


 今日は水曜日ですが土曜出勤の代休です。前回のゴール「彦根駅」。今日は最寄り駅の2番電車でやってきました。大阪駅から約1時間30分(1980円)。午前8時前。ちょうど通勤時間帯です。眠たい目をこすりながら今日も元気に出発。ここは滋賀県彦根市。


 駅の西口から南へ。以前「竹生島」へ行く際に乗ったシャトルバス乗り場を右に見ながら進みます。「中環東西通り」の高架下をくぐれば右へ。通りの側道を進みます。


 途中、左に神社が見えてくるのでそのまま側道を進み、次の辻を左に曲がれば「賢木神社」の鳥居。「サカキ」と読むそうです。神仏習合時、金剛寺宝珠院という寺院の境内にあった小社に当時の彦根藩主「井伊直治」が伊勢神宮を勧請、天照大神等をお祀りします。今日一日の安全を祈願しましょう。


 中環東西通りまで戻り左折、そのまま真っ直ぐ進みます。途中、植え込みの中に「油懸口御門跡」。彦根城外堀に7つあった門のひとつだそうですが今は石碑が残るだけです。


 この道はやがて彦根城の外堀に出るのですが、彦根郵便局を過ぎ「立花町交差点」を左へ入ります。すぐにひとつ目の辻を右へ入れば「伊藤邸」。古い町家です。


 その隣には「俳遊館」というプレートが掲げられたレトロビル。大正12(1923)年に「旧彦根信用組合本店」として建てられたそうです。


 そのまま進み市立彦根幼稚園を過ぎれば右に彦根本町郵便局。その隣にもレトロな建物が。彦根本町郵便局の「旧局舎跡」です。


 次の辻を右に曲がれば彦根城の「外堀」に突き当たるので左折。ここは以前、彦根城を訪れた際に通過した「京橋交差点」。ここを左に曲がれば江戸時代の城下町を再現した「夢京橋キャッスルロード」という通りです。入って行きましょう。(午前8時21分)


 観光的に整備されているので良い雰囲気の景色が続きます。


 当時を再現した建物はお土産屋さんなどとして使われています。


 2つ目の右角の先には「奥野家住宅」。内部は非公開ですが醤油の醸造などをしていた旧家で国の登録有形文化財に登録されています。


 その先には浄土宗「宗安寺」の山門。石田三成の居城「佐和山城」の朱色に塗られた城門を移築したものと伝わり「赤門」と呼ばれています。


 平日のうえ時間が早いのでちょっと閑散としています。


 突き当りの「本町1丁目交差点」角には「関西みらい銀行彦根本町出張所」。無人ATMですが「両替商」という看板が掲げられていました。


 「本町1丁目交差点」を渡り左へ。この辺りは旧彦根藩の足軽で「善利組」と呼ばれる組の屋敷が並んでいたようです。(午前8時28分)


 ひとつ目の狭い路地を入れば左に「大野家住宅」。今は子孫の方が住んでいるのでしょうか同姓の表札が掛かっていました。


 その先右には「吉居家住宅」。


 さらにその先の左には「服部家住宅」。いずれも個人の住宅のようです。


 その先の角には「磯島家住宅」。四つ辻にあり「辻番所」という見張り小屋を兼ねていたそうです。


 ここは歴史的施設として土日祝に限り一般公開しているようですが公開時間は午前10時から。


 この四つ辻を右に入り2つ目の角には「藤井家住宅」。ここを左に曲がり旧足軽屋敷跡を後にします。


 突き当りの小さな祠がある土手に上がれば右へ。この道は「芹川けやきみち」と呼ばれているようです。


 芹川に沿って歩き、二つ目の橋で芹川を渡り右へ。当然、芹川は右に見えます。


 県道(さざなみ街道)と交わる手前に小さな橋があるので、その橋で左から合流してきた「平田川」という小さな川を渡ります。霊園を過ぎ北川という小さな川を渡れば右に「神明神社」。神明ということは「お伊勢様」。天照大神をお祀りするのでしょう。長い間「歩紀」をしていると、そんなことは常識です。


 そのまま進めば浄土真宗「西福寺」の裏に出ます。正面に回ってみましょう。


 ここも寺院集落なんですね。


 西福寺裏の先ほどの道まで戻り左へ。道なりに進んで行けばさざなみ街道と合流し、左に「セブンイレブン」が。給水ポイントです。その先にある「犬上川橋」で犬上川を渡ります。(午前9時12分)

 
 「滋賀県立大学前交差点」をそのまま真っ直ぐ進みます。右には琵琶湖。正面に「多景島」が見えます。


 「八坂町中交差点」を左に曲がり琵琶湖を背にして進みます。次の四つ角を右に曲がればすぐに浄土真宗「本光寺」。ここも寺院集落です。


 そのまま良い雰囲気の路地を進みます。


 「江面川橋」というコンクリート橋で江面川を渡りますが、その手前には「八坂港跡」の石碑。(午前9時28分)


 橋を渡れば右に「八坂警察官駐在所」。消防団は村人が村を守りますが駐在所は県が村を守ります。しかし駐在さんは村人のひとりです。そこが交番との違いです。


 駐在さんを過ぎれば右に「八坂地蔵大菩薩」。お地蔵さんも村を守っています。


 「八坂町南交差点」でさざなみ街道と合流し、「うなぎ屋」さんを過ぎて次の四つ辻を左に曲がりましょう。突き当りには「野田沼」。(午前9時39分)


