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仏語、英語学習者。アイザック・アシモフのファン。ノース・ホワイトヘッド思想信奉。縄文志向、仏陀志向。

とんでもない古代史研究会の仮説

2022-05-21 16:32:13 | 日本古代史
とんでもない古代史研究会の仮説。
 それもとても空想的。
 それでも
 この病気は古代はどうであったかを探る相当深刻な頭脳の病気。
 それらしきことを求めるのはホモ・サピエンスの特徴か。

 土地名と遺物にしかのこらない文字文明以前の記憶。
 厳粛な現実。
 でもこの病気は相当深刻
 「そもそも」なんであったかは安心の道しるべとして。

「倭」の由来は「われ」にあり。

「奴国」の「奴」の由来も「われ」にあり。

「奴国」が成立した頃からは伽耶の文化が南韓と列島でやや優勢であったろう。

 南韓国の「奴」という称号は後に博多湾で定着した。当時漢字は借りものだからしょうがない。

「魏志倭人伝」に伝わる国名に

彌奴國
姐奴國
有蘇奴國
華奴蘇奴國
鬼奴國
烏奴國
狗奴國

の国々にそれぞれつく「奴」の文字は
それらがすべて元はと言えば、
「奴国」の一部。
 他の国名は別口の由来。

 それらが時代の趨勢で別れた。
 それを「倭国大乱」と呼んだ。

 でも「奴国」の由来が韓国であったかどうかは不明。

 どちらかというと列島人の方であったろうと思う。

 さて律令制以前の国名に
那珂国、
那須国がある。

 さて博多湾に流れる「那珂川」。

 那珂国の大海に流れる川も「那珂川」。

 徳島県には「那賀川」がある。

 茨城県には「那賀」もある

「那賀」はやや後の命名か。
それでも、大いに後の「中臣」の気配がプンプン。

 おおむね、博多に奴国は分裂したあと再建された。

 奴国が分裂したその際に遥か東国に渡って開拓する一族がいた。

 関東に流れて来た一派が那珂国と那須国をつくった。

 あるいは那須国は韓人が多かったという。

 倭人や倭種の記録が中国の歴史に残るのは
奴国の成立する前の時代には
揚子江河口付近から浙江省・福建省・南韓に住んでた人間は列島と同じ倭人であったろう。
後に倭の珍王に「使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍」(438年)たる称号を与えるに及んで
宋は列島の倭国の存在の名誉を復権させた。

 その大昔に所謂春秋時代に揚子江河口付近で覇を唱えた呉のような求心力を東の端に認めたかたちで。

 もうこの頃には元倭人がいた広範囲な地域には倭人の言語を喋る民たちは入れ替わり、あるいは後に移り住んだ人々によって融合された。

 この授名から窺えることは「奴国」は本来「那国」とすべきだったとかね。

皆さん、
この説は単なる仮説と思ってください!

地図は単なる参照


三種の神器から日本列島の深層を探る

2022-04-17 12:49:34 | 日本古代史
「三種の神器から古代日本文化史の三層を考える」

Yi Yin

まえおき
 令和元年5月の皇室の承継の儀は皆様もお記憶のことと思います。「三種の神器」である 八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙の剣が今上天皇に受け渡される祭儀でした。
  本当の「三種の神器」と言えば、戦争後の昭和時代の洗濯機、テレビ、冷蔵庫のことではありません。

 天孫降臨の際、天照大神が瓊瓊杵尊に授けた三種類の、すなわち八咫鏡、天の叢雲の剣(草薙剣)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことです。 多少の伝承の正統性の誤差はあるものの、総じて天皇家の家宝と重んじられて来ました。 と同時に日本、及び日本人の魂の宝物としても尊重されて来ました。
草薙の剣は「熱田神宮」、八咫鏡は「伊勢神宮」、八尺瓊勾玉は皇居の「剣璽の間」にそれぞれお置れており、天皇すら直接見ることはできないと言われています。
これらの三種の神器を、剣、鏡、玉を逆さまに玉、鏡、剣と順序を変えてみますと、日本古代史の時代区分というふうに見えて来ませんか。 大雑把にそれらの区分を時代区分の鋳型に嵌め込む込めば、玉は縄文、鏡は弥生前期、剣は、弥生後期と区分できます。勿論、最近、列島への稲作の伝来が、にわかに年限を大幅に紀元前一千年というのが定説になりつつあることを勘案してのことです。

