「三種の神器から古代日本文化史の三層を考える」
Yi Yin
まえおき
令和元年5月の皇室の承継の儀は皆様もお記憶のことと思います。「三種の神器」である 八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙の剣が今上天皇に受け渡される祭儀でした。
本当の「三種の神器」と言えば、戦争後の昭和時代の洗濯機、テレビ、冷蔵庫のことではありません。
天孫降臨の際、天照大神が瓊瓊杵尊に授けた三種類の、すなわち八咫鏡、天の叢雲の剣(草薙剣)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことです。 多少の伝承の正統性の誤差はあるものの、総じて天皇家の家宝と重んじられて来ました。 と同時に日本、及び日本人の魂の宝物としても尊重されて来ました。
草薙の剣は「熱田神宮」、八咫鏡は「伊勢神宮」、八尺瓊勾玉は皇居の「剣璽の間」にそれぞれお置れており、天皇すら直接見ることはできないと言われています。
これらの三種の神器を、剣、鏡、玉を逆さまに玉、鏡、剣と順序を変えてみますと、日本古代史の時代区分というふうに見えて来ませんか。 大雑把にそれらの区分を時代区分の鋳型に嵌め込む込めば、玉は縄文、鏡は弥生前期、剣は、弥生後期と区分できます。勿論、最近、列島への稲作の伝来が、にわかに年限を大幅に紀元前一千年というのが定説になりつつあることを勘案してのことです。
ちょっとだけ本題から外れますが、稲作伝来について基本的に押さえておかねばならないことは、関東以北では、弥生式土器の政策と相まって、弥生中期以降にしか現れないという事実です。それはまた、列島西部には、各時代にそれぞれの新規文化が別れて移入されていたのに反して、関東以東は、弥生中期(紀元前2世紀から紀元後3世紀頃まで)に鏡と剣の両文化が同時に入ってきたということです。図1は、茨城県日立市で発掘された十王台式土器の一つ。因みに本題からは外れますが、十王台式土器の特徴は、その時代以前、つまり縄文の様式は、そのまま継承されて、その文様には縄文とは断絶していないし、その範囲は、後の那珂を中心として、久慈、多賀そして那珂川上流の那須にまで及んでいます。想像するに、この広範囲な地域には同じ文化、同じ言語であったと思うのです。
さて、この三段階の時期を、それぞれ、玉の時代、鏡の時代、剣の時代と大まかに三区分しましたが、玉の時代をさらに細かく3区分してみたいと思います。そして剣の時代も3区分できるのではと考えます。ただし、剣については、銅剣と鉄剣の違いがありますので、銅剣は、四番目の区分といたしましょう。それで、五番目が鉄①の時代、6番目が鉄②の時代というふうにみますといいと思います。
それについては、後漢の袁康(えんこう)・呉平(ごへい)著の歴史と小説の中間と言われる『越絶書』(主に春秋時代の呉や越、楚について記述されている)の捉え方が大いに参考になります。つまり神器は、それぞれ時代によって変遷して来たというのです。石の時代は玉、そして銅の時代、鉄の時代というふうに武器は変遷して行ったというのです。以下引用します。
「そもそも剣はただ鉄でつくったものだ。 そのような鉄にもともとこのような神威があり得るのだろうか、
これに対する答えとしては、
時代がそれぞれそうさせるのだ、といいます。 古より当時までを段階的に分け、
まず軒轅(けんえん)氏、神農(しんのう)氏、赫胥(かくしょ)氏の時代には石を用いて武器を作っており、宮室を作るにも折れた樹木を拾ってきて使っていました。
黄帝(こうてい)の時代には、玉(宝石)で武器を作り、伐採した樹木で宮室を造営していた。 玉も当時としては神物であった。
禹(う)王の時代には、銅を用いて武器を作っていた。
そして今のこの時代では、鉄で武器を作り、この威をもって大軍をも支配下におき、天下に服従しない者はいません。」
つまり石器の時代があり、銅器の時代があり、そして当時春秋時代以降は、鉄器の時代になっています。 それぞれが各々の時代において最先端の文明であり、それゆえに神器とされました。このなかの「武器を作った」という表現は、「権威」、 「威力」、「神威」とかいう意味です。
