「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

80年代の韓国歩紀~白バイ

2024-06-30 10:18:58 | 日記
 たまたま町で見かけた白バイ警官です。単車はバイク乗りにとっては憧れの的「ハーレーダビットソン」。基本的に韓国の警察は今も昔も「アメリカンポリス」です。


 南大門(ナムデムン)前を走る白バイです。隣では市内バスが黒煙を吐いています。ソウル市内ではたくさんの白バイを見かけましたが日本のように交通取締りをしているというよりも、その姿で威厳を示し町をパトロールしているという感じでした。また日本の「お巡りさん」のような警察官はあまり見かけませんでした。その代り徴兵の代替制度である「義警(義務警察)」と呼ばれる警察官が市内でも空港でも2人1組でパトロールしていました。高校を卒業したばかりのあどけない彼らは取締りや職務質問をすることもなく「おもちゃの兵隊」のような制服を着せられ、ペチャクチャ雑談をしながらブラブラ歩いていました。ある面、平和な光景でしたよ。

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独り言

2024-06-25 21:20:47 | 日記
 ある男性が話していた内容です。最初はプロ野球について語っておられました。私はプロ野球には全然興味がないので、内容はチンプンカンプンですが、テレビで見るプロ野球解説者と同じような論調です。

 次の話題は日本の経済問題です。「俺が総理になったらチビチビ出さず国民一人当たり100万円を給付する。経済効果は抜群や」「財源はパワハラ税とセクハラ税、歩きスマホ罪の新設や」「ハラスメント当時の所得に対して累進課税する」「スマホは差し押さえ。罰金の納付書と交換で返還や」「誰も文句言わんやろ」と。ユニークな発想ですね。昔のように体育会系のパワハラやスケベおやじのセクハラではなく、今は地位や財力を笠に着たパワハラ・セクハラが横行。素晴らしい財源ですね。電車の乗り換えで急ぐ時、あの歩きスマホは歩きたばこと同じくらい迷惑ですね。斬新な考えです。誰も文句は言わないでしょう。反対であれば自分がしなければいいのですから。

 ただこの男性。私と個人的に話しているのではなく、駅のホームで缶チューハイ片手に一人で話しておられました。

 まあ。駅頭の演説も独り言のように聞こえますが。
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これはセクハラではありません

2024-06-23 10:57:10 | 日記
 最近、よく外食産業を利用するのですが、そこで働く女性従業員には3つのパターンがあるように思います。

 まず休日や夕方に働いている女子たち。大学生かフリーターでしょうか。マニュアルどおりの一番若い世代です。ちょっと舌足らず。語尾は「で〜す」「ま〜す」。

 次に繁華街や夜の店舗で働いている女性。とても美しいです。ゾックとしますがニコリともしません。

 最後に昼間帯に働く奥さまたち。いつもニコニコ。接客も自然です。かゆいところに手が届くサービス。同じ様に困った顔をして「これで大丈夫ですか?」なんて聞かれると「はい。大丈夫です。ありがとうございます」と答えてしまいます。さすが日本の産業を支える方々です。

 これはセクハラではありません。人口の2分の1を占める男性客として正直な気持ちです。
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80年代の韓国歩紀~南大門と市内バス

2024-06-17 05:23:14 | 日記
 城郭都市「漢陽(ハニャン)」を囲む4つの門のうち最も規模が大きいのがこの「南大門(ナンデムン)」です。ここはソウルの中心地であり付近にはソウル市庁や有名な観光地「南大門市場(ナムデムンシジャン)」などがあります。正式名称は「崇礼門」といい韓国の国宝第1号に指定されましたが、平成20(2008)年2月、放火により全焼。その後再建されました。ねっ。周りには「ポニー」しか走っていないでしょ。


 そして端っこに見えるのが市内バス(シネポス)です。当時の市内バスは運賃均一で100ウォンでした。「ポスアガシ(バス嬢)」と呼ばれる女性車掌が入口に立って運賃を徴収するとともに満員の時はまるで草でも引き抜くかのようにお客さんの首根っこを掴み車内に引き込んでいました。

 ある日市内バスに乗った時、あまりにスピードを出していたので車内前部に乗っていた私はスピードメーターを見ようと運転席を覗き込んだところ「何と」スピードメーターはありませんでした。そして半そでシャツと短パンに雪駄を履いた兄ちゃんがタバコをくわえながら運転していました。いかにも軍隊上がりという風貌です。知人から聞いた話では床に穴が開いていて路面が見えていたバスもあったそうですよ。それがソウルオリンピック前の首都「ソウル」の現状です。以前、韓国ドラマでそのような時代背景にもかかわらず女優さんが「ピンポーン」と降車ベルを押すシーンを見て私は「コケて」しまいました(笑)
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QRコード

2024-06-14 18:12:17 | 日記
 今サイゼリヤで飲んでいます。そして何と注文方法がQRコード方式になっていました。


 何とか店員さんを呼ばずできました。


 QRコードの使い方が分からなければ晩酌もできないんですね。それ以前にスマホがなければ。

 財布忘れてもスマホ忘れるな。スマホなしでは生きていけませんね。  

 そしてますます店員さんと話す機会がなくなりましたね。私は楽ですが。
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琵琶湖一周歩紀4〜「奥琵琶湖」から「湖北」へ湖岸集落を訪ねてドライブ歩紀~

2024-06-08 22:11:34 | 日記
訪問日:令和6年6月7日(金)
出 発:JR「マキノ駅」
到 着:JR「長浜駅」

 まずはお詫びです。今回は「歩紀」ではありません。マキノから長浜までいくつかの湖岸集落を訪ねますが、その間の移動はマイカーです。理由は「クマ」。日本有数のツキノワグマの生息地である福井県の山塊が直接琵琶湖に沈む奥琵琶湖はクマの出没地帯でもあります。特に5月から7月にかけてはクマの活動が最も活発な時期。目撃情報もたくさんあります。私が住む大阪府北部でさえクマの目撃情報があるのですから。ということで今回はマイカーを使用しました。

 地図で見るとわかりますが琵琶湖の最北部には特に名称はありませんが大小3つの半島が突き出ています。「湖西」と「湖北」の接点となるこの地を特に「奥琵琶湖」と呼びます。半島の間は大きな入り江になっており、その奥にひっそりと「湖岸集落」が佇みます。マキノから「海津」「大浦」「菅浦」「塩津」のプチ町歩紀をしながら長浜まで走ります。まさしく「津々浦々」ですね。自動販売機とトイレは所々ありますが、食事についてはネット情報で。はっきり言って「秘境」です。


 渋滞を考え早朝4時45分に自宅を出発。平日なのでここまで2時間かかりませんでした。電車より早いです。マキノ駅のすぐ近くにある「ファミマ」でサンドウィッチと缶コーヒーを購入。その後、マキノ駅前の駐車場に移動し時間調整です。今日は金曜日ですが先週土曜日に休日出勤した代休です。


 前回のゴール「マキノ駅」。この辺りは「平成の大合併」で滋賀県高島市になりましたが、かつては「マキノ町」と呼ばれていました。駅名とともに北海道ニセコ町と並ぶ全国でも珍しいカタカナ名の自治体だったそうです。山手は高原になっておりアウトドアスポーツやスキーが楽しめます。トイレは駅の外にあるので車でもOKです。午前7時20分、駅前駐車場を愛車「蘭丸」で出発。


 駅前の「アクアパレス通り」を南に進みます。県道に出れば正面に前回訪れた「マキノサニービーチ湖のテラス」が見えます。右には先ほどサンドウィッチを買ったファミマ。ここを左折し「西浜交差点」で国道303号線と合流すれば道なりに右へ。消防の救急分遣所を過ぎた先の四つ辻から左をのぞけば鳥居が見えました。お参りしましょう。


 細い道の突き当りには「海津天神社」。「天神様の細道」ですね。鳥居の右に参拝者用の駐車場(というより空き地)があります。


 由緒によれば延暦23(804)年に創建された古社に菅原道真公が勧請されたそうです。今日一日の安全を祈願しましょう。(午前7時24分)


 参拝を終え国道303号線に戻り左へ。角に「セブンイレブン」がある「海津交差点」を右折します。この先当分コンビニもスーパーもありません。必要なものがあればここか先ほどのファミマで買っておきましょう。


 この辺りは「海津(かいず)」という集落です。「津」なので港町ですね。取り敢えず県道をまっすぐ進みます。右から道が交わってきますが直進し、その先にある駐車スペースに「蘭丸」を駐車しましょう。(午前7時33分)


 ここからは「海津」の町歩紀です。さっき来た方向に戻れば左に旧家風の建物が見えますが料理店です。


 さっき通り過ぎた三叉路を直進し、先ほど通った道を進みます。すぐ左に「海津のイケ」。共同管理の井戸だそうです。


 その先には「真宗大谷派願慶寺」。織田信長との「石山合戦」では周辺の門徒を率いて参戦したそうです。江戸時代に入ってからは加賀・越前の諸侯が上洛する際の宿として利用されました(案内板より)。お参りしましょう。


願慶寺の塀を見ながら元の方向に戻ります。


 この道は「ビワイチサイクリングロード」のようです。今回もほぼこのサイクリングロードに沿って走りますので、路面にはこの青いペイントが描かれていると思います。


 先ほどの三叉路を右折して海津の町を歩きます。海津も港町であり宿場町です。


 良い雰囲気ですね。「日本の原風景」である電柱と電線が邪魔ですが。


 その先には「吉田酒造」。酒は単なる呑兵衛の嗜好品ではなく、来賓のおもてなしや冠婚葬祭、神仏への供物として日本では必要不可欠なものですので、どこに行っても造り酒屋さんはあります。もちろんまだ開いていません。


 旧家前には「旧海津港跡」の説明文が。江戸時代この辺りに北陸から大津を結ぶ海津港があり宿場町として栄えたそうです。海津という地名自体が「海の港」という意味ですね。


 さらに進めば古い鮒寿司屋さん。


 その先に何だこの「金ピカ」の御殿のような建物は。「海津迎賓館」という表札が掛かっていますが、一般には公開されておらず観光施設でも史跡でもないようです。


 その向かいには「真宗大谷派福善寺」。今日は平日。先ほど集団登校中の小学生たちとすれ違いましたが、何人かは「クマ鈴」を付けていました。「ガラーン、ガラーン」


 福善寺を過ぎれば右から「海津天神社」からの道が交わり三叉路になります。角には「真宗大谷派誓行寺」。


 その向かいに琵琶湖に面した石垣があります。これが後で説明する「海津浜の石積み」です。


 この辺りにはお寺が5つほど並びます。


 そしてそのひとつ「真宗大谷派蓮光寺」。入って行きましょう。


 境内に「西与一左衛門之碑」があります。説明文によるとかつてこの辺りは甲府藩(山梨県)の飛地領地だったそうです。そして元禄14(1701)年、当地の代官として赴任した西与一左衛門が、風波の被害から村を守るため湖岸に石垣を築いたほか荒地の租税を減免するなどしました。その業績を讃えて村人たちが建立したそうです。