ちょっとだけ本題から外れますが、稲作伝来について基本的に押さえておかねばならないことは、関東以北では、弥生式土器の政策と相まって、弥生中期以降にしか現れないという事実です。それはまた、列島西部には、各時代にそれぞれの新規文化が別れて移入されていたのに反して、関東以東は、弥生中期(紀元前2世紀から紀元後3世紀頃まで)に鏡と剣の両文化が同時に入ってきたということです。図1は、茨城県日立市で発掘された十王台式土器の一つ。因みに本題からは外れますが、十王台式土器の特徴は、その時代以前、つまり縄文の様式は、そのまま継承されて、その文様には縄文とは断絶していないし、その範囲は、後の那珂を中心として、久慈、多賀そして那珂川上流の那須にまで及んでいます。想像するに、この広範囲な地域には同じ文化、同じ言語であったと思うのです。
 
 さて、この三段階の時期を、それぞれ、玉の時代、鏡の時代、剣の時代と大まかに三区分しましたが、玉の時代をさらに細かく3区分してみたいと思います。そして剣の時代も3区分できるのではと考えます。ただし、剣については、銅剣と鉄剣の違いがありますので、銅剣は、四番目の区分といたしましょう。それで、五番目が鉄①の時代、6番目が鉄②の時代というふうにみますといいと思います。

 それについては、後漢の袁康(えんこう)・呉平(ごへい)著の歴史と小説の中間と言われる『越絶書』(主に春秋時代の呉や越、楚について記述されている)の捉え方が大いに参考になります。つまり神器は、それぞれ時代によって変遷して来たというのです。石の時代は玉、そして銅の時代、鉄の時代というふうに武器は変遷して行ったというのです。以下引用します。

「そもそも剣はただ鉄でつくったものだ。 そのような鉄にもともとこのような神威があり得るのだろうか、
これに対する答えとしては、
時代がそれぞれそうさせるのだ、といいます。 古より当時までを段階的に分け、
まず軒轅(けんえん)氏、神農(しんのう)氏、赫胥(かくしょ)氏の時代には石を用いて武器を作っており、宮室を作るにも折れた樹木を拾ってきて使っていました。
黄帝(こうてい)の時代には、玉(宝石)で武器を作り、伐採した樹木で宮室を造営していた。 玉も当時としては神物であった。
禹(う)王の時代には、銅を用いて武器を作っていた。
そして今のこの時代では、鉄で武器を作り、この威をもって大軍をも支配下におき、天下に服従しない者はいません。」
 つまり石器の時代があり、銅器の時代があり、そして当時春秋時代以降は、鉄器の時代になっています。 それぞれが各々の時代において最先端の文明であり、それゆえに神器とされました。このなかの「武器を作った」という表現は、「権威」、 「威力」、「神威」とかいう意味です。

 それではそれらの時代区分を我が国、日本列島に当て嵌めて見立てたいと思います。

第一期 玉
① 黒曜石 
 黒曜石は、火山が生み出したガラス様で3万年前から道具として、広域に産地からはるか離れた地方まで流通していました。
 伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、伊万里腰岳産の黒曜石に至っては、北松浦半島の縄文人が隆起線文土器・大型石斧ともに朝鮮半島の東三洞貝塚で出土していたり、隠岐の黒曜石がウラジオストクまで運ばれています。私はこの黒曜石の利用の技術力が、縄文時代を切り開く要因のひとつになったと想定します。例えば千葉県東総地方の阿玉台遺跡の土器(縄文中期約4500年前)が長野県の諏訪で発見されると同時に諏訪から阿玉台に黒曜石が持ち込まれているのです。阿玉台式土器の中には阿玉台式土器産出の範囲内の鹿島では雲母でちりばめられいるふかぼり土器が見つかっています。