 私は釣りに全く興味はないのですが、ここでは色んな淡水魚が釣れるそうです。コイ、フナ、モロコ、タナゴ、カワムツ……。


 沼に沿って歩けば駐車場に出ます。駐車場の手前から琵琶湖に向かって進みましょう。駐車場の角に公衆トイレがあります。


 突き当りを左へ。道なりに進んで橋を渡ります。


 三つ目の辻を右に入れば浄土真宗「光淵寺」。


 そのまま進み突き当りを左へ。ひとつ目の辻を右に入り湖岸に出ましょう。遠くに伊吹山が見えます。


 小さな漁港に出ました。


 道に沿って進めば右に橋が見えます。橋の手前にある木造の建物は「磯田漁協」。ここは磯田という漁村なんですね。


 橋を渡ってビワイチサイクリングロードに沿って進みます。


 橋で「宇曽川」を渡れば湖岸緑地「三津屋」です。遠くに次回訪れる予定の「沖島」が浮かんでいます。(午前10時5分)


 その向かいの路地を入れば浄土真宗「賢学寺」。浄土真宗「蓮光寺」。真宗大谷派「円徳寺」と寺院が並びます。






 集落を抜け左へ。キャベツ畑を右に見ながら水路に沿って歩きます。


 アンダーパスをくぐりれば突き当りには「曽根沼」。(午前10時15分)


 沼に沿って歩き駐車場の先を左に曲がります。沼に沿って歩きましょう。


 突き当りに「彦根麦酒荒神山醸造所」。地ビールの醸造所ですが、火・水曜日は定休日のようです。「残念」


 来た道を戻ります。釣り人が糸を垂れています。


 さざなみ街道を左折。しばらく進めば干し大根の向こうに「美浜館」という農産物直売所。地酒でも買おうかと思いましたがありませんでした。仕方ないので店の脇から裏の農道に出て左へ進みます。


 小さな川を越えれば集落に入ります。6つ目くらいの路地を右に入れば浄土真宗「本隆寺」。ここも寺院集落です。


 この辺りは多くの水路が引き込まれているので寺院集落は「環濠集落」の様になっていますね。


 その先の小さな水路に突き当たれば左へ。次の四つ辻を右折し突き当りを右に曲がれば湖畔に出ます。湖畔に立つ木の下には何やらベンチが。琵琶湖一周歩紀の第2回目に「そのベンチ」を訪れましたが「このベンチ」は「そのベンチ」の元祖とも言える「あのベンチ」です。(午前10時46分)


 コロナ禍の一時期には撤去されたそうですが、ご近所の方が置いたベンチが「インスタ映え」したことから「恋人の聖地」などとして話題になり、特に名称がなかったため「あのベンチ」として語り継がれ、そのまま観光名所になったそうです。良い景色ですね。


 元に戻り琵琶湖を右に見ながらさざなみ街道を進みます。墓地公園を過ぎて小さな川を渡れば集落に入りますが、そこには六地蔵と「南無阿弥陀仏」の石塔。日蓮宗の「題目石塔」はよく見ますが、やはりこのあたりは浄土真宗なんですね。


 集落に入ればお寺の大きな屋根が見えてきました。


 その先の「薩摩町自治会館」前を左に曲がれば真宗大谷派「西宗寺」。


 突き当りを右折します。道なりに進めば浄土真宗「善照寺」。立派なお寺ですね。


 善照寺山門前を少し進めば左に入る小さな路地があります。その先には「神上沼」。(午前11時14分)


 沼に沿って歩きましょう。


 沼が終われば右に入り寺院集落を抜けます。突き当りを左に曲がり料亭前を過ぎて川を渡ります。すぐ先に公衆トイレがあるので、その前から湖岸に入ります。ここは「柳川公園」という湖岸緑地です。


 鴨が群れる向こうには比良の山々。


 緑地を抜け児童遊園を過ぎれば駐車場とトイレがあります。その先にも公衆トイレがありますが、ここのトイレが一番きれいでしょう。ここで一旦県道に出て右折します。(午前11時27分)


 さらに県道を進み「うどん屋」さんを過ぎて水路を越えれば左へ。田んぼの中の一本道ですので目印がありません。グーグルマップ等でお確かめください。左にため池を見ながら進みます。


 すぐに小さな集落に入ります。突き当りの左には浄土真宗「光厳寺」。


 この突き当りを右折し狭い路地を抜けます。


 水田を越え次の集落に入れば左の消防器具庫横に「新海西分教場之跡」の銘板が。今は児童公園になっているようです。公衆トイレがあります。(午前11時47分)


 次の四つ辻を右に入り100mほど進んで集落をぐるっと回ります。そこには浄土真宗「報恩寺」。


 その先には「延命地蔵尊」。


 地蔵尊を左に見ながら集落に入ります。浄土真宗「両厳寺」の前を通り過ぎれば道は間違っていません。


 その先で川の堤防に突き当たり道が左右に分かれるので右に上がりましょう。すぐに大きな橋があるので渡ります。この川は「愛知川」。「えち」と読みます。琵琶湖に注ぐ大河のひとつです。


 橋を渡れば河川敷に「ふれあい運動公園」。簡易トイレや自販機があります。


 遠くからスピーカーで正午を知らせるオルゴールが流れてきました。今日も腹時計はピッタリです。ここで食事にしましょう。東屋やベンチもあるようですが、今日は曇り空であるものの日差しや風がなかったので草っぱらに新聞紙を敷きピクニック気分で弁当を食べます。


 今日の昼食は途中の「セブンイレブン」で買った「しらすと明太子のごはん」(税込322円)と「味付き半熟ゆでたまご2個」(税込205円)。さっきから上空をトンビが回っているので、かっさらわれないよう気をつけましょう。