 蓮光寺前の「海津漁業協同組合」の看板に従い湖岸へと進んで行きます。古い建物ですね。


 そこは「海津港」。漁港とサクラの名所である「海津大崎」への遊覧船乗り場になっています。


 港を右に見ながら進めば先ほどの「海津浜の石積み」を琵琶湖側から望めます。これが西与一左衛門により築かれ石垣です。立派ですね。


 後ろには誓行寺の瓦屋根と石組が見えます。(午前8時4分)


 一旦道路に戻り右へ。飲食店でも料理人でもない「漁師」さんのお店なんですね。


 元の方向に戻ります。さっき通った「福善寺」です。方向が変われば趣も変わりますね。背景に山があるのとないのとでは随分違います。


 先ほどの「金ピカ御殿」の先を右に入れば湖岸に出られます。曲がりましょう。


 ここにも「海津浜の石積み」。同じ道を戻るのは能がないので、しばらく湖岸に沿って歩きます。良い眺めですね。


 水もきれいです。


 川に突き当たりますが手前の石段を上り、橋を渡ってすぐに右に入れば川の向こうに出られます。


 この後走る第1の半島が見えます。


 街道と湖岸をつなぐこんな路地がたくさんあります。


 この辺りが石積みの東端のようですね。左にスロープがあるので上れば、先ほどの三叉路です。右に曲がって「蘭丸」のところに戻ります。


 さあ半島に沿って進みましょう。この道路は「県道557号線」です。すぐに駐車スペースがあるので入ります。ここは関西でも有数のサクラの名所「海津大崎の桜並木」です。(午前8時26分)


 今はシーズンではありませんが、湖面にまで届きそうなサクラ並木がずっと続きます。


 片隅には琵琶湖を背に「忠魂碑」が建ちます。銘板は平成2年に建立された新しいものですが先の大戦でしょうか。この小さな村から100人以上の戦没者が出たようです。「合掌」


 右を見れば先ほど歩いた「海津」の集落が見えます。


 県道を進めば左に建物が見えてきました。食堂と公衆トイレです。おそらく食堂はサクラのシーズン以外や平日は閉まっていると思います。(午前8時34分)


 結構広い駐車スペースがありました。その向かいの湖岸にある桟橋は「竹生島クルーズ」の遊覧船乗り場です。


 ここは「大崎観音」への参道のようです。階段を上って行きましょう。


 正式には「真言宗智山派大崎寺」という寺院のようですが「大崎観音」として親しまれています。ひとり100円で維持できるのでしょうか。


 石段を登れば本堂。ご本尊は「千手観音」ですが、いろいろな霊場になっているようです。本堂の前に展望台がありましたが、木々に遮られ景色は望めませんでした。


 本堂の奥には「阿弥陀堂」。


 このようないわれがあるようです。


 その先の結構深い森の小径を歩きます。クマ鈴を鳴らしまくりながら進みました。途中落石のためその先は通行止めでしたが木々の間から「竹生島」が見えます。
      ♪ 瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの 竹生島 仏の御手に
              いだかれて ねむれ乙女子 やすらけく ♪(4番)
琵琶湖周航の歌4番の歌碑は竹生島にあるので今回は訪れません。


 先ほどの桟橋前まで戻れば目の前にはトンネル。これから先このようなトンネルがいくつか続きます。(午前8時49分)


 琵琶湖にポツンと浮かぶ竹生島は本当に「神仏」の島ですね。信仰の対象となる理由がわかるような気がします。


 右に「二本松キャンプ場水泳場」が見えてきました。ここから「長浜市」に入ります。サクラの季節には「花見船」が出て舟遊びができるようです。(午前8時58分)


 右が琵琶湖でなければ完全な山の中ですね。この半島は福井県から続く500m級の山が直接琵琶湖に沈み込むのです。


 湖面では漁師さんが「エリ漁」の真っ最中でした。


 別荘やキャンプ場、ホテルがたくさんあります。


 景色が良いのでついつい路肩に駐車してしまいそうになりますが、結構駐車スペースは多いので路肩駐車はせず次の駐車スペースまで進みましょう。景色が良い所には必ず駐車スペースがありますよ。


 サクラ並木は続きます。


 右に真新しい石灯籠。その先には「八幡神社御旅所」がありました。ちゃんと駐車スペースもありますよ。(午前9時13分)


 御旅所の先に街並みが現れました。橋を渡れば二つ目の集落「大浦」です。


 一旦車を進め「大浦川」を渡り次の「大浦交差点」を右折。すぐ先に「湖岸緑地大浦園地」の駐車場があるので入りましょう。ここからは町歩紀です。(午前9時19分)


 東屋などもある湖岸の緑地です。公衆トイレがあります。


 右を眺めれば「大浦」の集落。第1と第2の半島に挟まれた入り江の一番奥に位置します。


 私の故郷である瀬戸内海と変わらない風景ですね。


 今までの浜辺はゴロタ石でしたがここは砂浜です。ただ琵琶湖の砂浜は海のようにパウダー状ではなく、ちょっと目が粗いような感じがします。


 集落の真ん中を「大浦川」が流れます。大浦川の小さな三角州(河岸段丘?)上に開けた集落なのでしょうか。白鷺が立っている姿を見ると「淡水湖」なんだなと思います。


 民宿もあるようです。


 小さな集落ですが、結構立派な家が並びますね。


 先ほど通り過ぎた「大浦交差点」を左に曲がりましょう。(午前9時32分)


 駐在所を過ぎます。「町の保安官」ですね。


 駐在所の向こうには「北淡海・丸子船の館」という施設があるのですが取り敢えず通り過ぎます。その先には結構良い雰囲気の街並みが残ります。


 「腹帯観音」という案内板があったので右に曲がりましょう。その先には「真宗大谷派正願寺」。このお寺でしょうか。


 お寺のすぐ右にこんな案内板がありました。入って行きます。


 参拝者用のトイレを過ぎれば奥に小さなお堂がありました。私の長女は「一女一男」を授かり、次女は長男を授かりましたが2子目の「妊活中」です。元気な孫が生まれるようにお参りしました。(午前9時38分)


 元の道に戻ると村をぐるっと一巡できるようです。土蔵の向こうに鳥居が見えます。


 「八幡神社」の社号標。さっき通った御旅所の本宮でしょうか。


 参拝を終え、ぐるっと回れば県道に戻ります。目の前には先ほど通り過ぎた「丸子船の館」。入りましょう。入館料は300円です。(午前9時44分)


 「丸子船」とは江戸時代から昭和初期まで琵琶湖水運の主役として運行されていた帆船のことだそうです。琵琶湖の気象とうねりに合わせた特有の船で、館内には昭和6年に建造されたという実物の船が展示されていました。一見の価値がありますよ。


 琵琶湖には独特の風(波)があるのですね。


 丸子船に関するいろいろな資料や遺物が展示されています。


 かつての大浦港を再現したジオラマもありました。


 見学を終え午前9時58分出発。県道を右へ旧家のシャッターにも「丸子船」の絵が。


 大浦交差点を過ぎ「蘭丸」を右に見ながらちょっと先まで歩いてみましょう。駐車場のすぐ隣は「大浦漁港」。漁船と水上タクシーが係留されていました。


 小さなレストランを過ぎれば右に「赤崎丸子船駐車場」という休憩スペースがありました。丸子船の形をした東屋があります。


 ここは入り江に突き出した小さな半島の先端で湖のすぐそばまで下りられます。沖には半島に挟まれた入り江の出口が。


 大浦の町歩紀は終わりました。駐車場まで戻り再出発です。ここからは第2の半島を走ります。駐車スペースと小さな公園がありました。この辺りからは角度の関係で入り江の出口が見えないので琵琶湖が小さな湖のように見えますね。(午前10時21分)


 公園の向かいは小さな棚田です。この山が福井県まで続いているのです。


 その先には「奥出浜園地」。東屋があります。奥琵琶湖は何だか信州か富士山にある高原の湖のような雰囲気ですね。(午前10時26分)


 しばらくすると左に観音様が見えてきました。「湖魚供養燈」というそうです。通り過ぎても大丈夫。すぐ先に駐車スペースがありますよ。


 道が狭いのでほとんどの車は対向車や駐車車両があると徐行しますが、バイクと自転車は減速することなく猛スピードで突っ込んできます。駐車スペースから本線に出るときは十分注意しましょう。そしてドライバーは美しい景色に見とれてわき見運転しないように。


 観音様を過ぎると「奥琵琶湖パークウェイ」というドライブウェイとの分岐に出ますが「歴史の里菅浦」という看板に従い右の湖岸寄りに進みましょう。すぐに公衆トイレと駐車場があります。そしてここが一番来たかった湖岸集落「菅浦(すがうら)」の入口です。奥に停まっているのは長浜市のコミュニティバス。平日に限り運行されJR「永原駅」も経由するようです。利用される方はホームページで。(午前10時45分)


 バス停前には集落の案内地図がありました。まず神社にお参りした後、時計周りで町歩紀をしましょう。


 すぐ前に小さな茅葺きの建物が建っています。「西の四足門(しそくもん)」。ここが集落の入口です。集落と外界を区切る門として村の東西に建っているそうですが、かつては南北も含め4つあったそうですよ。


 その隣には「須賀神社」の鳥居。参道を進みます。左は鬱蒼とした森です。クマ鈴を鳴らしながら歩きました。


 途中右に校倉造り風の立派な建物がありました。「菅浦郷土史料館」というそうですが日曜日のみ開館のようです。


 坂道を上りつめれば手水舎。きれいな水がコンコンと湧いていました。そしてここから先は土足禁止のようです。身を清めた後、下駄箱内のスリッパに履き替えて左の石段を上りましょう。


 石段を上れば立派な拝殿がありました。淳仁天皇をお祀りするようです。賽銭箱には皇室の紋章が。(午前10時55分)


 お参りを終え、参道を下って行くと集落の瓦屋根越しに琵琶湖が見えました。良い景色ですね。


 鳥居まで戻り左へ。まず山側の道に入ります。中世に形成された小さな漁村で国の「重要文化的景観」「日本遺産」に認定されています。


 途中「第11作業場」という看板の小さなプレハブがありました。案内板によると「ヤンマーの家庭工場」。
   ♪ ボクの名前はヤン坊 ボクの名前はマー坊 ♪
あの「ヤンマーディーゼル」です。エンジン部品を作る家内工業として始まり、かつては20カ所あり今でも10ほど稼働しているそうですよ。ヤンマーといえば世界的な企業ですがすごいですね。


 突き当りにある公民館の階段を上れば「淳仁天皇菩提寺菅浦長福寺跡」。淳仁天皇は「藤原仲麻呂の乱」により淡路島に流されたそうですが、琵琶湖(近江)は「淡海」とも呼ばれることから、ここがその地とも伝わるそうです。だから須賀神社のご祭神が淳仁天皇だったんですね。


 そして公民館前は何やら「カオスな空間」。かつて村落内には琵琶湖から引いた東西二つの水路の奥に小さな船溜まりがあったそうです。ここは「東の舟入」と呼ばれた船溜まり跡のようです。


 元水路と思われる小さな路地を進めば立派な割烹料亭。とても私には手が届きません。


 その先にはお寺が並びます。「時宗阿弥陀寺」。文永11(1274)年、一遍上人により開かれたそうです。海津も大浦も同じ位置関係に寺院が並んでいますが、仏様の向きなどが関係するのでしょうか。