② 翡翠(硬翡翠、軟翡翠とは別成分)
 日本における翡翠は約5,000年前の縄文中期に始まっています。初期は大珠(たいしゅ)という棒状のものがつくられていましたが、弥生・古墳時代にまで珍重され、祭祀・呪術に用いられ、後に装身具や勾玉などに変遷していきます。   邪馬台国の台与が中国に贈った二個の勾玉も翡翠ではないかとの説もあります。私としては、おそらく、漢帝国の楽琅郡、帯方郡の設置も珍財の入手が真の狙いではないかと考えてます。洛陽の宮中で日本産の翡翠の話題に余念のない宮塚使いの女官たちのひそひそばなしが聞こえそうです。
 新潟県糸魚川の交易品として海路を用いて広く運ばれたとされ、特に列島側が鉄を入手し、高句麗が翡翠を手に入れた、という点を高く評価する識者もおられます。
 しかし、なぜか奈良時代以降に翡翠は、突然衰退し、歴史から姿を消してしまいました。翡翠を愛好する文化はおよそ3500年間つづいた後、忽然と姿を隠してしまいます。 残念なことですが。「五徳の輝き」(仁・義・智・勇・潔)と孔子に言わしめた翡翠が、本邦由来のものであったかはわかりませんが。

③ 瑪瑙 
 出雲は、古代より勾玉の生産が盛んでした。松江市の玉造で採れる青瑪瑙を使った「出雲型勾玉」は、天皇の皇位の象徴として2600年以上受け継がれてきたと言われております。瑪瑙の勾玉が「三種の神器」の一つと伝えられ、出雲大社とも縁深いもの。玉造では現在でもその伝統が受け継がれています。とくに翡翠の青も瑪瑙の青も、魔除けの神威があると信じられて来たからですが、翡翠に比べて、その産出が全国的であったや仏教の法具としての意味も加わったことも無視できません。
 一般に、「玉」と言えば、「瑪瑙の勾玉」が言われます。
 古墳時代に島根県松江市玉造の花仙山(かせんざん)で堅くてキメの細かい青瑪瑙が採れたのです。
 飛鳥時代になると、勾玉は神を祀るために使われました。奈良時代に編纂された「古事記」の中でも「勾玉」に纏わる記述が多くなり、それが皇位を象徴とする珍物となっていったのです。
 アマテラスから三種の神器を授かったのが、瓊瓊杵尊ですが、瓊瓊杵尊の名前の「瓊」は、瑪瑙であったという識者もおられます。


第二期 銅鏡
 中国では銅の時代が、殷や周の時代だとされています。概ね、錫や鉛との合金の青銅器で、日本で珍重されています内行花文鏡や三角縁神獣鏡は青銅鏡です。この青銅は、また、弥生時代の日本列島における弥生時代の開闢と深く関連しているというのが通念です。いわゆる、銅鐸、銅矛文化との関連です。この時代に稲作が列島に導入されたと見る人が多いいられます。
 ここで大変、厄介な問題があります。よく三種の神器と言われる「鏡」ですが、どうやら、それが本来、銅であったか、鉄であったかはわからないということです。古事記の表記には、「高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」となっているからです。 その時の鏡は銅製ではなく鉄製であったという記述です。皆さんは、 どうお考えになられますか。

第三期 剣
 鉄の使用は、概ね、北九州糸島郡二丈町から紀元前3~4世紀のもので、板状鉄斧です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示しています。日本では雄略朝あたりまで、南韓の珈耶に依存していたというのが定説ですが、その他に高句麗や中国の燕との繋がりを強調する方もおられます。

