”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

【滋賀・近江の先人第103回】トヨタ自動車の大番頭/中興の祖・石田退三(常滑市・彦根市)

2020-04-30 06:00:00 | 滋賀・近江の先人

石田 退三(いしだ たいぞう、旧姓澤田、1888年(明治21年) - 1979年(昭和54年)。旧姓澤田。
元豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、元トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、豊田英二と共に「トヨタ中興の祖」と呼ばれる。


石田退三は、
愛知県知多郡小鈴谷村字大谷(現常滑市)に生まれた。澤田徳三郎の五男。家は農家で男の兄弟が五人あった。

父親を早くに亡くし、進学できず丁稚奉公に出されるところに遠戚に当たる児玉一造(豊田佐吉と親交があり、児玉一造の弟は佐吉の婿養子となる豊田利三郎)の支援で彦根市の滋賀県立第一中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)を卒業し、しばらくは代用教員として働く。

豊田 利三郎」については下記のサイトで紹介している。

【滋賀・近江の先人第10回】婿入りして豊田グループの総帥になったトヨタ自動車初代社長・豊田 利三郎(彦根市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/89a74f4f9d66af5f63ea262720830db9

石田退三の最初の勤め先である西洋家具屋で商才を身につける。
結婚を機に退職(養子縁組をしてこのときに姓を石田に改める。夫人を紹介したのは児玉である)上京して呉服問屋に勤めるも退職。

児玉一造の紹介で「服部商店」(現興和)に入社し、上海駐在中に豊田佐吉と出会う。
店主・服部兼三郎の急逝後に豊田紡織(現トヨタ紡織)に入社。紡織時代は豊田利三郎の下で働き新工場の建設の用地買収を任されたときに突然中止となるという出来事が起こる。
これは豊田自動織機製作所自動車部の新工場建設のために買収資金が回せなくなったというのが理由である。その工場は挙母工場(現在のトヨタ自動車の本社工場)の建設に当てられ、石田自身しばらくは自動車製造に対して(自動車部を作った豊田喜一郎に対しても)反対し続けることとなる。

豊田自動織機製作所自動車部発足後、豊田紡織の監査役(すぐに取締役)在任中、自動車部のピストンリングを探して欲しいと頼まれたときに本田宗一郎と出会い、ピストンリング製作の下請けを依頼。本田の会社東海精機株式会社は大きくなるが、三河地震による壊滅的被害と共にこの会社は豊田自動織機製作所に売却される。その際石田自身も社長を務めていた。


戦後の混乱期も、豊田自動織機製作所の人員整理や、度重なるGHQへの申請で輸出が許可され、戦後の経営危機の中、豊田自動織機だけはすぐに経営が安定した。

1948年(昭和23年)に豊田自動織機製作所の社長となったが、トヨタの労働争議が激化すると豊田利三郎より社長就任を要請される(喜一郎が労組との約束を果たせず、トヨタがただ一度行った人員整理の責任を取って辞職するという形となったためとされる)。
1950年(昭和25年)からトヨタ自動車工業社長を兼務すると朝鮮戦争が起こり、日産自動車といすゞ自動車との入札合戦に勝利し、急速に業績が回復する。

1961年(昭和36年)8月に会長、1971年(昭和46年)1月に相談役に就任。 1979年(昭和54年)9月18日死去。享年90。旧勲一等瑞宝章(昭和45年。現在の瑞宝大綬章に相当。)


冷静な判断でトヨタを救う
1950年7月18日、臨時株主総会でトヨタ自動車工業株式会社の社長に石田退三が選任された。豊田喜一郎社長の辞任を受けて、危機に立つ会社の再建を託されたのだ。豊田自動織機製作所社長との兼任である。“最後の大番頭”と呼ばれた闘魂あふれる男が、窮地を脱するための切り札だった。

ドッジラインによる不況で自動車の販売は低迷し、日銀の主導による協調融資でようやく息をついたところだった。労働争議も終結して社員の意欲は高まっていたが、借入金が10億円にも及ぶ中では石田の豪腕をもってしても状況の打開は簡単ではない。しかし、状況は突然変わった。社長に就任する直前の6月25日に、朝鮮戦争がぼっ発したのである。これによって発生した特需は、日本経済にとってカンフル剤となった。中でも大きな恩恵を受けたのが自動車業界だった。