 「第14作業場」の前を通り過ぎます。


 その隣には「浄土真宗本願寺派安相寺」。案内板によると天正元(1573)年、小谷城落城時に浅井長政の二男「万菊丸」が菅浦に逃れ、当寺の前身である道場に身を隠したそうです。


 そのまま進めば琵琶湖に出ます。そこには「東の舟入跡」碑。


 その向かいにある第17作業場横には「右要害の門一丁」の石標が。


 一丁。100mちょっとです。湖岸沿いの小さなコンクリート舗道を歩きましょう。


 「秘境」です。しかし歴史上の人物が流されたり身を隠したり。当時は人を寄せ付けない所だったんでしょうね。


 突き当りには「東の四足門」。(午前11時15分)


 そこから先は写真のように400m級の山塊が琵琶湖に直接沈み込むため歩くことはできません。


 菅浦の集落を眺めながら来た道を戻ります。


 左には「菅浦漁港」。ここは豪雪地帯。冬になれば船の上まで雪が積もるそうですよ。


 そして湖岸側は集落に沿って石垣が組まれています。


 案内板によると波除け用のものと平坦地を確保するための土盛り用のものとがあるそうです。


 菅浦漁港が途切れた辺りにもカオスな空間。こちらは「西の舟入跡」のようです。奥には第5作業場がありました。他にもいくつか作業場は残っています。


 午前11時36分。先ほどのバス停まで戻ってきました。あっという間に「湖岸集落」一周です。静かな集落です。マナーを持って歩きましょう。そしてそこには「上水道施設」。そうか琵琶湖は大阪府民の水がめですが飲んでいるのは淀川の水。滋賀県の人は琵琶湖の水そのものを飲んでいるんですね。滋賀県民が京都・大阪府民を困らせるため「琵琶湖の水、止めたろか」という言葉があるという話をテレビで聞いたことがありますが、私はそんなこと言われたことはありません。どうせバラエティー番組が面白おかしく言っているのでしょう。だって琵琶湖の水を止めると滋賀県全部が琵琶湖になっちゃうでしょ。琵琶湖の出口は淀川しかないのですから勝手に溢れてきます。


 さあ再出発です。車を出そうとサイドミラーを開いたところ左右のミラーとルームミラーには「琵琶湖」。何か感動しました。


 同じ道を戻ります。先ほどの分岐点を鋭角に右折し「奥琵琶湖パークウェイ」へ入ります。自転車・歩行者も通行できるのですが山の上を走るドライブウェイです。かなり高度を上げます。途中「つづら尾崎展望台」に立ち寄りました。トイレや売店があります。


 駐車場前は展望台になっており「湖北」の町が一望できます。これより「奥琵琶湖」を後にし「湖北」へと進みます。


 途中駐車スペースがありました。やっぱり出るんだな。ここは菅浦集落の裏山ですよ。


 そしてここは「もみじが丘」という小さな展望台。この後、目の前に見える長細い山地の中ほどにある「西野水道」へ向かいます。


 山の向こう側は「余呉湖」の水を琵琶湖に引く「余呉川」と「高時川」に沿って平地が開けるのですが、地形図を見るとおそらく「第4の半島」だっただろう思われるように突き出しています。そしてこの山塊も「賤ヶ岳(しずがだけ)」から続く「ベアエリア」です。


 ドライブウェーを過ぎ山から里に出ればすぐに右折。田んぼの中の一本道を抜けます。その先でローソンがある「塩津浜交差点」で国道303号線と交わるので左折します。すぐ左に「道の駅塩津街道あぢかまの里」。


 時間は。「蘭丸」の腹時計も正確なようです。昼食にしましょう。


 自販機でチケットを購入し携帯ベルで呼ばれれば取りに行くセルフサービス式のレストランです。ひとり歩紀の孤独が好きな「おやじブロガー」にとっては気を使わない良いシステムですね。「焼鯖すし・きつねそば」(税込1000円)を食べました。


 午後0時30分。食事を終え「塩津」の町を歩きますが町歩紀というほどではありません。「蘭丸」を道の駅に残し先ほどの塩津浜交差点を過ぎて国道を南に歩きます。7~8分ほどで国道が橋を渡る手前にアンダーパスがあるのでくぐりましょう。


 アンダーパスの下には「塩津港遺跡」の案内板。この橋を作る際に遺跡が発掘されたそうです。


 昔の塩津はこんな感じだったんですね。塩津は第2の半島と小さな第3の半島の奥にある港町です。


 アンダーパスをくぐれば「塩津浜緑地公園」。ここは琵琶湖の「最深部」「最北端」「突き当り」です。(午後0時39分)


 グーグルマップでは対岸まで直線距離で30kmほどあるでしょうか。水平線の彼方です。


 道の駅に戻りますが一本山手の道に入り集落内を歩きましょう。ここは「大坪川船溜まり跡」。集落の西側を流れていたことから丸子船などを係留する船溜まりとなっていたそうです。


 「蓮如上人上陸御跡地」。琵琶湖は蓮如上人にまつわる話が多いですね。


 先に見える橋を渡れば塩津浜交差点に出るので右折。道の駅に戻り再出発です。ナビを頼りに途中から国道を離れ第3の半島に沿った旧道を走ります。半島に挟まれた大きな入り江はまるで北欧のフィヨルドのようです。行ったことはありませんが。(午後1時2分)


 「飯浦交差点」で国道に戻るので右折しますが、すぐに「賤ヶ岳」への標識に従って旧道に入ります。


 途中レンガ造りの古いトンネルをくぐりますがそこまでは駐車スペースがありませんでした。トンネルを抜けると左が霊園になっており十分な駐車スペースがありましたので車を停めます。「賤ケ嶽隧道」という大正時代にできた古いトンネルだそうです。


 山を抜ければ旧道は田園地帯に出ます。ぐるっと回り「大音交差点」で余呉川に沿った「さざなみ街道」という道を走りますが、駐車ポイントがなかったので写真はありません。そしてさざなみ街道が余呉川と分かれる、こんなところに出れば右に入り「西野放水路」と名を変えた余呉川に沿って進みます。


 狭い土手道を走り2つ目の橋を渡りますが、橋の真ん中から下流方向を見れば何やらトンネルが。これは余呉川の水を琵琶湖に流すため第4の半島をぶち抜いた「西野水道」です。これは現在使われている3代目のトンネルで昭和55年にできたそうです。


 橋を渡り左折。右岸の土手を進めばすぐに駐車場があります。その左手には昭和25年に掘られた2代目のトンネルが見えます。(午後1時29分)


 すぐ前まで行けます。そして人は入れるようですが私は入りません。なぜ?


 駐車場奥には無人の案内所があります。そこにはこんな看板が。地元の人にとっては「オレは今までクマなんか見たことないよ」ってなもんでいい迷惑かもしれませんね。私も自宅の近所でクマなんか見たことはありません。しかし毎年数件の目撃情報があります。彼らとの出合いは常に「偶然」。注意に越したことはありませんね。


 無人案内所の説明を見るとこのトンネルは村を水害から守るため先人たちが苦労をして掘ったものだそうです。奥に1845年に完成したという手掘りの小さな初代トンネルがあるそうです。自由に見学できるそうでヘルメットと電灯、長靴が置かれていました。もちろん私は入りませんが。


 さあ出発です。ここからは渚ドライブ。「湖東」を走ります。


 途中「湖北野鳥センター」というところに立ち寄りました。(午後1時45分)


 地図で見るとおそらくここから対岸までが最も遠いと思われます。グーグルマップで見れば直線距離で40kmを越えるのではないでしょうか。


 ここにはきれいなトイレがありますが「道の駅」と隣接していますのでどちらでも。


 さらに進み「湖北水鳥公園」の駐車場に入ります。(午後2時)


 左右安全確認をしてさざなみ街道を渡れば漁港越しに湖面にこんもりとした森が。琵琶湖には「沖島」「竹生島」「多景島」という3つの島があるそうですが、これは「奥の洲」と呼ばれる「洲」です。冬の渇水期になればビーナスロードのように陸続きになることもあるそうですよ。琵琶湖って色々な顔がありますね。左に見えているのは竹生島です。


 次に立ち寄った所は「奥びわスポーツの森」。内湖を囲んだスポーツ公園です。(午後2時10分)


 駐車場に車を停め、さざなみ街道を渡り湖岸に出てみました。


 「姉川大橋」を渡ればもうすぐゴールです。そうあの「姉川」です。その先にある「産直びわみずべの里」。いわゆる農協(JA)スーパーに立ち寄りました。琵琶湖の東側は姉川や愛知川、野洲川という大きな川が注いでおり広大な平野が広がります。遠くに見えるのは「伊吹山」です。(午後2時19分)


 そして今回最後の立ち寄り先になると思いますが、トイレ・東屋がある湖岸緑地公園の駐車場に車を入れます。(午後2時35分)


 横断歩道でさざなみ街道を渡りしばらく湖畔を歩きましょう。


 今日は天気は良いのですがちょっと霞んでおり、これまで歩いた湖西方面もうっすらとしか見えません。


 この先は長浜市街です。関西では結構有名なホテルや長浜城の天守閣が見えてきました。この辺りで引き返します。


 午後2時40分。今回のゴール「長浜駅(西口)」に到着です。次回はこの駅からスタートです。平日だったので渋滞もなく駐車場はどこもガラガラ。贅沢な一人旅をさせてもらいました。なお今日のコースは本来2日間で歩く計画でしたが、マイカーを使ったので1日で走ってしまいました。よって「琵琶湖一周歩紀」は10回から9回に変更です(すみません)。クマにも遭わず良かったですが、次回からの敵は「熱中症」。ある面クマより怖いですね。


 本日の歩紀「21695歩」(14.75km)。ドライブの割には結構歩きましたね。そして「蘭丸」のトリップメーターは「63.5km」。ふたりで78kmちょっとの旅でした。


 今回はドライブですので一人打ち上げはありません。そして地酒を求め道の駅や農協スーパーにも立ち寄ったのですが、どこも売っていませんでした。ということで手に入れたのは昼食をとった「道の駅あぢかまの里」で買った「長濱浪漫ビール」。3本で税込1749円。


 しかしどうしても地酒を飲みたかったので最後の最後「長浜インター」に入る前に地元スーパーへ。


 ワンカップではありませんが長浜の蔵元「佐藤酒造」さんの特別純米酒「湖濱(300㎖)」(税込550円)をゲット。これも私の大切な趣味なのです。地ビールで乾杯~。そして地酒をチビチビやりながらブログの編集です。
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80年代の韓国歩紀~東大門とポニー

2024-06-03 07:17:23 | 日記
 李氏朝鮮時代の城郭都市であった「漢陽(ハニャン)」の東門である「東大門(トンデムン)」。東大門市場(トンデムンシジャン)というちょっとDEEPな市場と野球場などを備えた大きな運動公園がありました。日本の植民地時代からある大きなスポーツ公園のようでしたが、今ではショッピングモールとして生まれ変わり有名な観光地となっているようです。