① 鉄剣前

 弥生時代中期になると土地の豪族が所有していたとおぼしき鉄をはじめとした金属器がありますが、例えば鳥取県の弥生時代中期に拠点的な集落から鉄器の導入が始笠見(かさみ)で、鉄斧、刀子、鉙(かんな)、鎌、鋤先(すきさき)などがみられ、といった日常的に使用する農工具が主体となりますが、中には目を見張るような優品も含まれます。同県、湯梨浜町では、弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓(よすみとしゅつがたふんきゅうぼ)の埋葬施設から鉄剣と鉄刀が出土しています。いずれも弥生時代のものとしては国内最長クラスの優品です。鉄剣は、素環頭(そかんとう)と呼ばれる柄頭が飾る環状に飾られていたと思われます。この鉄剣と鉄刀は分析の結果、中国前漢時代に開発された製法により、大陸で鍛錬された可能性が高いのです。鉄器の普及が進んできたとはいえ、誰もが一般には普及しないで、特定の豪族に限られていたと考えられます。

② 鉄剣後
 それが雄略朝以降、日本列島各地で砂鉄による多々良製法によって本格的な鉄生産の時代を迎え、鉄は、装飾品以上に庶民の生活財として農作業に主に利用され、一般化して行ったと思うのです。

 石上神宮(奈良県天理市)の土中深くに祀られていたとされます鉄製の「十握剣」が、その現知によって、ヤマタノオロチのしっぽにあった「天叢雲剣」(熱田神宮)に当たり、刃こぼれを起こしたという記述が立証されたというエピソードも遺っております。
 「尾を斬る時に至りて、剣の刃少しき欠けたり」という古事記の記述です。
 鉄製の十握剣に、刃こぼれを生じさせたのですから、天叢雲剣は十握の剣よりもさぞや強くなければなりません。 そして、剣は武の象徴でもありますから、天叢雲剣は鉄剣であるとの有力視されておりますが、やはり銅剣だという説もあります。
 さて、ヤマタノオロチの話しについては当時の多々良製鉄と深く関連しているとみる学説が強いように思われます。
 ある学者は、山陽の多々良と山陰の多々良の違いについて、ヤマタノオロチの伝承は、山林のほとんどを不毛した結果、或は鉄鉱石だけを原料にしたりして、土砂崩れで洪水が常態化していた様を反映しているとみています。
 方や、山陰では、方法で同じ多々良でも鉄穴流しのシステムを普及したり、砂鉄だけを原料にしたりして、川の氾濫を防備した製法により、また山林の再生産システムを構築したりした自然を保護したというのです。
 ここ関東北部でも細かい地域単位で多々良の小規模な遺構がみられます。そこには当たり前のようにスサノオを祀る素鵞神社が点在しています。このようにスサノオの業績は、その後の日本列島に確固たるシステムとして定着していったのです。

 最後に、列島の津々浦々まで、農機具としての鉄製品に触れてみますと、概ね、農業の中心が、稲作に移行して行ったという反映も窺えます。
 弥生前期までは稲作の他に五穀生産も当然ながら重視されてきたのですが、古事記のオオゲツヒメの件(くだり)から、それ以降、稲作重視の時代に変わっていったのではないかということです。それがよいかどうかは議論の別れるところでですが。

 ここで、話を大枠で纏めると、日本と日本人の美意識の中には、宝物としての石(玉)が精神に底流していたり、あるいは、権威と神秘の象徴としての銅、青銅器が、文明の曙の意識を依然として有しているということ。
 そして剣に籠められた日本人的魂は日本人のもっている精神は長い時代と日本人の誰もが、多様性の中でも今も変わらず、1本の軸として尊重されるべきこと。今、元寇の意義も尚、依然として蘇らせることの必要性を突きつけられているのではないでしょうか。