 午後0時20分、食事を終え出発。お年寄りたちがミニゴルフ(ゲートボール?)を楽しんでいるグランド前から堤防に上がれば左に曲がる道があるので進んで行きます。


 二又に出れば左へ入ります。さらに二又が現れるので左へ。7~80mで左に「日枝神社」。元彦根藩の所領で付近は湖辺を開墾してできたことから氏神がなく、江戸時代に入り「大山祇神」を勧請したそうです。立派な神社ですね。


 鳥居を背にして集落内に入ります。突き当りを左に曲がれば100mほどで浄土真宗「西廣寺」。


 お寺の前の路地を入れば左に「英霊碑」。この集落からも多くの若者が出征したのでしょうか。「合掌」


 その先で日枝神社からの延長線上に出ます。右に曲がり水路沿いに進みましょう。


 やがて正面に大きな施設が見えてきました。道なりにぐるっと回ります。そこには大きな堰が。「大同川排水機場」というそうです。(午後0時41分)


 端っこには「閘門」があり船が通れるようになっています。


 ダムの堰堤のように堰の上を通ることができます。下を流れるのは「大同川」です。ここにはかつて「大中の湖」という巨大な内湖があり70年以上前から干拓が行われ、その名残のようです。


 堰を渡れば広大な田畑が広がります。


 対岸に何かぽっかりと口が開きます。表現が悪いかも知れませんが、大腸にできた「憩室」のように小さな内湖があります。私は「憩室持ち」です。いつも大腸内視鏡検査でひっかかります。


 右に広大な田園を見ながら大同川に沿って歩きましょう。結構な距離を歩きますよ。


 この後訪れる「伊庭内湖」やすでに干拓された「弁天内湖」。そして琵琶湖最大の内湖として今も残る「西の湖」と隣接しており、これらを合わせれば「諏訪湖」ほどの大きさがあったのではないでしょうか。それが今は広大な農地になっています。琵琶湖って本当に大きいんですよ。


 大同川が大きく開けるとそこは「伊庭内湖」。(午後1時12分)


 この辺りは「カヌーランド」という園地になっています。


 しかし工事のため閉鎖されていました。


 この辺りは利水、治水、精米、製粉などに利用するため、いくつもの水車が並んでいたそうです。復元された水車が見えます。電動でない証拠でしょうか。誰もいない公園に水車の「ガッタン、ガッタン」という音だけが響いていました。


 ここの売りは「ふるさと創成事業」の一環として復元された直径約13mの大水車だったのですが撤去されていました。遠くから大きなやぐらが見えていたので嫌な予感がしていたのですが…。ただ横断幕を見ると「三代目」ができるようですね。


 仕方ありません。伊庭内湖に沿って進みます。流入部に出れば左の橋を渡り内湖の対岸に出ましょう。


 200mちょっと進めば「金刀比羅神社」がある四つ辻に「伊庭の水辺景観」の看板が。(午後1時34分)


 小さな水路に沿って進みます。なんだかワクワクします。


 途中で道は左にカーブしますが、そのまま狭い道に入りましょう。期待を裏切りませんね。


 水辺に下りるこの石段は「カワト」というそうです。


 鉄製の現代版カワトもたくさんあるので日常生活では欠かせないのでしょうね。


 右に「平和橋」という石標があれば、その向かいの路地に入ります。


 そこには「妙楽寺」という大きなお寺が建ちます。(午後1時42分)


 そしてここには寺院が4つ並ぶというか妙楽寺の境内に4つの寺が建ち「門内四ケ寺」と呼ばれているとても珍しい風景だそうです。


 山門をくぐってすぐ右に「源通寺跡」。元々「住職無住」のお寺だったそうですが文政2(1819)年の地震で倒壊後、再建されたものの昭和18年、妙楽寺に合流され閉山したそうです。


 その奥には「誓教寺」。お寺らしからぬ本堂は、明治時代の「廃仏毀釈」から逃れるためだったそうです。天災は仕方ありません。戦災。人類の愚かな行為ですが、それによる文化の喪失は結果であって目的ではありません。しかし文化の破壊を目的とした「廃仏毀釈」。日本史上で最も愚かな政策だったと私は思っています。


 その向かいには「浄福寺」。


 奥には「法光寺」。塔頭ではないのですが境内に4つのお寺が並んでいたのですね。


 そして一番奥に妙楽寺の本堂が建ちます。いずれの寺院も元は天台寺院だったそうですが、真宗仏光寺派に改宗した後、元文4(1739)年、浄土真宗に転派したそうです。


 参拝を終え山門に戻り右へ戻ります。


 平和橋の石標を左へ。水路に沿って歩けばすぐに「陣屋橋」という小さな橋があります。橋の下には「田舟」。


 橋の奥には何やら大きな建物が。今は「勤節館」という集会所になっていますが、案内板によると建久年間(1190~98)、近江源氏の八代目佐々木行實の三男実實がここに「伊庭城」を構え、伊庭氏を名乗ってこの地一帯を治めたそうです。そしてこの辺りは「伊庭水郷」と呼ばれています。(午後1時49分)


 城の遺構は残っていませんが、田舟横の石垣が伊庭城の石垣跡と言われています。橋の名前からすると本格的な城郭ではなかったのでしょうね。


 水路に沿って歩きましょう。




 浄土真宗「正厳寺」の前には小さな水車が再現されていました。
 

 正厳寺前の水路にも田舟。


 そして境内には「愛郷流水之碑」。こういうことらしいです。


 地図を頼りに落ち着いた水郷集落を抜けます。




 途中、大同川を渡り水田の間を進んで行きます。何の目印もありません。地図を頼りに前方に見える山塊に向かって進みましょう。結構な距離を歩きますよ。


 半島のように突き出た小高い山に突き当たれば右に曲がり、山の西側を進みます。途中、分岐があれば左へ。とにかく山裾に沿って歩くのです。そしてこの左に見える山中に「安土城跡」があります。右に開ける水田は干拓された「弁天内湖」跡。そう安土城は伊庭内湖と弁天内湖に突き出た高さ200mほどの半島の上にあったのです。