 東大門の前を走っているのはタクシーですが「ポニー」と呼ばれた車です。


 当時の韓国では商用車を除けばこの国産車しかなく乗用車はもちろんタクシーもパトカーもすべてこの「ポニー」でした。当時の韓国ではタクシーは「相乗り」が当たり前。運転手は他の客を求めて右へ左へ。行き先が同じ方向であれば突然見知らぬ客が乗ってきました。その他マツダのグランドファミリアをコピーしたちょっとハイグレードな乗用車は「模範(モボム)タクシー」と呼ばれ、相乗りもなく外国人観光客や駐留軍、富裕層たちが利用していたようです。そして韓国入国後しばらくはタクシーの横でじっと突っ立ていることになります。ドアは自分の手で開けることに慣れるまで。ほかの国も同じだと思いますが。

 飲み屋から旅館に帰る時タクシーに乗ったのですが、ちょっと不良っぽい運転手の兄ちゃんから韓国語訛りの英語で「チャパニジュ(Japanese)?」と聞かれたので「ネェ(はい)」と答えました。てっきり「怪しげな場所」にでも連れて行かれるのかなと思いましたが、笑いながらチューインガムをくれました。
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琵琶湖一周歩紀3~「古い町並み」と「風車街道」~

2024-05-26 10:00:31 | 日記
訪問日:令和6年5月25日(土)
出 発:JR「近江高島駅」
到 着:JR「マキノ駅」

 前回は「さざなみ」が打ち寄せる湖岸を歩きながら琵琶湖の大きさを肌で感じました。今回は湖国一の大河「安曇川」の広大な三角州を前半は古い町並みや清らかな湧き水を訪ねながら、後半は「風車街道」と呼ばれる湖畔の道を晩春の心地よい風を受けながら歩こうと思います。県道に沿って歩くので給水・トイレには困りません。


 前回のゴールである「近江高島駅」。今日は列車ダイヤの都合により午前8時20分ちょっと早めの出発です。トイレは改札内です。「出る前に出しましょう」。改札外に観光案内所(レンタサイクル)があります。営業時間は午前9時から午後4時までですがパンフレット等は自由に取れます。「大阪駅」から約1時間40分(1520円)。ここは滋賀県高島市。


 駅前には「ガリバー像」と「時計台」が立ちます。これは高島市の山間部にある「ガリバー青少年旅行村」のシンボルとして建てられたものです。アウトドア系のテーマパークで私も子どもが小さいころ一度訪れました。フィールドアスレチックや雨でも遊べる全天候グランドなどがありましたよ。今はどうなっているのでしょうか。


これからこの小さな城下町を散策します。観光案内とグーグルマップを参考に「手作りマップ」を作りました。


 駅の真ん前にある「高島市民病院」の駐車場を抜ければ小さな神社の裏に出ますが、フェンスで囲まれているので左に曲がり「近江高島駅口交差点」から右に曲がり進んで行きます。そこには「分部神社」の社号標。


 ちょっと寂びれた小さな神社ですが、この地を治めた大溝藩主「分部光信(わけべみつのぶ)」をお祀りする神社です。今日一日の安全を祈願します。


 隣にある老人介護保養施設の入口に今は石碑が残るだけですが「大溝城三の丸跡」。その向こうには「大溝城跡」への案内表示が。入って行きましょう。


 老人介護保養施設裏の草っぱらが「大溝城跡」です。駅前の復元図を見ると天守台がある本丸は南側を除いて内堀で囲まれていたようです。その埋められた内堀が草っぱらになっているんですね。総門や分部神社との位置関係も良くわかりますね。


 草っぱらを左に見ながら内堀の外側であったと思われるコンクリート舗道を進んで行きます。


 かつて内堀であった草っぱらの真ん中に天守台のある石垣が残ります。織田信長の時代に築城され、江戸時代に入り外様大名として分部光信が入城。明治時代まで250年にわたって分部家が治めたそうです。アメリカ合衆国は建国248年でしたっけ。そんな長い間にもかかわらず大きな変化がなかったところに日本文化の深さがあるんでしょうね。


 三の丸跡碑まで戻り右へ。橋の手前から右を覗き込めば何やら背の高い蔵が見えます。城下町の山手にある「日吉神社」の春季例祭として5月3、4日に行われる「大溝祭」では、「巴」「龍」「勇」「湊」「寶」という5基の「曳山」が旧城下町を巡行するそうです。


 これは「湊」組の曳山蔵です。


 橋の手前を左に進めば「大溝漁港」。(午前8時37分)


 漁港はここから琵琶湖に出るのですが、手前の水路は前回訪れた「乙女ヶ池」へと続きます。つまり乙女ヶ池は、ここから琵琶湖に通じているため軍事上の要衝として大溝城の「外堀」的な役割を果たしていました。


 港を右に見ながら進みます。港の奥には「大御舟の万葉歌碑」が建ちます。天皇のお気持ちを「大御心」というように「大御舟」天皇の舟ですね。大津宮から舟遊びに来た天智天皇の一行が詠んだものです。


 元の道に戻ってさらに進めば「長刀町」と刻まれた石碑。これは藩主分部光信が、荒廃した城下町を整備した際に区分けした「町名」を留めるために建てられたものだそうです。特に文化遺産と言いうわけではありませんが町内にいくつか建てられています


 そのまま進み「近江高島駅口交差点」を経て、一旦近江高島駅まで戻りましょう。ローソン前で湖西線のガードをくぐり駐輪場の手前を右に曲がります。湖西線に沿って歩き、突き当りを左に曲がります。少し歩けば左に何やら赤レンガの工作物があり上のパイプからは水が注がれています。(午前8時45分)


 これも分部光信が整備した古代の水道施設で「タチアガリ」と呼ばれるものです。山の湧き水を竹筒で引き込み、この施設で各戸に上水道として配水したそうです。すごいですね。今でも利用されているそうですよ。


 そのまま真っ直ぐ進み、突き当りを右に曲がり、ひとつ目の辻を右へ。つまりUターンするような形でひとつ北側の筋に入ります。100mほどで左にはトタン葺きになっていますが朽ちた茅葺きの建物がありました。


 「笠井家武家屋敷」。元和5(1619)年、分部光信が伊勢国から入封した際、このあたりに武家屋敷が並びました。これは当時の姿をとどめる数少ない建物の一つだそうです。


 目の前に見えるガードで湖西線をくぐり突き当りを左へ。さらに突き当りを右に曲がれば道の真ん中を水路が流れます。ここは後で訪れますのでさらに進みましょう。何やら良い雰囲気の一角に出ました。


 旧家の向かいには「総門」と書かれた古い建物がありました。分部光信入封当時の姿を残す唯一の建造物です。(午前8時53分)


 江戸時代の姿に改修され「大溝まち並み案内処」という観光案内所になっているそうですがまだ営業時間前のようです。奥に公衆トイレがあります。


 先ほどの水路まで戻ります。この一画は「大溝城下町水辺の景観」として保存されており、道の真ん中を水路が流れます。大溝城は戦国時代「織田信長」により築城され、天正6(1578)年、織田信澄が初代城主となりました。その後、江戸の時代に入ってから分部光信が城主となり様々な町づくりが行われたようです。これもその一つです。


 水路に沿って歩きますが、結構家も建て替わっていますね。


 三叉路の先の小さな地蔵尊から先は道が狭くなり水路も暗渠になっています。


 三叉路角には電柱に隠れるように「伊勢町」と刻まれた石柱が建っていました。光信の故郷に因んで命名された町なのでしょうか。この三叉路を右に曲がります。


 突き当りにも水路がありました。一旦、左に曲がります。


 こちら側には結構旧家も残っていますね。


 そして突き当りのように道が狭くなる手前には「総本家喜多品老舗」という古い建物が。江戸時代から続く「鮒ずし」のお店だそうです。振り返って撮影しています。(午前9時)


 ここで折り返し、先ほどの突き当りに戻れば左に「龍」組の曳山蔵。そのまま南に進みます。


 突き当りには「浄土真宗本願寺派勝安寺」の山門。良い雰囲気ですね。ただ結構接近して撮影しています。なぜなら寺院前の橋が市のゴミステーションになっており大きなゴミ箱があるからです。このポールも「無粋」ですね。せっかく「水辺の景観」に指定されているのに……。


 左に曲がれば水路が続きます。


 左側には「小野組総本家跡」。高島市教育委員会の説明文によれば、明治に入り三井財閥と共に活躍した近江商人の屋敷跡だそうです。


 道は突き当るので左へ。すぐ右の「びれっじ」という幕が掛かった旧家の隣には「巴」組の曳山蔵。(午前9時5分)


 この道は「県道300号線」ですが、古い町並みが残ります。


 この旧家は「福井弥平商店」。私の大好きな「造り酒屋」です。


 その隣にはやはり造り酒屋の「萩の露」。


 振り返って山を背景にした方が良い雰囲気ですね。


 その先にある町家風のバス待合所の隣には「寶」組の曳山蔵。地図で見ていただければわかると思いますが、京都丹波高原を水源とする「安曇(あど)川」は広大な扇状地・三角州を形成しています。この辺りから右に入れば「萩の浜」を経て、扇状の三角州に沿って「風車街道」という湖岸の道路が整備されているのですがまだ湖には出ません。真っ直ぐ進みます。


 稲荷社の隣には「勇」組の曳山蔵。これですべての曳山蔵を回りました。この先で「和田打川」を渡れば大溝の城下町ともお別れです。分部光信は大溝の町作りに大きく貢献したのですね。一番最初に分部神社にお参りして正解でした。(午前9時11分)


 広大な水田が開けます。滋賀県は「米どころ」でもあるのです。だから前回立ち寄った道の駅は「米プラザ」だったんですね。


 街道らしい風景はしばらく続きます。

 
 道路中央には融雪用の散水施設。そう琵琶湖は豪雪地帯でもあるのです。


 結構長い距離を歩きます。先ほども渡りましたが、多くの安曇川支流が流れます。そのひとつ「鴨川」を渡ります。結構大きな川ですね。堤防上には「金毘羅燈籠」と藤樹神社への道標がありました。


 結構長い時間歩きます。三角州の広大さが体感できますよ。


 鴨川を越えれば10分ほどでコンビニやスーパーが並ぶ一画に。ここは「安曇川駅前」。給水・トイレポイントです。(午前9時44分)


 さらに20分ほどで「安曇川」を渡ります。2連の鉄橋が並ぶ「安曇川大橋」。さすが湖国一の大河ですね。


 海に注ぐ川と変わらないですね。


 ここで県道は大きく左にカーブします。司馬遼太郎はここから安曇川に沿って上流に向かい「朽木村」を訪ねました。ただ話は日本人のルーツから織田信長に代わります。


 私は右の小さな堤防沿いの道を下流に進みます。ここで「湖西のみち」ともお別れです。(午前10時6分)


 途中で道が二手に分かれるので左へ進みます。そして国道161号線バイパスのアンダーパスが見えれば、その手前を左に曲がりましょう。その先の二又を左へ。センターラインのない狭い道を北へ歩きます。