松岡正剛氏の論説に思う

2022-03-27 00:13:31 | 日本古代史

Yi Yin

 この度、上野俊一氏の「松岡正剛」氏のユーチューブ番組のシェアされたものを、またあらためてシェアさせて頂きました。それは、今直面している日本と我ら日本人に突きつけられている諸危機にどう向き合って行けばいいのかの、ある方向を指し示して下さっているとの思いからです。
 最近のFBの日本古代史研究会の佐藤達矢さんがつよく主張されています所為稲作文化の到来に関してのスサノオ神の意義を半島と列島という舞台に亘って立体的に論じられているのが面白く、意味深く感じられたこととも相まって思いたったからでもあります。
 佐藤さんの主張は、概ね日本の起源に関して、大陸及び半島からの流民を中心とした渡来人や渡来文化ともともとの我らの先祖の現地人との融合と葛藤の歴史と捉えている点で、愁眉です。
 さて、松岡正剛氏の主張に出てきます「荒魂」と「和魂」(ニギタマ)という二項ですが、日本の文化の深層構造から、ヘーゲルの弁証法よろしく絶え間ない異質とわれ(ら)との「合」という動的平衡操作にあるということでありましょう。それは、気がつけば、列島が世界の端に位置しているという自覚の表れから来ているものと思われます。
 日本の皇統が、瓊瓊杵尊から発しているのは、この「和魂」(ニギタマ)的要諦こそ求められている実践知であるように思えてなりません。

 聖徳太子の「和」は隋という極を意識して出てくる思想です。また続いて天武、持統朝においてヤマトを「大和」と表記しました。「まな」に対して「かな」が異質文化に対応する精神とするなら、我が国の起源、成り立ちはその中間に立つという『中庸』にあります。
 それゆえ日本の歴史の根幹にはあらゆる荒ぶるもの(外来も内憂、自然災害も含む)に如何に対応するかのニニギ『瓊瓊杵』の意味が問われています。
 そういう観点から今、否応なしに襲いかかる日本と世界の危機的状況を鑑みていくことは大いに策められているのではないでしょうか!

平の国香のこと

2022-02-12 06:24:28 | 日本古代史
平の国香のこと
  今年の大河ドラマの主役は「北条義時」です。その北条のルーツは現在の熱海(阿多見)であり、そのさらに前は、平の国香にたどり着来ます。
 「平の良望から始まる高望王流の平氏一族は平安京を作った桓武天皇の流れということで、臣籍降下してその姓を賜ったのですが、今年をもってこの「平」の年号も変更するようです。
 国香の兄弟は筑波山の西側にへばりつくように領地を確保したのですが、将門の父、良将の領地が一番沼地で、田畑には適さない土地だったのですが、これがなんと逆転。皮肉なものです。つまり馬を育てる絶好の場所に活用され、良将家の繁栄をもたらしたのです。これが元々仲のよい親戚間の大騒動へと発展してしまいます。
 国香は、涸沼から那珂川、久慈川に抜ける東北方向の豊かな穀倉地帯を遥かに望んでいました。もしかしたら、あの神武の祖父たちが住んでいたとされる、那珂、久慈、多賀といった九州の原点の土地と那珂川の向こうの土地とをオーバーラップして見ていたのでしょう。それが200年後、実現するのですが。

 古来より、オオ氏の流れの豪族の定着、開墾の後に源氏の義家がなぜか常陸側には狼藉を働き、水戸やひたちなかの長者の財産を奪ったという記録があります。源氏はなぜか、その財力を使って現在の栃木側の豪族とよしみを広げて行ったもようです。
 その荒らされた土地に目をつけたのが十二世紀に水戸に勢力を伸ばした国香の流れの平氏(吉田)だったのです。その中心地は現在の石岡市ですが、現在の水戸市にも勢力圏をもっておりました。