石田はあらゆる手段を使って米軍からの受注をとろうと走り回った。7月31日、軍用トラック1000台の契約が調印された。販売額は5億円を超える。さらに8月には2000台以上の追加注文があった。受注金額は15億円以上である。トヨタは合計4676台の車両を販売し、売り上げた金額は36億円に達した。翌年の3月決算では2億2930万円の純利益を記録し、戦後初の配当を行った。石田は、わずか1年でトヨタを復活させたのだ。

石田は確かに幸運児だったが、運だけによって成功を導いたのではない。好機をとらえ、積極的な再建策を打ち出したのだ。月産650台の生産能力を1000台までに高めながら、従業員の補充は行わない。配置転換と残業で能率を上げ、引き締まった生産体制を整えた。ここで浮かれて人手を増やせば、特需が収まった時に過剰人員に苦しめられる。冷静な目で先を読み、将来のために力を蓄えた。人を増やさない代わりに設備投資には資金を使い、フォードの視察から帰ったばかりの豊田英二の意見を取り入れて設備近代化5カ年計画を策定した。大胆で的確な大番頭の決断が、トヨタが日本のモータリゼーションに取り組む基礎体力を作ったのである。

佐吉の言葉が行動の規範となる
石田は豊田家の人間ではないが、血はつながらないながら遠い縁戚関係にある。生まれは愛知県知多郡の小鈴谷村(現在の常滑市)で、農家を営んでいた沢田家の6人兄弟の末っ子として生まれた。高等小学校には行かせてもらったものの、当時の社会事情では中学進学は諦めざるを得なかった。彼を救ったのは、義理の従兄弟にあたる児玉一造である。彦根の児玉家から中学に通うことになったのだ。児玉は後に豊田佐吉の後援者となり、彼の弟の利三郎は豊田家に婿入りすることになる。

石田は中学卒業後に代用教員になるが、商売への思いは捨てがたく、京都の輸入家具店に就職した。商才を現した彼は大阪に支店を開いて成功させるが、児玉の勧める縁談を受け入れて彦根の石田家に養子に入り店を辞めた。今度は東京に出て呉服屋に勤めるが長続きせず、またも児玉の紹介で名古屋の繊維商社・服部商店で働くことになる。これが石田の転機となった。社長の服部兼三郎は佐吉の後援者で、豊田家とのつながりがここから始まったのだ。

服部商店は上海に出張所を開設することになり、石田はその駐在員に抜てきされる。1920年には佐吉が上海に紡績工場を作り、石田は発明王と親しく接する機会が多くなる。石田は、その頃佐吉から何度も同じ話をされたという。『石田退三語録』によれば、こんな言葉だった。
「石田、キミ、商売人ならカネをもうけてくれ。そうしてワシらめぐまれん研究家を助けてくれ」
この経験が、石田のそれからの行動の規範となった。

石田は服部商店を辞した後に商売を始めようとするが、児玉から強引に誘われて豊田紡織に入社する。1927年のことである。利三郎が常務取締役として会社を指揮していた。彦根時代、石田と豊田利三郎は兄弟同然の生活をした仲である。

大阪出張所長として業績を伸ばし、インドでも販路を広げた。名古屋に帰ってくると、ちょうど豊田喜一郎が自動車部門への進出を目指して熱心に開発を行っていた。石田はプロの商売人として無謀な賭けを是認することができず、強硬に反対論を唱える。しかし、それから15年後、トヨタ自動車工業の救世主となったのが石田だったのだ。

必要なものへの投資は惜しまず
再建を軌道に乗せ、石田は東京の喜一郎宅を訪れた。社長復帰を求めるためである。彼は社長就任のあいさつで、業績が好転すれば喜一郎に戻ってもらうことを提言していた。再び喜一郎を社長に迎え、ようやく乗用車の生産という夢を実現することができる。そう考えた矢先、喜一郎は若くして他界してしまう。乗用車の夢は、石田が引き継がねばならなくなった。

技術に関しては、豊田英二をはじめとして精鋭がそろっている。石田は佐吉に説かれたことを守り、彼らエンジニアが安心して開発を行うことができる環境を整えることに専心した。100万円の金を借りるにも苦労した危機の場面を忘れず、現金の大切さを重んじた。本業で稼いだ資金で借金を返済し、自己資本を充実させて強靱な財務体質を作り上げた。営々と積み重ねられた努力が結実し、1978年にトヨタは無借金経営を実現している。