 何だか商店街っぽい街灯が現れましたが商店はありません。先に見える四つ辻を右折します。


 こんな狭い道でも融雪装置があるんですね。生活道路なのでしょう。


 新旭南小学校の角に出れば左折します。田んぼの間を進みましょう。


 本当に広い平野ですね。内陸部にこんなに広い三角州があるんですね。


 ドジョウでもいるのでしょうか。たくさんの白鷺が。


 鳥居が二つ並ぶ小さな神社を過ぎれば間もなく次の目的地です。


 神社を過ぎて二つ目の四つ辻。正面には「酒蔵見学」の看板。右に曲がりましょう。すぐ左に立派な蔵が。「川島酒造」です。(午前10時35分)


 向かいの駐車場にはきれいな水が湧き出ています。米どころであり水どころ。実は私の郷里は「造り酒屋」でした。村内で消費するだけの少量の酒を造っていたそうですが、良い米が獲れたものの水が悪かったため廃業しました。酒にとって水は「命」です。


 亡父から聞いた話ですが、酒蔵にはヘビ(アオダイショウ)が棲みつくそうですね。酒米を狙う「家ネズミ」を捕食するためです。そしてヘビは古代より「酒の神様」。またネズミを食べてくれることから決して駆除してはならなかったそうです。食卓の下をヘビが這っていたり朝起きれば蚊帳の上でヘビがとぐろを巻いていたこともあったそうですよ。


 先ほどの四つ辻に戻り右へ。横には清らかな水が流れています。その向かいには「生水の郷・釘江」の案内板。


 良い雰囲気の街並みになってきました。


 そして複雑な四つ辻に出れば正面には鳥居。


 清流を渡って、まずは「日吉神社」にお参りです。(午前10時46分)


 神社の前には清らかな流れ。


 ここが「生水の郷・釘江」です。


 橋の横にある駐車場には湧き水。安曇川流域の伏流水でしょうか。この水で酒が造られているんですね。


 その先にある「針江公民館」。隣には水車を復元した公園がありました。


 公民館前の「明光橋」を渡り流れに沿って進みます。


 この燈籠が見えれば左に曲がり清流とはお別れです。


 すぐに国道161号線バイパスに突き当たるので左折。しばらくは左に広大な水田を見ながらバイパスに沿って歩きます。


 写真ではわかりにくいですが、トラクターが土を耕した後の虫を狙っているのでしょうか、トラクターの後ろを白鷺がついて回ります。


 バイパスの出入口を過ぎます。この手前で地図を見ながら歩いていたため危うく7~80cmのアオダイショウを踏みかけました。アオダイショウってあまり人を怖がりませんね。悠然と私の前を横切って行きました。「びっくりしたなぁ」


 バイパス出入口を過ぎこのアンダーパスに出ればくぐりましょう。


 地道を歩きますがすぐに右の車道と合流します。


 その先のきれいに整備された道路が「風車街道」です。歩行者用信号や横断歩道はありませんが、車道用の信号がありますので信号が青になり左右の安全が確認できれば渡りましょう。目の前には琵琶湖。今日初めての琵琶湖です。(午前11時20分)


 北に向かって歩きましょう。青いペイントは「ビワイチサイクリングロード」です。ビワイチは左側通行の自転車が湖岸寄りを走るようにと反時計回りになっています。私は歩行者なので時計周りです。


 途中「水鳥観察小屋」という看板が立っていたので入って見ましたが水鳥たちはいませんでした。隣に「ポットン式」ですが公衆トイレがあります。


 木々に遮られていますが琵琶湖を眺めながら進みましょう。


 湖面には小さな「えり」がありました。矢印のような形がよくわかりますね。


 その先にはログハウス風の「新旭水鳥観察センター」(入館料200円)。季節によれば琵琶湖を訪れる水鳥が見られるそうです。入口の右側に「協力金20円」の有料トイレがあります。そしてこの辺りが三角州の北端です。(午前11時33分)


 そのまま進み小さな川を越えれば右に曲がります。そこはサイクリングロード。右にはポットン式公衆トイレがあります。煙突が立っているのでわかります。


 そして砂浜にせり出した石垣の上には何やら建物が。


 「木津港跡常夜灯」。かつてここには「木津港」という港があり、米や酒が京・大坂に向かって出荷されたそうです。灯台の役目をしていたのでしょうね。夜には点燈されるそうですよ。(午前11時40分)


 そのすぐ後ろには「木津港跡」碑と教育委員会の案内板が立ちます。「木(古)津」と「今津」は「新・旧」の関係だそうです。


 すぐ先には「小浜藩御蔵屋敷跡」の案内板。若狭の「小浜藩」にとって、ここは京・大坂への玄関だったんですね。琵琶湖は重要な水運路でもあります。


 ちょっと歩けば「木津桟橋跡」碑。後ろは多分水平線ですね。緩やかな弧を描いています。地形にもよりますが水平線って4~5kmで見えるらしいですね。


 その先には「竹生島遥拝所跡」碑。竹生島については後ほど説明します。今日は快晴。琵琶湖は本当にきれいですね。


 結構強い北風が吹いています。湖面には白波が立ち岸にぶつかるたび「バシャ~ン」という波音が聞こえます。海のようですが「潮騒」ではありません。


 「波爾布神社御旅所址」碑が見えれば後ろの風車街道に上がりましょう。


 そこは風車街道と県道333号線、県道558号線が交わる「木津交差点」。角には「ちゃんぽん亭総本家今津店」。


 今回ネット情報でこの店を昼食場所と決めていましたが時間もばっちりですね。私の「脳」と「足」と「腹」は一体化しています。ただ行列ができており「30分待ち」でした。


 「近江ちゃんぽん(野菜量中、麺大盛)」(税込1000円)を注文しました。美味しかったですよ。


 食事を終え午後0時45分出発です。風車街道を進めば右に「二ツ石大明神遥拝所」。100mほど沖合に二つの巨石があり渇水期のみ姿を現すそうです。


 「高島浄化センター」という施設を過ぎれば右に入り風車街道と分かれます。今日は晴天で日差しも結構強いですが、天気予報どおり午後になってもさほど気温が上がらず、北風も吹いていることから汗もすーっと引き、本当に爽快な「歩紀日和」です。


 「日枝神社」前を過ぎます。


 小さな川を越えれば右に「竹生島クルーズ」の船乗り場。(午後0時56分)


 竹生島は島全体が「都久夫須麻神社」と「宝厳寺」の境内になっている信仰の島です。琵琶湖に浮かぶ孤島なので景色も抜群です。いくつかの航路があり、ここ「今津港」からだと25分くらいで着くそうですが、残念ながら今回は訪れません。いつか訪れたいと思います(おそらく訪れることになると思います)。


 桟橋横のテラスには「琵琶湖周航の歌記念碑」。
  ♪ 浪のまにまに 漂えば 赤い泊火 なつかしみ 行方定めぬ
         浪枕 今日は今津か 長浜か ♪(3番)
左端に見える竹生島から白い定期船がこちらに向かって来ます。


 船乗り場の西側は「近江今津駅」前です。西に進み「高島警察署前交差点」で右に曲がりましょう。セブンイレブンや飲食店があります。


 しばらく歩けば「高島市民会館」前に「今津東コミュニティセンター」という建物がありました。ここに「琵琶湖周航の歌資料館」(無料)があります。入りましょう。トイレがあります。(午後1時2分)


 「琵琶湖周航の歌」は、旧第三高等学校水上部(現京都大学ボート部)の部員であった小口太郎が、ここ今津で合宿した際に作詞し、当時の流行歌「ひつじぐさ」に合わせて歌ったのが始まりだそうです(高島市ホームページより)。


 見学を終え資料館北側の路地を右に入ります。突き当りの旧家前には「今津桟橋跡地」碑。その奥には現在「今津漁港」があります。


 先に進めば右に古い木造の建物が。「丁子屋旅館」といい川魚料理や鴨鍋などが楽しめるそうです。


 今津は港町であるとともに宿場町でもあります。当時の雰囲気が残っていますね。


 そしてやはり「住吉神社」がありました。住吉神社は「海神」を祀る神社です。


 さらに進めばここにも古い旅館が。「福田屋」といい140年ほどの歴史がある旅館で、インバウンドの影響もあり私などでは到底泊まれない高級料理旅館のようです。


 「福田屋」前の小さな広場には「北浜会館」という町家風の建物があり、その角には「九里半街道起点」の看板がありました。ここ今津から日本海の「小浜」までを結ぶ街道が「九里半(約38km)」であったことからそう呼ばれ、ここが起点だったそうです。この三叉路を左に進みます。(午後1時14分)


 「真宗大谷派法慶寺」前を通ります。


 信号で風車街道を渡れば「ヴォーリズ通り」。すぐ右に何やらレトロな洋館が。「今津ヴォーリズ資料館」です。ヴォーリズとは米国人の著名な建築家で、この建物は彼の設計により大正12(1923)年「第百三十三銀行今津支店」として建てられたそうです。


 町立図書館などを経て現在はカフェを併設する資料館になっており見学もできます。銀行のようにカウンターがありますね。とても寒いからでしょう。大きな暖炉跡も見られます。


 その先には「日本基督教団今津教会」。この建物もヴォーリズの設計により昭和9年に建てられました。


 さらに先には「旧今津郵便局」。これもヴォーリズ設計により昭和11年に建てられました。だから「ヴォーリズ通り」なんですね。これら3つの建物は国の登録有形文化財に登録されています。


 かつてここでは電話交換業務も行われていたそうで、建物の前には「逓信省」「電話」と読める古い石柱が立っていました。「逓信」っていう言葉わかります?今でも役所では「逓送」や「逓伝」という言葉が残っていますよ。韓国語では郵便局のことを「郵逓局(ウチェグッ)」って言います。


 ヴォーリズ通りを風車街道まで戻り左へ。平和堂というスーパーマーケットやセブンイレブンが並ぶ給水・トイレポイントです。(午後1時29分)


 サイクリングロードを進みましょう。写真には写っていませんが結構サイクリストも走っていましたよ。今日は追い風なので走り易かったでしょうね。


 しばらく歩けば左に「浜分沼」という小さな内湖があります。


 その向かいには「今津浜水泳場」。波が沖からではなく風が吹く方向から寄せているのがわかります。(午後1時51分)


 公衆トイレ(水洗)がありました。


 この辺りは「桂浜」というようです。


 結構たくさんの川が流れ込み、そのたびに浜は分断されます。川に突き当たればサイクリングロードに戻らなければならないのですが琵琶湖は淡水湖。特に浜辺を整地していなければ波打ち際まで草が生い茂ります。そして基本的に「池」なのでヘビもいます。ということでしばらくサイクリングロードを歩きます。


 平成の大合併により今では「高島市」になっていますが、かつてこの辺りは「マキノ町」という自治体でした。ここが町境だったんでしょうね。


 しばらく歩くとは松林の中に何やら石碑がありました。ここは「湖西の松林」。日本の白砂青松百選に選ばれているそうです。「白砂青松」って普通は「海」ですよね。(午後2時19分)


 ずっと先まで浜辺が見渡せたのでちょっと歩いてみましょう。


 こんな小さな川であれば歩いて渡れますね。


 琵琶湖は湖側と山側では本当に違った顔を見せますね。


 前回琵琶湖を歩いた時は黄砂の影響でしょうか、視界が悪くあたかも水平線のような光景が広がっていました。今日は空気が澄んでおり対岸まではっきり見えます。かえって琵琶湖の広大さを目で感じることができますね。


