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【滋賀・近江の先人第105回】上方喜劇のスター脚本家・花登 筺(大津市)

2020-05-10 06:00:00 | 滋賀・近江の先人

花登 筺(はなと こばこ)、 1928年(昭和3年) - 1983年(昭和58年)は、滋賀県大津市出身の小説家、脚本家。本名は、花登 善之助(はなと ぜんのすけ)。



ヒストリー
昭和30年代の上方喜劇ブームの立役者であり、また、テレビ草創期におけるスター脚本家であった。高度経済成長期には、大阪の商人を主人公とした商魂物・根性物を多数執筆した。
移動する新幹線の車内でも原稿用紙に向かい、「カミカゼ作家」「新幹線作家」の異名も取った。最盛期における執筆ペースは月に原稿用紙2000~3000枚、生涯に書いた脚本の数は6000本を超えると言われる。また、劇団喜劇の主幹でもあった。

主な作品に、『やりくりアパート』、『番頭はんと丁稚どん』、『船場』、『道頓堀』、『細うで繁盛記』(『銭の花』)、『ぼてじゃこ物語』、『アパッチ野球軍』(アニメ)、『どてらい男』、『おからの華』、『あかんたれ』、『鮎のうた』、『ぬかるみの女』、『女商一代 やらいでか!』などがある。人気作品の多くは、人間の成長過程を描いた物でもある。

生涯3度の結婚歴がある。最初の妻は武智鉄二の義妹、2人目の妻は元・宝塚歌劇団娘役で女優の由美あづさ、最後の妻が女優の星由里子だった。

麻雀もプロ級の実力で、日本プロ麻雀連盟の設立に尽力した。
俳優の大和田獏に「獏」という芸名を与えた名付け親でもある。
藤本義一と不仲と噂されたが、これは週刊誌の嘘であると藤本自身の著書で書かれている。あるパーティーの席で、その噂が流れていると知った二人は、その後のパーティーで会話をせずに不仲を装い、後で他の客の反応を電話で話すという噂を逆手に取ったイタズラをしていたという。

来歴
1928年(昭和3年)、滋賀県大津市北国町に、旧姓名・川崎善之助として、近江商人の表具商の家に生まれる。花登家へ嫁いだ姉・八重の養子となり、花登姓に改めた。

1947年(昭和22年)、北国町青年団の一員として演劇活動を始める。

1948年(昭和23年)、大津で「自主劇団 人間座」の結成に参加。その後「文芸座」を設立、地元の芝居小屋や大津市中央公民館などで文芸作品を上演する。

大津商業を経て、1951年(昭和26年)23歳、同志社大学商学部卒業。
大阪の綿糸問屋に勤務するも肺結核により翌年退社し、一時重体に陥るも回復。
作家を目指しラジオ局へラジオドラマの脚本を持ちこむ中で採用され、フリーの脚本家となる。

1954年(昭和29年)26歳、東宝と契約してラジオの台本作家、ミュージックホールの構成・演出を手がける。

1958年(昭和33年)30歳、大阪テレビ放送(のちに朝日放送と合併し消滅)の『やりくりアパート』で、脚本家としてデビュー。

同1958年に劇団「波の会」を創設。

1959年(昭和34年)31歳、『やりくりアパート』にレギュラー出演していた子役・中山千夏を東京の舞台公演へ出演させたい、とする東宝側の要請を花登が固辞したことから関係が悪化し東宝から独立。
松竹の支援で『劇団・笑いの王国』を設立する。
当時、花登の下で人気を博していた大村崑・芦屋雁之助・芦屋小雁らが追随するが、同じ花登グループだった佐々十郎・茶川一郎らは東宝からの慰留もあり残留、グループが分裂する結果となった。

1963年(昭和38年)35歳、劇団内では「人気の崑、実力の雁之助」という図式の下、2枚看板が成立していた。
雁之助は主演舞台を評価されながらも2番手に甘んじている事など自身の処遇に対する不満などから、主宰者の花登、座長の大村から距離を置くようになり、弟の小雁、芦屋雁平や花登に不満を抱く一部座員もこれに追従し始める。
「元・宝塚娘役」、「主宰者・花登の妻」というプライドから看板女優の座に居座る由美あづさの横暴、孤立化する座長・大村など、座員間の不協和音が次第に表面化していく中、1964年、花登は劇団解散を決め、雁之助、小雁らは花登の下を離れる。

1972年(昭和47年)44歳、東宝の支援で新たに『劇団「喜劇」』を主宰。

1974年(昭和49年)46歳、既に、妻である由美との関係は修復不可能になっていた中、花登と女優の星由里子との不倫問題が発覚した。
劇団の看板俳優である大村は、花登と同様に、花登の当時の妻・由美にも恩義があり、自身の妻・瑤子も由美と親しい仲であったため、板挟みとなり、花登の行動を容認できない状況に陥っていた。結局、花登に劇団退団を申し出、花登と大村の長きにわたる「師弟関係」は終わりを告げた。

1975年(昭和50年)47歳、由美との離婚成立後、星と再婚。

1983年(昭和58年)10月3日、肺癌のため死去。享年55。

死後
1986年(昭和61年)、遺族の寄付金をもとに、青少年の文芸活動推奨を目的とした「花登筐文芸奨励賞」(大津市内在住の小中高生が対象のコンクール)が設けられた。
また同年、遺族から8300点超の資料(著作・脚本・蔵書など)の寄贈を受け、大津市立図書館本館に「花登筐記念文庫」コーナーが設置された。大津市湖岸緑地公園に花登筺記念碑が建てられている。

<Wikipedia引用>

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