 「匠の里」という施設の前を通り過ぎます。


 左に立派な石垣が見えれば右には水路。真っ直ぐ進みましょう。


 やがて水路には「百々橋」。「どどばし」と読みます。かつてここに安土城の城門があったようです。(午後2時43分)


 橋を渡って城門跡を撮影しました。


 橋の横に川へ下りる階段があったので川辺からも撮ってみました。


 左には石垣も見え始め「お城感」が漂ってきました。「桝形虎口」「平入り虎口」の跡です。


 そのまま進み大きな駐車場の前には「城なび館」(入場料200円)。隣に公衆トイレがあります。なお城跡にはトイレはありませんので、ここで済ませておきましょう。
 

 ちょっと戻れば登城口である「摠見寺(そうけんじ)」というお寺の受付があり拝観料700円を払って入ります。摠見寺は信長が建立したという臨済宗の寺院です。そして安土城跡全域は摠見寺の所有(境内)になっているのです。手前と奥に自販機があります。この先はかなり急な上りです。息が上がるので必ず飲料水を補給しておきましょう。(午後2時53分)


 この長い石段は「大手道跡」です。「城ファン」の方たちにとってはお馴染みの場所ですね。


 受付をくぐってすぐ左には「伝羽柴秀吉邸跡」。大手道の左右には信長の家臣らの屋敷があったと伝わりますが、今は遺構を残すのみです。


 大手道を挟んで向かいには「伝前田利家邸跡」。


 立派な石垣ですね。


 その先には摠見寺仮本堂。徳川家康邸の跡地と伝わります。鐘楼がありましたが仮本堂自体は期間限定で別途別料金で公開されるようです。なお本堂は火災で焼け落ちました。後ほど本堂跡を訪れます。


 急な石段はまだまだ続きます。先ほど歩数計を確認すれば、この時点ですでに45000歩、31km以上歩いていました。足の疲労がMAXの状態でこの急坂はきついですね。給水・休憩をしながら上ります。


 所々このようなものがあります。石材として使用された石仏や墓石いわゆる「転用石」です。福知山城や大和郡山城でも見られますね。


 「織田信忠邸址」碑の三叉路で案内表示に従い右の石段に進みましょう。(午後3時5分)
 

 途中、石段の左には「織田信澄邸址」と「森蘭丸邸址」の碑。


 石段が桝形になりました。そこは「黒金門跡」。本丸へと続く第一の門です。


 直角に曲がれば大きな石垣が。「城ファン」であれば体を震わせて喜ぶような光景です。


 さらにその先で直角に曲がることを余儀なくされます。お城は軍事施設ですから。城ファン「大興奮」です。


 突き当りには「仏足石」が。これも発掘で発見された転用石のひとつだそうですが、仏足石はお釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは仏像以上に崇拝の対象とされていることから遺物として展示されているそうです。


 その先に「護国駄都塔」と彫られた石碑。安土城天主の地階部分を表す言葉だそうです。赤い「天主跡」の矢印に従い右へ進みます。
 

 そこには広い空間。「本丸跡」です。「千畳敷」とも呼ばれ天主台を仰ぐ「本丸御殿」が建っていたそうです。


 奥の石段を上れば何やら遺跡発掘調査をしていました。ご苦労様です。


 そしてその横には「天主閣址」の碑。間もなくです。


 石段を上ればたくさんの礎石が並んでいました。ここに幻の城と呼ばれる「安土城」の天主閣がそびえていたのです。そしてここは地上6階・地下1階、高さ33mの地下1階部分。この上に2倍半近くの広さの天主台があったそうです。壮観だったでしょうね。(午後3時15分)


 天主閣址の裏からは琵琶湖が望めます。信長もここから琵琶湖を眺めたのでしょうね。ところがここで突然、左足首が上を向いたまま動かなくなりました。上りなら何とか歩けますが、これでは下れません。大変です。左足のシューズを脱ぎ足首を2~3分マッサージすると何とか元に戻りました。軽い痙攣を起こしていたんでしょうね。山での事故や遭難はこうして起きるのでしょうね。


 さあ下山です。同じ道を戻ります。本丸跡から進めば奥に「二の丸阯」「織田信長公本廟」の碑が立っていました。


 秀吉が信長ゆかりの太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬し本廟としたそうです。信長は残酷なほどの殺生を繰り広げてきましたが、やはり歴史上の偉人です。手を合わせておきました。


 さらに下ります。先ほど黒金門跡で矢印に従い右折したので気づかずに通り過ぎてしまいましたが、黒金門跡の左奥に小さな石段がありました。


 奥には4基の五輪塔が並んでいます。「織田信雄四代供養塔」です。
 
 
 先ほど通った織田信忠邸址の三叉路に出ました。帰路は右です。曲がりましょう。(午後3時31分) 


 少し歩けば「摠見寺本堂址」。天主炎上の際も類焼は免れたそうですが、安政元(1854)年に火災で焼失。最初に訪れた徳川家康邸跡に仮本堂を建て移転しました。今は礎石が残るだけです。


 本堂跡の前からは「伊庭内湖」が望めます。


 そして本堂跡の横には「三重塔」。室町時代の享徳3(1454)年建立。その後、修理・修復を経ていますが500年以上前のものが何でもない山中にひっそりと佇んでいるなんて素晴らしいことですね。国の重要文化財です。


 三重塔前の石段は「二王門」へと続きます。登山も同じですが下りは疲労がたまっているうえ体重以上の負荷がかかり、足首を挫いたり転倒する恐れがあります。気をつけて歩きましょう。特に高齢者は。