それではそれらの時代区分を我が国、日本列島に当て嵌めて見立てたいと思います。
第一期 玉
① 黒曜石
黒曜石は、火山が生み出したガラス様で3万年前から道具として、広域に産地からはるか離れた地方まで流通していました。
伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、伊万里腰岳産の黒曜石に至っては、北松浦半島の縄文人が隆起線文土器・大型石斧ともに朝鮮半島の東三洞貝塚で出土していたり、隠岐の黒曜石がウラジオストクまで運ばれています。私はこの黒曜石の利用の技術力が、縄文時代を切り開く要因のひとつになったと想定します。例えば千葉県東総地方の阿玉台遺跡の土器(縄文中期約4500年前)が長野県の諏訪で発見されると同時に諏訪から阿玉台に黒曜石が持ち込まれているのです。阿玉台式土器の中には阿玉台式土器産出の範囲内の鹿島では雲母でちりばめられいるふかぼり土器が見つかっています。
② 翡翠(硬翡翠、軟翡翠とは別成分)
日本における翡翠は約5,000年前の縄文中期に始まっています。初期は大珠(たいしゅ)という棒状のものがつくられていましたが、弥生・古墳時代にまで珍重され、祭祀・呪術に用いられ、後に装身具や勾玉などに変遷していきます。 邪馬台国の台与が中国に贈った二個の勾玉も翡翠ではないかとの説もあります。私としては、おそらく、漢帝国の楽琅郡、帯方郡の設置も珍財の入手が真の狙いではないかと考えてます。洛陽の宮中で日本産の翡翠の話題に余念のない宮塚使いの女官たちのひそひそばなしが聞こえそうです。
新潟県糸魚川の交易品として海路を用いて広く運ばれたとされ、特に列島側が鉄を入手し、高句麗が翡翠を手に入れた、という点を高く評価する識者もおられます。
しかし、なぜか奈良時代以降に翡翠は、突然衰退し、歴史から姿を消してしまいました。翡翠を愛好する文化はおよそ3500年間つづいた後、忽然と姿を隠してしまいます。 残念なことですが。「五徳の輝き」(仁・義・智・勇・潔)と孔子に言わしめた翡翠が、本邦由来のものであったかはわかりませんが。
③ 瑪瑙
出雲は、古代より勾玉の生産が盛んでした。松江市の玉造で採れる青瑪瑙を使った「出雲型勾玉」は、天皇の皇位の象徴として2600年以上受け継がれてきたと言われております。瑪瑙の勾玉が「三種の神器」の一つと伝えられ、出雲大社とも縁深いもの。玉造では現在でもその伝統が受け継がれています。とくに翡翠の青も瑪瑙の青も、魔除けの神威があると信じられて来たからですが、翡翠に比べて、その産出が全国的であったや仏教の法具としての意味も加わったことも無視できません。
一般に、「玉」と言えば、「瑪瑙の勾玉」が言われます。
古墳時代に島根県松江市玉造の花仙山(かせんざん)で堅くてキメの細かい青瑪瑙が採れたのです。
飛鳥時代になると、勾玉は神を祀るために使われました。奈良時代に編纂された「古事記」の中でも「勾玉」に纏わる記述が多くなり、それが皇位を象徴とする珍物となっていったのです。
アマテラスから三種の神器を授かったのが、瓊瓊杵尊ですが、瓊瓊杵尊の名前の「瓊」は、瑪瑙であったという識者もおられます。
第二期 銅鏡
中国では銅の時代が、殷や周の時代だとされています。概ね、錫や鉛との合金の青銅器で、日本で珍重されています内行花文鏡や三角縁神獣鏡は青銅鏡です。この青銅は、また、弥生時代の日本列島における弥生時代の開闢と深く関連しているというのが通念です。いわゆる、銅鐸、銅矛文化との関連です。この時代に稲作が列島に導入されたと見る人が多いいられます。
ここで大変、厄介な問題があります。よく三種の神器と言われる「鏡」ですが、どうやら、それが本来、銅であったか、鉄であったかはわからないということです。古事記の表記には、「高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」となっているからです。 その時の鏡は銅製ではなく鉄製であったという記述です。皆さんは、 どうお考えになられますか。