 歩いては渡れない川に突き当たったので一旦サイクリングロードに戻ります。(午後2時34分)


 「真宗大谷派光傳寺」というお寺の前を通ります。ずっと融雪装置があります。どれだけの雪が降るのでしょうか。


 お寺を過ぎ2つの川を渡れば右へ曲がります。突き当りには「知内漁港」。手前の空き地には何と「ダットラ」の消防自動車(廃車)が放置されていました。


 あの消防自動車が主であったと思われる知内漁港手前の消防車庫前を左に曲がりましょう。


 松林の向こうにキャンプ場が見えてきました。


 キャンプ場を右に見ながらサイクリングロードを進み、右に「白鷺橋」という吊り橋が見えれば橋で「知内川」を渡りましょう。結構大きな川ですよ。


 橋を渡れば美しい砂浜に出ます。ここからは砂浜を歩きましょう。間もなくゴールです。(午後2時47分)


 ここからは「マキノサニービーチ」と呼ばれ、浜も水もきれいですよ。


 湖岸にはキャンプ場やホテルが並びます。夏のリゾート地です。




 景色も抜群ですね。


 そして浜の突き当りには「マキノサニービーチ湖のテラス」。(午後2時56分)


 方角的に日の出が素晴らしそうです。宿泊客を対象として作られたのでしょうね。


 テラスを背に「アクアパレス通り」という道を進んで行きます。


 そして突き当りが本日のゴール「マキノ駅」。午後3時10分到着です。午後3時47分発の電車に乗ります。なおトイレは駅構内ではなく駅舎の向かって右側にあるので「入る前に出しましょう」。広大な三角州には古い町並みあり。酒蔵あり。レトロ建築物あり。そして美しい琵琶湖。素晴らしいコースでした。


 本日の歩紀「37005歩」(25.16km)。今日も随分歩きましたね。ここから「大阪駅」まで約1時間40分(1980円)。これで「湖西」ともお別れです。次回は「奥琵琶湖」を歩きます。


 今日も途中立ち寄った「川島酒造」で地酒ワンカップを買いました。高槻駅まで約1時間30分の旅ですので途中のコンビニで買ったスルメをアテに純米酒「ぴんぴんころり101歳」(税込310円)でチビチビやりながら帰ります。「松の花原酒」(税込390円)は帰ってからのお楽しみです。


 健康に良かれと思って続けている「歩紀」ですが、結構足腰に負担をかけているのでしょうね。しかしぴんぴんころりのこんな言葉に励まされて頑張ろうと思います。


 電車内で一杯ひっかけましたが今日もキンキンの生中で乾杯~。この後「お造り天ぷらセット」(税込1200円)で夕食です。冷たいビールが美味しい季節になりましたね。
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また変な「夢」を見ました

2024-05-20 18:34:33 | 日記
 「高校編」でも「職場編」でも「鉄道編」でもありません。あえて言えば「さ迷い編」です。どこの町でしょうか?割と大きな町です。夢に出てきた消防車に「東京消防庁」と書かれていたような気がするので、もしかすれば東京のどこかの町なのでしょうか。

 なぜか私は小さなホテルに泊まっています。そこにはその町の広報誌が置かれており、今日はいわゆる「市民まつり」が開催されているようです。写真にはフワフワというのでしょうか。空気で膨らませる大きなテントの中で子どもたちが楽しいそうに遊んでいます。

 お祭り会場に行くためホテルを出たところ、なぜかホテルの庭には昔飼っていたゴールデンレトリバーがいました。亡くなってからもう15年くらい経ちます。「あっモモ」と声をかけると駆け寄って来たので、ひとしきり遊んだ後、ひとりで祭り会場に向かいます。


 かなり歩くと大きな駅前に出ました。緑の多い美しい町です。デパートやショッピングモールが並んでいますが、行ったことも見たこともない駅です。ところが進んで行くと急に景色が変わりました。右側には川でしょうか水路でしょうか、草がぼうぼうと生えた土手になっています。間には柵があったのですが、何とその柵は「墓石」でできていました。そして「ドポーン」という大きな音がしたので目をやると大きな「ヌートリア」が泳いでいます。

 道を間違えたと思い元に戻ると大きなカーブになっており、向こうの方に祭り会場が見えます。間違えてこのカーブを曲がってしまったようです。

 祭り会場に着くと、そこにはフワフワや屋台、それと子どもたち相手に展示している消防車が停まっていました。しかしお客さんはひとりもいません。まるで雨でも降っているかのように閑散としています。

 突然、消防車が「今から展示訓練をします」みたいなことを言って、火のついたドラム缶に向かって放水し始めました。私は「役所というところは見物人がいなくても決められたことはやらなきゃいけないんだな」と思いながらそれを見ています。

 そしてホテルに戻りました。何故かそこには妻と娘夫婦がいました。そして妻が「大阪に帰るので車を取ってきて」と言います。私は「車はどこやった?」と聞くと「ホテルに駐車場がないので駅前のコインパーキングに停めたでしょ」と言われました。私は「またあの駅まで歩くのか」と思ったところで目が覚めました。そんな夢だったと思います。変な夢でしょ。目覚めは悪かったです。
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指に「腫れ物」ができました

2024-05-13 12:39:25 | 日記
 新年早々、左手の中指に何か「腫れ物」ができました。ワンちゃんやニャンコの肉球のような感じで力を加えると何か痛いです。

 正月が明け1月9日(火)、とりあえず近所の皮膚科に行きました。お医者さんから「水ぶくれやイボの類いであれば皮膚の上に出るのが普通。皮膚の下にできているので大きな病院の形成外科で検査を受けてください。ガングリオンという病気かも知れんません」と言われました。今の時代ですのでネットで調べると、決して悪い腫れ物ではありませんがゼリー状のものが溜まる病気のようです。お医者さんの紹介状を持って1月11日(木)、市立病院に行きました。「形成外科」で申し込んだのですが何故かお医者さんは「皮膚科」のお医者さんです。大きな病院は仕方がないのですが、問診と触診だけを受け2週間後の1月22日(月)に「MRI検査」を受けることになり予約をします。


 1月22日(月)、MRI検査を受けた後、通常であれば次の診察を予約するのですが大きな病院にしては素早い対応で、そのすぐあと診察を受けました。その場でエコー検査を受け、お医者さん曰く「血流がないので腫れ物ではないですね」「血腫(血だまり)でしょうか」「ガングリオンかな?まあ麻酔の注射も痛いから……」「ちょっと痛いですよ」「結構痛いですよ」「かなり痛いですよ」と言いながらいきなり腫れ物に注射針を刺し血を抜かれました。注射器の中にジュルジュルと血が吸い込まれ、その後お医者さんが指で押して血を抜き包帯をグルグルと巻かれました。普通注射を打つ時でも消毒をするのですが消毒もなくいきなり注射針を刺されました。「ちょっと」「結構」「かなり」痛かったです。


 帰りの車内で撮った写真です。


 この後、包帯をほどいて出血がなければ洗面も風呂もOKということでした。注射針の痕はありますが出血はなかったので、次の診察日である2月5日(月)まで通常の生活です。


 2月5日(月)、結構注射針の痕は残っており腫れは引かず押せば痛いのですが、お医者さんが「今日も血を抜いてもいいのですが、たぶん腫れは引きますから1ヵ月様子を見ましょう」といって血は抜かず3月4日(月)の予約をして帰りました。


 だいぶ腫れも引き注射痕も消え、まだ肉球のような「コロコロ感」はありますが痛みも治まってきました。2月18日(日)の写真です。
 

 今日(3月4日)は診察日です。朝の様子です。ほぼ腫れは引き痛みもありません。ただ「コロコロ感」は依然あります。


 問診の後、エコー検査を受けました。皮膚の下に小さな白い部分が見えましたが、それが腫れだそうです。お医者さんは「何かわかりませんが、ガングリオンではありません」とおっしゃっていました。いづれにしても「悪い腫れ物」とは判断していないので、2か月後まで様子を見て腫れがなくなっていれば「それでよし」。腫れが残っていれば切ってみましょうか。おそらく切っても原因や正体はわからないと思いますが悪い物ではないということが確認できます。とのことです。5月13日(月)の予約をして帰りました。

 5月12日(日)の状況です。もう見た目は変わらず痛みもありませんが、触れば「コロコロ感」は残ります。先日たまたま別件で友人と連絡を取ったところ、彼は右手中指の傷口からばい菌が入り指の根元から切断したそうです。明日は診断日です。どうなることでしょう。


 先ほど診察が終わりました。取りあえず大きくなっておらず痛みもないことから、これで終わりです。原因は詳しくはわかりませんが、何か大きな力が加わり、内出血して血腫ができたのではとのことです。何だったんでしょう?

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元同僚のお墓参りに行ってきました

2024-05-11 16:40:39 | 日記
 神戸市東灘区にある同じ職場で2年間過ごした元同僚のお墓に、かつての同期と4人でお参りしてきました。

 墓誌を見ると平成7年9月に亡くなっていました。もう30年近くになるんですね。40歳前の若さで亡くなりました。妻子を残して胃がんで。

 平成7年9月といえば、まだ神戸市内には震災の爪痕が残り、葬儀もガード下のブルーシートを張った式場で行われました。まるで朝ドラで見る終戦直後の東京のような光景です。余計に無念でなりませんでした。

 墓参りの帰り、久しぶりに会った同僚と焼肉で昼飲みです。みんな退職したジジイです。


 「岩ちゃん、酒の肴にしてゴメンね。」けど皆、涙涙です。「あんなことがあったな」「そうそう」と大笑いしながら。みんな拳で涙を拭っていましたよ。
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80年代の韓国歩紀~地下鉄とタップコル公園

2024-05-06 00:09:57 | 日記
 当時1万円を両替すると約6万ウォンになりました。空港で5万円を両替したところ5000ウォン札や1000ウォン札が混じり、札入れが折り曲げられなかったのを覚えています。そして「ウォン」はそのまま「円」の感覚。つまり1万円を両替した6万ウォンが6万円の感覚で使えました。往復の飛行機代を含め1週間の滞在で15万円くらいだったと思います。

 韓国の地下鉄(チハチョル)に乗った時の乗車券です。「地下鉄乗車券 東大門 ➡ 清涼里 ソウル駅前 華陽 運賃110ウォン 発売当日限有効・途中下車前途無効」と書かれています。日本とまったく同じ表現ですね。当時韓国の地下鉄では突然車内に物売り(行商人)が現われ独特の口上で一席ぶった後、ベルトやネクタイなどの日常品を販売し始めました。他の乗客はまったく気にも留めない様子です。


 地下鉄で行った先は「タップコル公園」で「パゴダ公園」とも呼ばれていました。タップコルとは仏教の宗教施設(仏塔)です。後ろの塔(国宝)も現在では東照宮金色堂のように「ガラスケース」に収められているようですね。ただタップコル公園は韓国人にとって特別な意味合いがあります。日本植民地時代の大正8(1919)年3月1日、ここで日本からの独立を求め宗教家、民衆らが蜂起し、その日を記念して「3.1運動(サミルウンドン)」と呼ばれている独立運動の聖地とされているのです。ただ私が韓国を訪れた初日である8月15日は韓国にとっては日本の植民地支配から解放された記念すべき日で祝日でもあるのですが、町中で反日集会を見ることはありませんでしたし、日本人である私が特に冷遇されるということもありませんでした。当時は全斗煥政権です。
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80年代の韓国歩紀~ソウル駅