 「阿」「吽」の二王が睨みをきかせます。これも元亀2(1571)年の建立と伝わり国の重要文化財に指定されています。


 まだまだ石段は続きます。古城や古刹の石段は当時の日本人の体格に合わせているからでしょうか。幅が狭いものが多いようです。かかとを石段の角にぶつけて転落しないように気をつけましょう。特に高齢者は。


 やがて山道に入りますが平坦な道になるので心配はありません。木の根につまずかないように気をつけましょう。特に…。


 そしてこの道は受付を入ったところの伝羽柴秀吉邸跡で大手道と合流します。つまり復路では大手道は通りませんので、往路でしっかりと見学しておきましょう。
 

 1時間の見学時間でした。安土城跡を後にします。間もなくゴールです。(午後3時53分)


 城なび館前の駐車場を過ぎ「安土城址交差点」で信号を渡ります。その先にある沼は「外堀」の跡だそうです。だいぶ陽が傾いてきましたね。


 小さな船着場になっていたので外堀越しに安土城跡を望みます。


 先ほどの安土城址前交差点までもどり県道を左へ進みます。車で来ればこんな光景なんですね。


 外堀端の小さな橋を渡って進んで行けば「セミナリヨ跡」。(午後4時6分)


 現地の案内板によると天正8(1580)年、イエズス会のオルガンチーノ神父が信長の許可を得てここにセミナリヨというカトリック神学校を建てました。「本能寺の変」で信長が討たれた後は明智勢の侵攻より廃墟となり、京都・大坂などを転々とした後長崎に移転。最終的には徳川幕府の大追放令により廃校となったそうです。
 

 地図を頼りに進んで行きますが縮尺が大きかったため細街路で完全に道に迷いました。しかしグーグルマップのお陰で何とか予定のコースに復帰。


 この道を真っ直ぐ進めば東海道線に突き当ります。右に曲がれば「安土駅北口」前に出るのですが、今日は「南口」がゴールなので左折します。しばらくすればアンダーパスがあるのでくぐりましょう。
 

 道なりに進んで行けば東海道線の向こう側に出ました。線路に沿って進めば前方に「安土駅」が見えてきますが、その手前に立派な瓦屋根の建物が。「安土城郭資料館」です。電車まで時間があるので入場料200円を払って入ってみましょう。(午後4時26分)


 20分の1に復元された天主閣や絵図などが展示されています。


 天主閣は内部も復元されており、先ほど訪れた天主閣跡が地下1階部分であることがよくわかりますね。


 10分ほどの見学です。駅は目の前。午後4時35分、本日のゴール「安土駅南口」に到着です。午後4時51分の電車に乗ります。大阪駅までは約1時間30分(1520円)。ちょっと歩速を早めたのは距離的なことと今回最大の観光スポットである安土城跡での見学時間を多く確保するためです。ただ「安土城」と「彦根城」に挟まれ、観光的には空白スポットである「中世湖東の寺院集落」や「水郷集落」。水田に佇む「内湖」も素晴らしかったですよ。


 本日の歩紀「52295歩」(35.56km)。歩きましたね。今日は時間の関係で訪れませんでしたが、ちょっと離れたところに「安土風土記の丘」という歴史公園があり、レストランや博物館などがあります。ただ特に「歴史ファン」でなければこの「安土城郭資料館」で十分だと思います(あくまでも個人的な意見ですが)。100名城スタンプは資料館で押しました。


 さあ一人打ち上げです。今日はハイボール(税込550円)で「かんぱ~い」。その後は「とんかつとカキフライのセット」(税込1300円)で夕食です。


 今日は「地酒」がゲットできませんでした。しかし「地ビール」をゲットしています。午前中、犬上川を渡り滋賀県立大学を過ぎたちょっと先に何と「地ビール専用自販機」があったのです。色んな地ビールを売っていました。


 銀色のアルミ缶に紙ラベルを張っただけの簡素なビールでしたが美味しかったですよ。「ケンちゃんビール」というそうです。詳しくはネットで。

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シシトウ

2024-11-20 22:59:02 | 日記
 懇意にしている能勢の農家の方から「シシトウ」をいただきました。正式には「獅子唐辛子」ですね。ピーマンと唐辛子の間のような野菜です。早速いただこうと調理方法をググってみたところ、手っ取り早いのは炭火で軽く焼き、あとは好みに応じて塩や醤油、みそ、ポン酢、マヨネーズなどをつければ良いようです。

 炭火はちょっと手間がかかるので簡易コンロに固形燃料を入れ焼きました。そして何もつけずに食べました。美味しかったです。地元「能勢」の地野菜。地産地消。お酒の肴にぴったりでした。
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80年代の韓国歩紀~反共国家

2024-11-17 10:29:21 | 日記
 釜山は韓国第二の都市であり、「ソウル特別市」に対して「釜山広域市」と呼ばれていますが、当時は「釜山直轄市」でした。韓国南端の日本海に面した港町で、朝鮮戦争当時、首都であるソウルが北朝鮮軍に占領されたため「臨時首都」が置かれたこともあります。写真は「釜山駅」ですが駅舎の上に掲げられている看板には「滅共統一」と書かれています。つまり共産主義を滅ぼして統一しようという意味です。時代ですね。


 高速バスで一緒になった青年との雑談の中で「なぜ日本には共産党があるのだ」と聞かれました。私が「日本は自由の国だからどんな思想でも認められるんですよ」と答えると彼から「共産主義がある限り自由はない」と言われました。ちょっときな臭い話になってしまいましたが当時の韓国での教育なのでしょう。一般の韓国国民が自由に海外旅行ができるようになったのは数年後だったと思います。その際、「反共教育」という教育を受けなければならなかった時代です。
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小さな脛(すね)