 源氏の流れは茨城県北部の佐竹に勢力を温存させ、遥か後に、茨城県中央部の広範囲に拡散していた平氏一門を束ねて切り捨てるよう霧消させてしまいます。
 ここひたちなかには、源氏の流れの武田氏も入植しました。あの武田信玄の先祖の領有地もあったのですが、その水戸の吉田一族との確執があったのですが、朝廷の采配によって、その土地から放出されて、甲斐に移ってしまいます。それによって、吉田一族は広範囲な那珂台地(現在のほぼひたちなか市、那珂市、東海村)の開発に乗り出します。その先鋒を託され、呼び出されたのが、倉員則頼(1151年)。おそらく、中央では、あの清盛政権の勢いがましてきたことが考えられます。倉員則頼もまた在所平氏の一門だったと推測できます。その後、彼の手腕のおかげで、吉田一族の兄弟子孫が、那珂台地の大字ほぼ全土に城(当時は未熟で概ね砦といったところ)を築いていきました。

 ちょっとだけ余談を挟ませて頂きます。この倉員則頼という者の所在地と言えば、ひたちなか市よりだいぶ離れて現在の石岡市と鉾田市の境にあります現在名、「倉数」ですが、この倉員の「員」が「数」に転じたものです。何をいう私はここの出身です。この倉員(倉数)の名前の由来は、そこの神社「潮宮(いたみや)神社」の祭神、「高倉下」の「高」が取れたものです。この倉数には、「かなくそ遺跡」がありましたので、あの「フツノミタマ」を連想させるものです。
 さらに余談ですが、この倉員則頼の那珂台地統治の要所はどこだったかも容易に推測できます。これは皮肉めいておりますが、後に要所となった勝倉城があった「勝倉」でありました。ここも平氏一門で、あの武田に隣接しております。志田淳一氏によれば、当然、この勝倉は「倉員」を反転させたものと言っておられます。古辞にはレ点をつけていて表記した例もありますから。

 面白い逸話があります、この倉員氏ですが、当の茨城県にはその姓は見当たらないのですが、福岡県の筑後市付近には残っているそうで、地名は蔵員となっていまして、当時は平氏の荘園があったという報告があります。さらにそこには仏閣があり、坂東寺と言います。

 ひたちなか市那珂湊地区には、樫原神社がありまして、当地では地域の人たちの信仰を集めておりますが、この神社は元は、那珂川対岸の現在の涸沼の北部地域の茨城町にありましたものを室町期に現在のひたちなか市に移転されました。これなども考えるに、那珂川北岸に平氏の領地が点在して、各郷が平氏を敬うその気運が最近まで残っていた証拠であると推測いたします。
 この筑波山と那珂川の西側が武士の発祥の地であったのです。国香の名の如く、東の土地に壮大な平安京をも越える安らかな国をつくろうと望んだ人がいたと思うのは、私だけでしょうけれど。彼は夢みる開拓領主だったのです。
 その後、その子貞盛の子孫から清盛や北条政時の流れが出て来るのです。
 神武、天武、聖武、桓武という風に「武」のつく天皇は時代を切り開く気概があったのです。

伊尹


禹の足摺りの伝統 日本にみられる女性重視の文化

2021-09-25 11:57:25 | 日本古代史
「ジョン・ナック 『禹』の足摺りの深層」その一日本人の女性観を中心にして

 『禹』について語った私ジョン・ナックは、 Yin Yi の『宇宙の組成と日本人の組成』という短い文章のに触発されて、さらに日本史の真なる基層を掘り出したいと思います。
 
 まず日本の天皇家から話しをはじめてみましょう。
 「日本書紀」を天皇に講義した記録に書かれている話しですが、天皇が博士への質疑で、「わが国が姫氏(きし)国と呼ばれるのはなにゆえか」とあります。この姫姓は周王朝の王族の姓ですが、その前の殷王朝のその前の夏王朝の姓は本来、禹は彼の姓を「姒(じ)」と称していたのです。周王朝が、同じ漢字の左側の「女へん」を用いていている点に注目してもらいたいのです。
 なぜ周王朝は「女へん」に拘るのでしょうか? それは復興夏王朝の旗を鮮明にして殷王朝(子氏)を倒す正統性を名乗る必要があったからでしょう。殷王朝討伐に加担した姜族の太公望ならそこら辺の画策はお手のものでしたでしょう。なにしろこの姜族も禹の流れであると自負していたからです。姜族の伝統行事では、あの「禹の足摺り」を真似する、という儀式があるそうです。