倹約を旨としながら、必要な投資は惜しまなかった。1955年、初めての本格的純国産乗用車であるクラウンが誕生する。3年に及ぶ開発期間に投じられた資金は、50億円を超えた。他メーカーが欧州車のノックダウン生産を行う中、巨額な資金を投じて自主開発を進めたのである。技術を蓄積すれば、かけたお金は大きくなって戻ってくると信じたのだ。

1957年、クラウンより小型のコロナが発売される。従来の工場は手狭になり、英二の進言で新工場を建設することになった。それが元町工場である。建屋は月産1万台規模で、設備は5000台規模に抑えた。この時期のクラウンは月販2000台であり、販売が伸びなければ投資は遊休設備を増やしただけの結果になってしまう。それでも石田はモータリゼーションの進展を信じ、ゴーサインを出した。彼は、この賭けにも勝利する。岩戸景気の波に乗り、クルマの販売は急激に伸びた。1959年8月に工場が完成すると、その年の暮れにはフル稼働で生産を行うようになったのだ。

元町工場の成功を見届けると、1961年8月に石田は社長を退いた。還暦を過ぎて社長になった石田は、すでに72歳になっていた。喜一郎の自動車部門進出に反対した彼が、トヨタを日本一の自動車会社へと育てた。トヨタの体制は盤石であり、エンジニアは後顧の憂いなくクルマの開発にまい進することができる。佐吉の言葉を忠実に実践し、石田は次世代にバトンを渡した。

<Wikipedia等引用>

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「インターバル速歩」・・・筋力向上をさせるウォーキング法

2020-04-29 10:00:00 | 散歩・ウォーキングライフ
 「インターバル速歩」と呼ばれるウオーキング法である。
インターバル速歩とは、
1. 本人がややきついと感じる早歩きと、ゆっくり歩きを3分間ずつ交互に繰り返すウオーキング法だ。
2. 1日5セットで合計30分、週4日以上やると、「5カ月間で体力が最大20%向上する」

■基本
(1)視線は25メートル程度前方に向け、背筋を伸ばした姿勢を保つ。
(2)足の踏み出しはできるだけ大股になるようにし、かかとから着地する。
(3)歩いているときに体の軸が回転しないように、腕を直角に曲げ前後に大きく振る

<日経新聞より>

■やってみると以外にきつい
背筋を伸ばすことで、大股で歩いたときの前方への体重移動が容易になる。大股で歩くと尻から下肢に至るまで多くの筋肉を使う。
左足を大きく前に踏み出し、右足が後ろに残った場合、それとは逆に左腕を後ろ、右腕を前に振ることで、腰に負担をかけることなく、安定して大股で歩くことができる。

「インターバル速歩のフォームは、ややきついと感じる速歩きを長時間、安全に実施するための工夫」がいる。
早歩きは「歩いていると息が弾み、動悸(どうき)がする程度」である。なぜ3分なのかは「大部分の人がこれ以上は継続するのが困難と感じるから」という。

初めは「3分なら、なんてことない」と思われるが、やってみると、意外にきつい。普段、大股で歩くことは殆どないからだ。
次いで、ゆっくり歩きを3分。こちらは楽だ。「3分間の速歩の後に、ゆっくり歩きを挟むと、また速歩をしようという気分になる」

 筋力を維持するには歩くだけではだめなのか。
「普通に歩いていても筋肉はほとんど増えない。漫然と歩いているだけでは、1日1万歩を実施しても殆ど効果はない」と言われる。 よく聞く「1日1万歩が健康に良い」というのは誤りなのだろうか?