2024-11-14 06:49:48 | 日記
 上の娘から「お父さん。刈り取った庭草の処理をして」とヘルプ。私は男の子を育てた経験はありませんが、娘と言う奴はいつまでも男親を頼りますね。お父さんもいつまでも若くないんだよ。


 それとも動けるうちはトコトン使おうってことですか?わがファミリーで私たち夫婦を除けば唯一の「昭和」生まれ。あんなに小さかった赤ちゃんがもう40に手が届く年に。


 娘の家に行けばいつもお昼ご飯を用意してくれます。レトルトカレーのときもありますが、ちゃんと盛り付けて小さなサラダなども付けてくれます。今日は「焼きそば定食」でした。小さな脛しかないので体が動くうちはドンドン使ってください。
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インフルエンザ予防接種を受けてきました

2024-11-10 11:17:58 | 日記
 今日、いつもお世話になっている耳鼻咽喉科でインフルエンザワクチンの予防接種を受けてきました。65歳オーバーなので費用は半額補助です。毎年受けていますが副反応や腕の痛みはまったくありません。

 さて話は変わりますが「新型コロナワクチン」の予防接種。5類に移行しましたが65歳オーバーなので定期接種の対象者です。どうしようか迷っています。私の友人に医事機関で働いている者がいるのですが、彼に「医療業界でのワクチン接種に対する評価」について尋ねてみました。結果、賛否は半々で接種を受けている医師、受けていない医師もほぼ半々だそうです。つまり半数の医師はワクチン接種を受けていないそうです(ただ統計上ではなく見た目だそうですが)。

 そして賛成派・反対派に共通する認識は「最良の予防方法はワクチン接種以上にマスク・手洗い・うがい・手指消毒」「重症者の死亡率は激減したが、確実にエクモの世話になる」ということだそうです。これらを参考にこれまでの自己・家族の罹患有無、その時の症状、予防接種の副反応状況、社会との接触状況、年齢などを基準に判断すれば良いようです。つまり打とうが打とまいがどちらでも良いってことでしょう。別に賛成派・反対派でいがみ合う必要はありません。自己責任で判断するしかないですね。
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マクドナルド

2024-11-07 06:49:21 | 日記
 「マクドナルド」。60代の私にとっては学生や若者たちが集まって「ワイワイ、ガヤガヤ」。グループから誕生したカップルが喫茶店代わりにデート。いずれにしても若者が集う場所というイメージです。年配の者が入ろうものなら「いい年をした大人がハンバーグ(昔はそう呼んでいました)なんて」と白い目で見られました。しかし今は違います。カップルはやがて夫婦に。そしてファミリーへ。店はいつも家族連れで賑わっています。そして中には朝食やランチ代わりにハンバーガーをほお張る老夫婦や連れ合いとは永遠の別れをしたのでしょうかシングルのご老人の姿も。平和な良い時代になりました。

 
 わが家も二人の娘が孫を連れて遊びに来たので家内とともに近所のマクドナルドへ。それぞれの旦那さんは仕事とお留守番。三世代にわたる7人で2台の車に分乗し行ってきました。至福のひと時です。「♪ 味なことやる〜マクドナルド ♪」
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80年代の韓国歩紀~サービスエリアで

2024-11-03 19:28:09 | 日記
 途中休憩のため立ち寄ったサービスエリアです。サービスエリアは漢字で「休憩所」と書き「ヒュゲソ」と発音されます。釜山への案内標識を遮るように立てられた看板には「スパイも自首すれば我が国民、我が兄弟。スパイ申告は113・112。沃川警察署」と書かれています。「112」は日本の「110番」。「113」はスパイ専用の通報電話です。現在もそうですが韓国は未だ休戦中の準戦時国家。「韓流ブーム」に浮かれた旅行と違い当時はまだ軍事政権下でした。ただ当時の軍事政権は後の民主化政権に比べ日本に対しては友好的だったように思います。


 サービスエリアで売店の女の子と雑談をしました。その時彼女から「あなたは日本人なのに紳士的ですね」と言われました。当時の日本人男性は紳士的ではなかったのでしょうか。準戦時国家でありながら紳士的でない日本人男性がいる国。それが80年代の韓国です。
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運動会

2024-10-30 21:16:52 | 日記
 先日、以前勤務していた小学校から招待状をいただき「元教職員」という立場で運動会の見学に行ってきました。前日まで雨風が強く開催が危ぶまれましたが、当日はちょっと風が強かったものの晴天に恵まれ青空のもと無事に開催されました。

 運動会に行くとよく「昭和生まれ」の人たちから「ワシらの時代は弁当持って一日中したもんや」という声が聞かれます。そうでしたね。ただ今はどこの学校も運動会は午前中に終わります。午前9時前ころから始まり正午前にはすべて終ります。
 理由はいくつかあります。家族と一緒に弁当を食べられる家庭環境にない児童への配慮。少子化による児童数の減少。今は本当に子どもが少なく団体演技でも個人競技でもひとつの学年ではチーム編成ができず、通常、低学年、中学年、高学年の3組に分けて行われます。つまりプログラム数がほぼ半減しているのです。また毎年続く「酷暑」。直射日光を遮るものがない運動場で丸一日競技を行うのは不可能です。どれも本当の理由だと思います。
 そして一番の理由は見学者の高齢化ではないでしょうか。保護者席の半分くらいが私たちのような「じいじ」「ばあば」で占められています。こんな老人を炎天下にさらせば干からびてしまいますよ。そう思うようになってからは私は「ワシらの時代は弁当持って一日中したもんや」という言葉は言わないようにしています。