 もし天皇家が「姫氏」であるなら、日本の精神構造及び政治構造も「禹」の実像を反映したものとなったことは十分頷けることでありましょう。
 
 この「女へん」の事実は当然、女性と男性とが切っては切れない不可分の精神を反映しています。それはおそらく当時としては高貴な人間性高揚の革命的な新時代のおおらかな到来の宣言であったでしょう。
 この女性性重視の考えはさらに我が国においてさらに発展したと見るべきです。世界には太陽を主神とする宗教、民族があまたあるなかで日本だけが女性の太陽神を主神としているからです。
 これは邪馬台国の卑弥呼の話をなぜ現代の日本人が執心するかの答えでもあります。アマテラス神や斉明天皇に連動している不思議をそこに見るからです。
 しばしば日本史においてはその時代時代の混沌期に活躍する傑出した女性の指導者が現れ、壁にぶつかった男社会の弊害から脱却させました。まるで救世主のように。卑弥呼の印象は我々に、繰り返し勃発する国難を克服する女性のトップの出現を予兆させます。
 以下ざっと挙げますと、アマテラスを筆頭に、神功皇后、持統天皇、推古天皇、光明皇后、北条正子などなど。
 彼女らは「天照」の言葉そのもののような見事な明るさで我が国の民をリードして来ました。

 伝来の仏教にも女性的に浮き彫りされる観音菩薩、弥勒菩薩、薬師如来が出現するのも頷けます。インドにおける原始仏教ではあり得ない様相が日本仏教には現出するのです。要するに日本の精神土壌は本来的に、「五障三従」という女性蔑視とも言うべき古仏教とやや趣を異にしているようです。
 ちなみに本地垂迹説の垂迹神と本地仏の主要な女性神仏を列挙しますと以下のようになります。
*天照大御神=大日如来、十一面観世音菩薩
* 大山咋神「日吉」=天照大神=大日如来
* 市杵島比売命=弁財天
* 豊宇気毘売神=稲荷神=金剛界大日如来
* 菊理姫=十一面観音
* 伊弉美尊=千手観音
* 木花之佐久夜毘売=浅間大菩薩、阿弥陀如来
* 御姥尊=大日如来
* 七面天女=吉祥天、弁財天
* 稲荷神=十一面観音、聖観音、荼枳尼天千手観

 さらにおそらく中国由来の陰陽思想も男女同一の価値を表す思想でしょう。

 さて夏王朝に話しを戻してこの論考を閉じたいと思います。夏王朝の中興の王、少康の母「緡(みん)」の話しです。
 「史記」とともに古代中国史を語る上で重要となる情報を与えてくれる『竹書紀年』によると、夏王朝中期の「王中康」の子である「相」が跡を継ぎます。在位年数は二十八年。 その在位八年に夏王朝を実質的に支配していた「羿」がその妻「玄妻」(純狐氏)と臣下の「寒浞」に殺されました。 そして「王相」自身も「寒浞」とその子供の「澆」によって弑されます。相の妻「緡」は都でのクーデターから逃がれ、彼女の出身地である有仍国で次の王となる「少康」を生む。少康はやがて成長すると、その息子の「杼」や夏王朝の遺臣である「伯靡」、「有仍氏」、「有鬲氏」などと共に「寒浞」や「澆」、「豷」を討ち滅ぼしました。これを「少康中興」といいます。
 ここに、中興の王の母の存在の偉大さが「禹」の精神的子孫の日本人の心に投影し続け、今なお息づいていると思う理由です。
 
 そして次回は「記紀」に見られる神観の特異性に触れてみたいと思います。

ジョン・ナック 「歴史思想書」より