2024-04-29 00:46:29 | 日記
 韓国の首都ソウルの玄関口である「ソウル駅」です。韓国の地名は原則すべて漢字に変換できるのですが「ソウル」だけは韓国語で「都」「首都」を表す固有語であり漢字はありません。日本の植民地時代、韓国の首都であった「漢城(ハンソン)」は「京城(けいじょう=キョンソン)」と改称され、大正14(1925)年9月「京城駅」として竣工されたそうです。


 その後、昭和25年に勃発した朝鮮戦争により損傷したものの改修され、長らくソウル駅舎として利用されてきました。現在では駅としての役目は終え、日本植民地支配の象徴として韓国の史跡に指定されており、さまざまな文化イベント等に利用されているそうです。当時の日本では「東京駅」に次ぐ規模だったそうですよ。
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琵琶湖一周歩紀2~「楽浪(さざなみ)の志賀」を歩く~

2024-04-21 02:36:08 | 日記
訪問日:令和6年4月20日(土)
出 発:JR「堅田駅」
到 着:JR「近江高島駅」

 今回もほぼ「街道をゆく」第一巻「湖西のみち」に沿って歩きます。第一回でも述べたようにこの辺りは「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれ、司馬遼太郎はここに古代朝鮮半島へと繋がる日本人のルーツを見いだしているようです。湖岸沿いの道を歩きますが、時にはアスファルト道路から離れ砂浜も歩きたいと思います。ところどころ自販機があるので給水には困りませんが、トイレ・食事はマップ情報を確かめながら歩きましょう。


 前回のゴールであるJR「堅田駅」を背に午前8時43分、今日も元気に出発です。駅構内のほか駅前広場にもトイレがあります。JR「大阪駅」から約50分(1170円)で着きますが、私は今日も阪急電車に乗り「高槻駅」経由で来ました。ただ、この乗り換え結構ハードです。「超高速歩紀」の私ですが、ホームに着くと同時に電車が入ってきました。


 「堅田駅前交差点」を左折。500mほど歩いて「今堅田交差点」を右折し「堅田郵便局」前を進みます。


 この道は「中部北陸自然歩道」って言うんだ。


 しばらく進めば前回歩いた「堅田内湖」の北端が右に見えてきます。


 信号を越え、次の四つ辻を左に入れば鳥居が見えます。「伊豆神田神社」で今日一日の安全を祈願しましょう。


 神社を左に見ながら真っ直ぐ進み小さな橋を渡れば二又に出ます。「この先通れません」と書かれていますが歩行者は大丈夫です。右へ入りアンダーパスで前方に見える「琵琶湖大橋」をくぐりましょう。


 琵琶湖大橋をくぐれば道の駅「びわ湖大橋米プラザ」の駐車場。午前9時からオープンしていました。入ってみましょう。(午前9時3分)


 「道の駅」の裏側は琵琶湖に面しています。2階は展望デッキのようになっていました。琵琶湖大橋は後日歩いて渡ることになるので今日はスルーします。


 「道の駅」前のロータリーを過ぎ、EV充電スタンドのある第2駐車場の奥から外に出ることができます。そのまま進み「真野川」に突き当り、左に見える橋で真野川を渡れば正面に「真野浜水泳場」。琵琶湖は海ではないので海水浴場とは言わず「水泳場」と呼びます。


 しばらく砂浜を歩いてみましょう。この後、奥琵琶湖まで40数kmにわたって「さざなみ」が打ち寄せる海岸いや「湖岸」が延々と続きます。時々、湖岸を離れて集落や県道に沿って風景を変えながら歩こうと思います。


 フェンスに突き当たり道に戻って進んで行けば右に小さな「船溜まり」が。


 突き当りを左に曲がり集落を抜ければ「県道558号線」に出るので右へ進みます。しばらくすればファミマやスーパーマーケットなどの間を抜けます。私はあえて砂浜や集落を歩くので、ここが前半最後の給水・トイレポイントです。(午前9時36分)


 県道は「小野駅」の裏を通ります。


「小野交差点」を真っ直ぐ進み、ソーラー発電所やボート置き場を過ぎれば右に脇道が見えてくるので入ります。


 水田の間を抜けて行けば小さな地蔵堂が。後ろの比良山系には何という気象現象でしょうか、麓に白い「筋雲」が走っています。


 集落を抜けます。良い雰囲気ですね。


 そのまま進めば左に「下今宿公民館」。


 その先で「和邇(わに)川」を小さな橋で渡ります。堤防の小さな四つ角を過ぎ、次の三叉路を右へ。そのまま進めば「和邇浜水泳場」に出ます。(午前10時10分)


 一番湖岸寄りの小さな道を北に進み、道なりに直角にカーブすれば小さな四つ辻に出るので右へ。和邇の集落を歩きます。


 さらに直角にカーブするので道なりに進み、すぐ先の三叉路を右に入りましょう。お寺や神社の間を抜けて行きます。


 田んぼや集落の間を進み、右に琵琶湖が見えてくればこんな案内板がありました。古老の話によると明治時代に大きな水害があったんですね。


 堰堤として造られた石垣が残っています。


 その先に「地蔵堂」がある三叉路が見えてきました。このまま真っ直ぐ進むと県道558号線と合流するのですが、どうしても必要であればこの三叉路を左折すると5分ほどで県道沿いに「平和堂」という大きなスーパーがあります。


 私はスーパーに用事がないので、琵琶湖を右に見ながら真っ直ぐ進みます。


「中浜交差点」で県道と合流する手前に右へ入る小さなカーブがあるので入って行きましょう。「和邇漁港」という小さな船溜まりがあります。


 和邇漁港を過ぎてゲートボール場の先を右に入り、車止めを過ぎれば右にベンチが見えます。「そのベンチ」というそうです。後日「あのベンチ」を訪れます。(午前10時32分)


 その先で小さな川を渡れば右に砂浜が。「和邇浜」です。


 ちょっと進み地図を頼りに三叉路で左折。「北浜交差点」の押しボタン式信号で県道558号線を渡ります。細い道を抜ければ角に立派なお堂が。「千手院」というそうです。


 お堂の先を右に曲がり、しばらく田んぼを左に見ながら進みます。遠くには「比良連山」。


 突き当りを鋭角に右折すれば「天台宗真光寺」前で県道558号線と合流するので左へ。しばらく県道に沿って歩きます。


 右にはヨットのマストが林立します。私が小さいころの記憶では、小型の水上飛行機が並んでいたと思うのですが。かつては湖上を滑走路として水上飛行機による遊覧飛行ができました。


 JR湖西線のガードをくぐれば左に「八所神社」。その前の「南船路交差点」を右に曲がり再度ガードをくぐります。(午前10時59分)


 なお、すぐ先には「蓬莱駅」があり、改札の外にトイレがあります。必要な方はどうぞ。私はそのまま右に曲がり琵琶湖に突き当たって左へ。そこには「白髭大明神」と刻まれた常夜灯風の道標がありました。「白髭神社」への道標でいくつか残っているそうです。側面の刻字を見ると天保7(1836)年に建てられたようです。


 琵琶湖を歩いていると時々沖合にこんなものが見られます。これは魚が障害物にぶつかると、それに沿って進むという習性を利用した「えり」と呼ばれる琵琶湖独特の漁法だそうです。


 帰路。高台を走る湖西線の車窓からは、沖に向かって「矢印(→)」のように延びる全景が望めますよ。


 ♪ 海は広いな 大きいな… ♪


 ここは砂浜ではなくゴロタ石ですが、結構水はきれいですよ。


 小さな川を渡れば「県営都市公園木戸湖岸緑地」。公衆トイレがあります。


 そのまま進めば湖西線のガードと合流。ガードに沿って進めば「志賀駅」です。ガードをくぐった駅前駐車場に公衆トイレがあります。もちろん自動販売機もありますよ。(午前11時35分)


 湖岸に戻ります。「そうですね。」


 ここは「松の浦水泳場」です。


 少し景色を変えましょう。この狭い路地を入ります。


 正面に湖西線のガードが見えるので突き当たって右折。次のガード下を左折して山に向かって歩きます。


 突き当りは県道558号線。「ローソン」があります。ここを右へ。当分、県道に沿って歩きましょう。(午前11時47分)


 ちょっと違う雰囲気が味わえます。琵琶湖があるので何だか海辺に広がる平野のように感じますが、滋賀県は日本のど真ん中にある「内陸部」です。


 途中「荒川」という交差点の角には「蓮如上人御旧跡」の碑。側面には「西へ百五十米」と彫られているので新しい物でしょうか。だって「米(メートル)法」で表示されていますから。


 さらに10分ほど歩けば、ここにも「白髭大明神」と刻まれた常夜灯風の道標。半分地面に埋まっていますが「左 是より三里・・」と読めます。あと12kmあるのか。


 これも天保7年に立てられたようです。


 右の側道には進まずまっすぐ県道を歩きます。3~4分歩けば「大物交差点」角の旧家脇に髭文字で「南無妙法蓮華経」と彫られた小さな題目石碑。


 県道からはこんな感じで琵琶湖が望めます。


 さらに県道を歩き特に標識はありませんが、この交差点に出れば右へ曲がります。(午後0時7分)


 琵琶湖一周はどうしても湖岸に沿って進みますが、山から湖に向かって歩けば比良山系から流れる湧き水で潤わされた水田が広がります。


 また民家の軒先には比良山系からの恵みの水が流れます。


 生活用水として利用していたのでしょうか、小さな石段が組まれています。


 集落を抜け保育園を過ぎれば「南比良農村広場」というグランドがありました。「時間は」。グランドにはトイレと水飲み場(手洗い)、ベンチがあったので、ここで昼食としましょう。


 琵琶湖は日本有数の観光地なのですが、やはりシーズンは「夏」。ネットで検索しても適当な飲食店情報がなかったので、最初に立ち寄った道の駅で「いなり三昧」(税込470円)を買っておきました。


 雄大な比良山を眺めながらの食事です。


 午後0時30分、食事を終え正面に見える湖西線のガードをくぐり湖岸に戻りましょう。突き当りまで行くと道が終わりますので、手前を左に曲がり「真宗大谷派本立寺」というお寺の前を通り過ぎます。


 道なりにカーブすれば琵琶湖に突き当たるので左へ。湖岸を歩きます。


 道と湖岸との間にある空き地は、ほとんどが地区の共有財産や国・自治体の管理地になっているようですが、一部は私有地やプライベートビーチになっているので、そういう場所には入らないようにしましょう。


 そのまま進めば右に鳥居が立ちます。ここもプライベートビーチのようです。


 鳥居の向かいには「天満宮御旅所」の石柱が立つ立派なお堂が建ちます。(午後0時43分)