 さて競技が始まりました。まだ転勤して2年ほどしか経っていないので、ほとんどの児童の顔は覚えています。3年間勤務したので一番手がかかった1、2年生だった子どもたちが5、6年生になっていました。みんな上級生らしく元気に走り、踊っていました。一番前で踊っている女の子。彼女はホルモンの関係で体がとても小さな子どもでした。ランドセルの底が地面に着きそうです。入学当時「せんせ~い」と言いながら駆け寄ってきて転倒、ヘッドスライディングして泣きながら抱きついてきた子です。今は5年生になり知能や運動神経には問題がないので上手にダンスを踊っています。とても「美人」な子です。ただ5年生とは思えないほど小さな体です。3年生くらいの体で一生懸命踊っていました。ちょっと何か涙腺が崩壊してしまいました。
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80年代の韓国歩紀~「高速バス」で釜山へ

2024-10-27 08:50:31 | 日記
 今回から舞台はソウルから釜山へと変わります。ソウル~釜山は現在であれば航空機の国内線か韓国の新幹線にあたる「KTX」で移動するのでしょう。当時でも韓国の二大都市を結ぶ「京釜線」という日本でいえば東海道本線にあたる鉄道に「セマウル号」という特急列車が走っていました。しかし私は「高速バス」を利用して釜山へ向かいました。写真はバスチケットの半券です。漢江の南側にあった「高速バスターミナル(コソクポストミノル)」からバスに乗りました。覚えていませんでしたが半券を見ると441.4kmの旅。料金は5780ウォンだったんですね。当時の日本円で1000円以下です。安いですね。


 また私は車内で軍服を着た同年代の男性と知り合いになりました。日本人であるにもかかわらず韓国語が喋れた私に興味を持ったようです。当時の韓国では私のように怪しげな韓国語を話す日本人はまず「キョッポ(僑胞)ヤ?」と聞かれます。「僑胞」とは彼らから見た「在日韓国人」のことです。適当に「ネ(はい)」と答えればそれで済むことも多いのですが「アニ。イルボンサラミヤ(いや日本人だよ)」と答えると急に親近感を持って話しかけてきます。そんな時代でした。

 彼は釜山の出身でしたがソウルの「建国大学校」に進学。その後、休学し兵役に就いているそうです。「下士(伍長=三曹)」の階級章を付けていました。どこの部隊にいるのかは「軍の秘密」と言って教えてくれませんでしたが、夏季休暇を利用して帰省する途中だったようです。ただ兵役中に実家が引越したため新しい家に帰ったことがなく、釜山に到着後私と二人で住所を頼りに彼の実家を捜し歩きました。スマホのない時代です。その日は釜山の居酒屋で酒を飲みました。将来の夢は建築家になることだそうです。
 彼と住所の交換をしたのですが、その後、お互い住所が変わったため音信不通です。
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朝の通勤電車内にて

2024-10-24 07:09:28 | 日記
 昨日のことです。

 私は毎朝「阪急電車」で通勤しています。ゆっくりと座って行きたいのでちょっと早めに家を出て、1本遅らせてその駅が始発の電車に乗っています。通常より7~8分到着が遅れますが、十分余裕を見ているのでまったく問題はありません。無人の車両に乗車すれば、次の駅で座席が埋まり徐々に混雑していくという感じの混み具合です。

 私は座席シートの2番目に座りました。右端にはイヤホーンを着けた20歳過ぎの女性が座りその隣が私です。私の左にはビシッとはしていませんが、一応スーツ姿の30歳代くらいの男性。スマホを見ています。その隣にはタブレットに夢中の男子高校生が。8人掛けでしたのでその先にも4人くらい座っていたと思います。そして電車は出発。
 私は眠ってはいませんが目を閉じて静かに座っていました。ところがいくつか駅を過ぎた頃、私の肩を誰かがポンポンと叩くのです。私が目を開けると隣の女性の向かいつまり私の右斜め前に立っていた私服姿ですが高校生と思われる女子が辛そうな顔をして「スミマセン。しんどいので座らせてもらえませんか?」と言うのです。私は「良いよ」と言ってすぐに席を立ち、「いつか良いことがあるだろう」「両親が授けてくれた頑健な体に感謝」などと考えながら快く席を譲ってあげました。それだけのことです。

 ただあの女子はなぜ私に声をかけたのでしょうか。私は65歳を過ぎ優先席に座っていてもいい年。あの4人の中では一番高齢者だったのですが。

 実は私は町でよく人から道を尋ねられます。別に地元の住民でもなく単なる通行人なのですが…。それも「何回か」ではなく「何回も」です。ある時は韓国人のおばさんからハングルで書かれたメモを見せられ道を聞かれたこともあります。私が韓国語を話せることなどわからないはずなのに。それどころか韓国旅行に行った際、ソウル市内で韓国人から道を尋ねられたことも。「あの私。日本から来た旅行者なんですけど……」。それ以外にも突然呼び止められ「今何時ですか?」と時間を聞かれたり、列車トラブルのため遅れた電車で到着し、駅を出たところで家族を迎えに来ていたと思われる奥さんから「事故か何かあったんですか?」と尋ねられたこともあります。他にいっぱい人がいるのに。おそらく私からは人が声をかけやすいオーラが放出されているのでしょうね。「キャッチセールスに引っかからないように気をつけよっと」
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80年代の韓国歩紀~板門店

2024-10-21 12:01:59 | 日記
 南北軍事境界線(北緯38度)にある「板門店(パンムンジョム)」。今回の旅行で最も行きたかった場所です。ここは単なる観光地ではありません。前日までに「韓国観光公社」というところで申請をしなければなりません。ソウル中心にある当時では最高級であった「ロッテホテル」に公社の窓口があったので入国当日に申請しました。