 もっとも、激しい運動をすると筋肉に大量の乳酸が出て、息切れが起きたり、筋肉痛になったりする。一方、ややきついインターバル速歩は「筋肉を傷めずに筋力をアップすることができる運動」である。
筋肉の衰えを防ぐことができれば、体力が向上し、糖尿病や高血圧など生活習慣病の予防にもつながるという。

<日本経済新聞より引用)

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【東近江・寺社総巡り】第236回・五箇神社(東近江市宮荘町)

2020-04-29 06:00:00 | 東近江・寺社総巡り

11月16日(土)、五個荘宮荘町の「五箇神社」を訪れた。金堂町の「大城神社」、竜田町の「龍田神社」と同様に近江商人が活躍した各村の大きな神社だ。

五箇神社の本殿が2019年に滋賀県の重要文化財に指定された。古来より村の産土神として崇められていた五箇神社の本殿は天保10年(1839年)、拝殿は文化6年(1809年)に建立され、明治15年(1882年)に増築されたことが分かっている。本殿・拝殿ともに良材を用いた技術的にも高い建造物で、本殿は18世紀以降に華やかとなる県の神社建築の江戸時代末期の特徴を示している。また、拝殿や透塀を含めた主要建造物が一体として残され、価値が高いとされる。

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五箇神社
所在地 東近江市宮荘町767

■祭神
 天照大御神 伊邪那岐命 伊邪那美命 天兒屋根命 品陀和気命 大穴牟遅命
〔配祀神〕武甕槌神 経津主命 金山毘古神 宇迦之御魂神 猿田彦神
■由緒
創建年月不詳であるが嘉応承安の年号記載の宝器あり、往古は東西ニ殿この五箇の森に鎮座し五箇荘内総社であって五箇荘の起源と伝えられる。天正年間兵火にかかり旧記什器全て焼失する。文禄年間本殿1宇を再建2社を合祀した。
■本殿・境内建物
〔本殿〕切妻造唐破風付 間口三間三尺 奥行三間龍田神社
〔拝殿〕入母屋造 間口三間三尺 奥行三間
■境内社(摂社・末社)
稲荷神社 八坂神社

付近の神社
 小幡神社 徒歩 6分(459m)
 大城神社 徒歩 13分(972m)
 河曲神社 徒歩 14分(1.1km)
 三俣神社 徒歩 15分(1.2km)
 和田神社 徒歩 18分(1.4km)
 八幡神社 徒歩 18分(1.4km)

3

 

↑重要文化財に指定された五箇神社本殿

 

 

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【東近江・身近な昔探訪】第9回・旧八日市市金屋にあった「出目医院」

2020-04-28 10:00:00 | 八日市の今昔物語
↑正面の空き地が昔の出目医院があった場所

 かつての「出目医院」は旧八日市の金屋通り(旧八風街道)交差点のところで、池田理髪店の左、現在空き地・駐車場の場所にあった。
 初代院長は先年亡くなった出目弘医師で、京大を卒業後、京大病院や広島、大津での病院勤めの後、八日市に帰り戦後、出目医院を開いたという。
 出目医院の開院前は出目弘医師の家族が「出目又」という化粧品店を営んでいた。
 いつ頃、現在の場所に移転したか記憶が定かでないがかなり前だったことは確かだ。昭和の40年代位ではなかったかと思う。

↑現在の出目医院

 「出目医院」は現在、東近江市東中野町にあり、湖東信金、八日市郵便局交差点付近にある。
 筆者の母は昔、出目医院に罹っていたことがある。その時はまだ出目弘医師は若先生だった。
 現在は整形外科を中心に診療をしているが出目医院は内科の評判もよく多くの患者がいた。
 
 尚、2019年に亡くなった出目弘医師は初代「八日市郷土文化研究会」会長などを経歴する知識人でもあった。また、出目弘医師の弟は映画監督の故「出目昌伸」で、元の出目医院の裏にあった「出目又化粧品店」は生家である。

 
↑かつての出目又化粧品店

【滋賀・近江の先人第80回】郷土が生んだ名映画監督・出目 昌伸(東近江市)
 
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【東近江・寺社総巡り】第235回・蔵福寺(東近江市五個荘竜田町)

2020-04-28 06:00:00 | 東近江・寺社総巡り

2019年11月16日(土)午前、「蔵福寺」を訪れた。

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蔵福寺
所在地 東近江市五個荘竜田町622

■宗派 臨済宗妙心寺派
■寺歴 元禄年間(1688-1704年)再興
■本尊 地蔵尊

付近の寺院
 清林寺 徒歩 4分(271m)
 蓮光寺 徒歩 7分(501m)
 称名寺 徒歩 8分(586m)
 浄栄寺 徒歩 9分(701m)
 青蓮寺 徒歩 10分(756m)
 弘誓寺 徒歩 10分(770m)

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