 御旅所を左に見ながら集落に進んで行きます。広場(公園?)を過ぎれば左に「浄土真宗福田寺」というお寺が見えるので入って見ます。


 福田寺の境内には「北比良城址」の碑がありました。天正年間の小さな城址のようですが詳細はわからないそうです。


 元の道に戻り「浄土真宗西福寺」を左に見ながら進みます。


 良い雰囲気ですね。


 さらに進み突き当たれば右へ。琵琶湖に突き当たれば左へ。集落を抜ければ琵琶湖に出るので湖岸を歩きます。


 前回歩いた琵琶湖大橋から南の「南湖」は琵琶湖全体の約10%。あとの90%は「北湖」です。やっぱり「北湖」は広いな。


 道なりに進めば湖岸の道は県道と並走し、小さな川を越えたところ辺りからモーターボートの係留(陸揚)施設などが並び観光地らしくなってきました。


 そしてその先には広い松林が。ここは「近江舞子」という湖西でも有数の観光地です。ただ今はひっそりとしています。


 西側には「近江舞子内湖」という大きな内湖が。駐車場には公衆トイレがあります。(午後1時6分)


 砂浜を歩いてみましょう。


 夏には砂浜にビーチパラソルや「海(湖)の家」が並び、まさに「海水浴場」のような風景が広がります。


 内湖と琵琶湖を隔てるように延びる「洲」には松林が続き、宿泊施設やカフェなどが並びますが、やはり閉まっています。ほとんどの店がゴールデンウィーク以降から営業するようです。


 「雄松崎湖岸」と言うんですね。


 砂浜を抜け「南小松港」という船溜まりの先に見える湖西線のガードをくぐりましょう。


ガードの手前を右に曲がれば「近江舞子駅」。大阪でJRに乗っていると時々「近江舞子」行きの電車が走っていますが、寝過ごすとここまで連れて来られるんだな。「危ねえ!」ただ今日乗ってきた電車は「敦賀行き」だったな。(午後1時20分)


 駅を過ぎてすぐ右に曲がります。湖岸に出て右を眺めれば「雄松崎」。琵琶湖周航の歌にも出てきます。


 そして左に建つ「ホテル琵琶レイクオーツカ」というホテルの前に琵琶湖周航の歌「2番」の歌碑があります。
  ♪ 松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 赤い椿の
       森陰に はかない恋に 泣くとかや ♪(2番)


 そのすぐ先のペンション前には「月見浜」の碑。月がきれいなのでしょうか。


 道なりに進み湖西線ガードに突き当たれば右へ。しばらくは湖西線に沿って歩きます。角に公衆トイレがありました。


 湖西線と分かれ道は右へカーブします。青いペイントは「ビワイチ」サイクリングロードです。


 10分ほど歩けば橋で川を渡りすぐ右へ。管理事務所を過ぎれば琵琶湖に突き当たるので左に曲がります。事務所横には公衆トイレがあります。


 この砂浜は「北小松水泳場」です。(午後1時43分)


 何か楽しそうだな。


 キャンプもしているようです。


 左の駐在所を過ぎ、湖岸を歩きます。


 あれは「水平線」か。今日は天気は良いのですが、ちょっと霞が出ており見通しが悪いようですね。ただ、南北に長い琵琶湖は十分に水平線が見える大きさです。


 湖岸の道は自然と「北小松」の集落に入ります。


 「近江湖の辺の道」という案内標識があれば右へ。


 集落を抜けて行きます。比良山系から流れ出る水路がいくつか見られます。


 ここも良い雰囲気ですね。


 やがて小さな漁港に出ました。「北小松漁港」です。(午後1時55分)


 司馬遼太郎は「小松」は「高麗津」が転じたものと述べています。百済滅亡後、同盟国であった天智政権の都である近江の奥地に「百済亡命政権」が存在したのでしょうか。


 北小松漁港を過ぎれば大きな道と合流します。この道は国道161号線。「琵琶湖西縦貫道路」と呼ばれています。横断歩道を渡って右に曲がりましょう。結構交通量は多いですよ(写真は横断してから撮影しています)。


 しばらく歩けば左に「岩除地蔵尊」。比良山系が琵琶湖にせり出すこの付近では、かつて落石が多かったことから建てられたそうです。


 右には琵琶湖が広がります。まるで伊豆か南紀の海岸線を歩いているような錯覚に陥りますね。


 「高島市」に入りました。ここまでずっと「大津市」だったんですね。もう結構な距離を歩いていますよ。(午後2時19分)


 左に農産物の直売所が見えてくれば国道の向こう側に髭文字の題目石塔が。その左にある小さな社は「白髭神社御旅所」のようです。


 左に蕎麦屋やカフェ、セブンイレブン、ガソリンスタンドなどが見えてました。そして湖面には「鳥居」も。


 「白髭神社」に到着です。神社のホームページによると2000年ほど前「垂仁天皇」の時代に創建されたという近江最古の大社だそうです。(午後2時40分)


 御祭神は天孫「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」が降臨された際に先頭を務めた「猿田彦命(サルタヒコノミコト)」で「導き・道開き」の神として知られています。「琵琶湖一周歩紀」の無事を祈ってお参りします。本殿は国の重要文化財に指定されています。


 境内には「芭蕉句碑」や「紫式部歌碑」などが建ちます。景色が素晴らしい所なんでしょうね。


 そして何よりも有名なのが「湖中大鳥居」です。「安芸の宮島」のように琵琶湖上に朱色の大鳥居が立ちます。室町、江戸時代の屏風や絵巻にも描かれているらしいですが、この大鳥居自体は昭和12年に寄進されたものを昭和56年改修したものだそうですよ。


 以前は国道を渡って湖岸に下り大鳥居を眺められましたが、国道の交通量は多く死亡事故も発生したことから現在は横断禁止になっています。マナーを守りましょう(この写真は昭和58年に訪れた時のものです。もう面影がないうえサングラスをかけているので画像処理はしていません。ピンボケだし)。


 その代わり境内には「藍湖白鬚台」という展望台が設けられているので、そこから眺めましょう。大鳥居越しの日の出が美しいそうです。司馬遼太郎は「白髭=新羅」と読んでいるようです。「新羅・高句麗・百済」朝鮮半島での三国時代ですが、当時の日本にも影響があったのは事実でしょうね。


 参拝を終え午後2時49分出発。山塊が琵琶湖に沈み込んでいます。国道に入ってからずっと自衛隊の車両が南へ走って行きます。最終的には50台以上とすれ違ったでしょうか。土曜日なのにご苦労様です。


 ゴールが見えてきました。変わった救急車ですね。


琵琶湖にせり出した山塊をぐるっと回ると脇道が見えてきます。「勝野交番」という標識に従って脇道に入ります。自衛隊まだ走っています。


 「乙女ヶ池」への案内板を過ぎれば左に「日吉神社」。今日最後の神社です。参拝しましょう。


 参拝を終え石段を下ります。鳥居方向には行かず左に曲がります。「真宗大谷派最勝寺」というお寺の裏に真っ直ぐな道が見えてきました。


 やがて三叉路に出ますが、ここは滋賀県(近江)から福井県(若狭)を結ぶ計画で滋賀県側の鉄道が開通した後、湖西線建設決定などにより昭和44年廃線となった「江若(こうじゃく)鉄道」の築堤跡です。向こうに湖西線が見えます。(午後3時11分)


 築堤跡前の三叉路を右へ。集落に入ります。良い感じです。


 集落を抜ければ突き当りを左へ。国道の1つ内側の道を進みます。国道には自衛隊のトラックが走っていました。


 2~3分で左の児童公園内に小さなお社が。「日吉神社御旅所」です。左側の道を進みましょう。


 御旅所を抜けると、そこには「乙女ヶ池」と書かれた橋が。


 池の上には回廊が架けられいるので渡りましょう。ここは琵琶湖の内湖のひとつ「乙女ヶ池」です。


 橋を渡って右に進めば「万葉歌碑」が立ちます。他にもいくつか万葉歌碑が残るそうです。ここも景色が良かったのでしょうね。


 実は今日、道の駅で「近江牛弁当」を買いたかったのですが、開店直後に入店したためまだ配達されていませんでした。その代わり「近江牛焼カレーパン」(税込350円)を買いました。湖畔の石段に腰かけて食べます。


 そのまま池の畔を進めば「高島市民病院」に突き当たるので左に回り、湖西線に沿って進めば本日のゴールであるJR「近江高島駅」。駅前ロータリーには大きな「ガリバー像」と「時計台」が立ちます。午後3時37分到着。ここから大阪駅まで約1時間10分(1520円)です。


 本日の歩紀「42502歩」(28.90km)。結構な距離を歩きましたが、湖岸沿いの道をほぼ直線的に歩いたので歩速が進み、何とか時間内にゴールできました。ただ、絶対マネしないでくださいね。普通の歩速では無理です。ここは「大溝城」の城下町。次回はこの小さな城下町からスタートです。


 今日も自宅近くの「かめたに」でひとり打ち上げ。キンキンの生中(税込580円)で「乾杯~」。その後は「おすすめ洋定食」(税込1500円)で夕食です。町から送られてきたお買い物クーポンの利用期限が4月末まででしたので1000円分使いました。


 道の駅で弁当とカレーパンを買ったついでに大津の地酒「平井酒造」のワンカップ純米酒「浅茅生(アサヂオ)」(税込370円)を買い、チビチビやりながらブログの編集です。
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80年代の韓国歩紀~「大韓航空機」でいざ出発

2024-04-15 06:56:40 | 日記
 私は以前「放送大学キャンパスライフ」で韓国語を勉強したという話をしました。時期的には80年代半ばの2年間です。その頃、韓国語修行と観光を兼ねて1週間「韓国ひとり旅」をしました。行程はソウル4日間、釜山3日間です。当時の写真を数枚ずつアップしながら「歩紀」の合間につぶやいていきたいと思います。

 かつての日本が第1回東京オリンピック(昭和39年)を境に高度成長していったように、韓国も昭和63(1988)年に開催された「88(パルパル)オリンピック」と呼ばれる「ソウルオリンピック」を契機に飛躍的に発展しました。つまり40年以上前の韓国というよりもオリンピック前の韓国という観点でご覧になっていたただければ見方も違ってくると思います。

 なお写真は当時私が撮影したものを画像取り込みしました。また文中の情勢は当時のものであり、私見がほとんどですので勘違いや間違いがあるかも知れません。また4回の渡航歴の記憶がごちゃ混ぜになっているかも知れません。ご容赦ください。そして気楽にご覧ください。

 韓流ブームはもちろんオリンピックもワールドカップもなく、韓国旅行といえばいわゆる「妓生(キーセン)旅行」と呼ばれる怪しげなツアーしかなかった時代。ビザ申請(当時は査免国ではありませんでした)から航空券の手配、入国審査に必要だったので入国初日の宿泊先予約など渡航手続きはすべて自分でしました。

 当時韓国に航空会社は「大韓航空」1社しかありませんでした。「KOREAN AIR LINES」通称「KAL」721便で韓国の金浦(キムポ)国際空港に向け大阪国際空港を定刻出発です。なお当時の面影はもうありませんが一応「肖像」ですので画像処理させていただきました。


 半官半民のような会社で「都市伝説」風に韓国のパイロットは大韓航空に就職する前、空軍パイロットとして兵役に服さなければならないのでやたら腕が良く、少々の悪天候や不整備の滑走路でも離着陸すると言われていました。

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