 その際、パスポートを提示し「生命の保障はしません」という書類にサインします。また軍事的緊張や急な会談などが入ればツアーは中止されます。8月18日分のチケットをゲットしました。

 バスはソウル市内を出発しますが一部の観光施設を除いて写真撮影は禁止されていました。これは「フィリピン軍参戦記念碑」です。板門店が近づくにつれ戦車阻止用の巨大なコンクリート塊が設置されていたり、まるで路上駐車するかのように道端に装甲車が止まっていたりと緊張感が増してきます。


 途中、バスは何度か検問所を通過するのですが、その際拳銃を吊った「国連軍兵士」が乗ってきて全員のパスポートを確認しました。これは当時板門店には韓国人は行けなかったことから「外国人」という確認です。当然ですが私はここでは外国人なのです。そして日本でも上海事変当時、破壊筒を抱えて鉄条網に突入し突破口を開いた「肉弾三勇士」という軍神がいますが、朝鮮戦争当時の韓国軍による軍神「肉弾十勇士」。その忠勇塔で見学休憩です。


 最後のゲートを通過すれば「共同警備区域」に入ります。映画にもなりましたね。この区域だけは写真撮影が自由でしたが北朝鮮兵に手を振ったり挑発的な行動を取らないようにと注意がありました。また服装もGパンや女性のミニスカートは禁止でした。説明は英語と日本語でされます。ここは韓国でありながら韓国人はいないのですから(兵士や従業員はいます)。これは「自由の家」と呼ばれる国連軍側の施設です。良い天気でしょ。旅行中の1週間ずっと快晴でした。ちょっと暑かったですが。


 そして軍事境界線を挟んで向かいには北朝鮮側の「板門閣」。中から北朝鮮の兵士がずっと双眼鏡でこちらを監視していました。


 本来であれば「本会議場」に入り会議用のマイクケーブルが境界となっている軍事境界線を越えて北朝鮮側に足を踏み入れることができるのですが、この日は写真のとおり工事中で残念ながら見学することはできませんでした。建物の中央を通るコンクリートの小さな段差が軍事境界線です。警備をしているのは国連軍の黒人兵士です。


 北朝鮮側にあるこの村は夜になっても明かりは灯されず、煙突からは煙も出ないことから「宣伝村」と呼ばれています。高さだけは東京タワーやエッフェル塔に匹敵するそうですが「見栄」や「はったり」で建てた安物の鉄塔がそびえます。


 「帰らざる橋」です。昭和51年の今日。ここで監視の障害となっていたポプラの枝を剪定していたアメリカ兵や韓国兵、韓国人作業員が斧を持った北朝鮮兵に突如襲われ、アメリカ兵2名が殺害されるという「ポプラ事件」が発生しました。当時共同警備区域内に境界線は設定されておらず「南北」入り混じって警備していたそうです。この後、アメリカ軍は威信をかけ空母、爆撃機など陸海空全軍を動員して、この小さな1本のポプラの木を伐採したそうです。ちょうど7年後の当日、その切株がまだ残っていました。


 この後、将校クラブでコーヒーを飲んだ後、ツアーは帰路につきます。
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阪急電車が「トムとジェリー」とコラボ

2024-10-16 22:17:48 | 日記
 ♪ トムとジェリー 仲良く喧嘩しな… ♪

 1940年。アメリカで制作されたアニメです。ドジな飼いネコ「トム」とずる賢いネズミ「ジェリー」との間で繰り広げられるドタバタアニメ劇。日本でも昭和40年代に放映されたことから「昭和世代」にとっては懐かしいアニメドラマのひとつです。私もそのひとりです。


 「イヌ派」「ネコ派」。私は「イヌ派」なので、実物でもイラストでもキャラクターでもネコを見て「かわいー」という感情はあまりないのですが、ドジで間抜けなトムだけは別です。「かわいい」ですね。
 そして令和6年8月23日から阪急電車と系列会社である能勢電車が「トムとジェリー」とコラボ。色んなイベントを開催しています。


 阪急電車の主要路線である「神戸線」「宝塚線」「京都線」の一部車両で「トムとジェリー」のラッピング列車が運行されいます。




 ヘッドマークも。運転席にはトムとジェリーのぬいぐるみが。阪急電車はこれまでも「すみっコぐらし」や「ちいかわ」などともコラボし、その度にラッピング列車が運行されていました。


 能勢電車でも3つの種類のヘッドマークを付けた車両が運行されています。


 車内にはたくさんのポスターも。キャンペーンは令和7年3月27日まで。その他にもスタンプラリーや関連グッズの販売も行っています。詳しくは阪急電車のホームページで。


 その他「SDGs」や「関西万博」などのいろんなラッピング列車が走っていますよ。
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ワークライフバランス

2024-10-13 21:49:17 | 日記
 高度成長期もバブル景気も終りました。もう個人や私生活を犠牲にして働く時期は過ぎました。そして働き方改革が進む中「ワークライフバランス」という言葉が生まれました。業種や会社の規模によって違うと思いますが、要は仕事一辺倒ではなく仕事と私生活のバランスを取りながら働きましょうということだと思います。ただ一定の定義があるわけではなく「肯定派vs否定派」「積極派vs消極派」「ポジティブ派vsネガティブ派」の中、どちらでも主体として存在できる極めてあいまいな耳障りが良いだけの言葉です。

 以前の職場で上司が言った言葉です。「なぜワークライフバランスというかわかるか。ワーク(仕事)が先でライフ(生活)が後。つまり仕事第一ということだ」。おそらく人の上に立つべき人ではないと思いますが、実際にはこのような人が上に立っています。

 このような人が淘汰されたときワークライフバランスが実現できるのでしょうね。
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