第三期 剣
鉄の使用は、概ね、北九州糸島郡二丈町から紀元前3~4世紀のもので、板状鉄斧です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示しています。日本では雄略朝あたりまで、南韓の珈耶に依存していたというのが定説ですが、その他に高句麗や中国の燕との繋がりを強調する方もおられます。
① 鉄剣前
弥生時代中期になると土地の豪族が所有していたとおぼしき鉄をはじめとした金属器がありますが、例えば鳥取県の弥生時代中期に拠点的な集落から鉄器の導入が始笠見(かさみ)で、鉄斧、刀子、鉙(かんな)、鎌、鋤先(すきさき)などがみられ、といった日常的に使用する農工具が主体となりますが、中には目を見張るような優品も含まれます。同県、湯梨浜町では、弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓(よすみとしゅつがたふんきゅうぼ)の埋葬施設から鉄剣と鉄刀が出土しています。いずれも弥生時代のものとしては国内最長クラスの優品です。鉄剣は、素環頭(そかんとう)と呼ばれる柄頭が飾る環状に飾られていたと思われます。この鉄剣と鉄刀は分析の結果、中国前漢時代に開発された製法により、大陸で鍛錬された可能性が高いのです。鉄器の普及が進んできたとはいえ、誰もが一般には普及しないで、特定の豪族に限られていたと考えられます。
② 鉄剣後
それが雄略朝以降、日本列島各地で砂鉄による多々良製法によって本格的な鉄生産の時代を迎え、鉄は、装飾品以上に庶民の生活財として農作業に主に利用され、一般化して行ったと思うのです。
石上神宮(奈良県天理市)の土中深くに祀られていたとされます鉄製の「十握剣」が、その現知によって、ヤマタノオロチのしっぽにあった「天叢雲剣」(熱田神宮)に当たり、刃こぼれを起こしたという記述が立証されたというエピソードも遺っております。
「尾を斬る時に至りて、剣の刃少しき欠けたり」という古事記の記述です。
鉄製の十握剣に、刃こぼれを生じさせたのですから、天叢雲剣は十握の剣よりもさぞや強くなければなりません。 そして、剣は武の象徴でもありますから、天叢雲剣は鉄剣であるとの有力視されておりますが、やはり銅剣だという説もあります。
さて、ヤマタノオロチの話しについては当時の多々良製鉄と深く関連しているとみる学説が強いように思われます。
ある学者は、山陽の多々良と山陰の多々良の違いについて、ヤマタノオロチの伝承は、山林のほとんどを不毛した結果、或は鉄鉱石だけを原料にしたりして、土砂崩れで洪水が常態化していた様を反映しているとみています。
方や、山陰では、方法で同じ多々良でも鉄穴流しのシステムを普及したり、砂鉄だけを原料にしたりして、川の氾濫を防備した製法により、また山林の再生産システムを構築したりした自然を保護したというのです。
ここ関東北部でも細かい地域単位で多々良の小規模な遺構がみられます。そこには当たり前のようにスサノオを祀る素鵞神社が点在しています。このようにスサノオの業績は、その後の日本列島に確固たるシステムとして定着していったのです。
最後に、列島の津々浦々まで、農機具としての鉄製品に触れてみますと、概ね、農業の中心が、稲作に移行して行ったという反映も窺えます。
弥生前期までは稲作の他に五穀生産も当然ながら重視されてきたのですが、古事記のオオゲツヒメの件(くだり)から、それ以降、稲作重視の時代に変わっていったのではないかということです。それがよいかどうかは議論の別れるところでですが。
ここで、話を大枠で纏めると、日本と日本人の美意識の中には、宝物としての石(玉)が精神に底流していたり、あるいは、権威と神秘の象徴としての銅、青銅器が、文明の曙の意識を依然として有しているということ。
そして剣に籠められた日本人的魂は日本人のもっている精神は長い時代と日本人の誰もが、多様性の中でも今も変わらず、1本の軸として尊重されるべきこと。今、元寇の意義も尚、依然として蘇らせることの必要性を突きつけられているのではないでしょうか。