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仏語、英語学習者。アイザック・アシモフのファン。ノース・ホワイトヘッド思想信奉。縄文志向、仏陀志向。

私の近所にある14500年前の縄文遺跡

2021-11-04 01:08:04 | 縄文精神の深さ
私の近所にある14500年前の縄文遺跡

 ここは東京の北東約100キロです。茨城県ひたちなか市中根後野(うしろの)。遺跡から発掘された埋葬文化財は、近くの市の埋葬文化財センターに展示されています。
 因みにこの埋蔵文化センターは、古墳時代最後期の「虎塚古墳群」 に隣接していて、それについても、「装飾古墳」ということで、脚光を浴びてはおりますが。
 ここの土器の発掘はアジアで最も古く、中国ではそれよりは後に、1万年前が最古だと聞いています。縄文土器と言っても、縄の模様はありませんが、縄文土器成立前の「無紋式」です。ここ日本列島では本州島がはるかに古く、 本州北部の青森県には、ここより1000年前の15500年前の青森県にあります。 後野の遺跡は、太平洋から約5キロ内陸にある標高30メートルの平坦な台地にあります。 ここの遺跡の特徴は、それが奇跡的に文明の起源の謎を与えたことに驚くべきことでした。
というのは、 石器による分類での時代区分では、新石器時代晩期と呼ばれるその時代は、最後の氷河期の終わり近くでした。 移行期間の状態を明確に示す発見がありました。 土器の近くに細石器の刃が同時に発見され、また同時にカモシカの鎖骨が並んで発掘されました。 では、ここから画期的な真実が見えました。
 ここからどのような歴史的変遷を知り得たか? カモシカの骨を縦につなぎ合わせてポット形式にして一種の水を入れられる機能の器として用いられたのです。
 それはまた、この移行期に、地球温暖化の影響でカモシカが絶滅した後、人々は困っていました、が人々は地面の粘土からそれに代わるものを発見したのです。
 今でも土器によって人類の定着化が成立したのか?或いは定着化のせいで土器が発明されたのかの論争は続いていますが。
 細石刃は、当時流通していた黒曜石の代替品として通常普及されていたものと考えられます。この黒曜石は後の鉄よりも鋭く、非常に有効な道具でした。
 当時の土着文明についての事例を挙げますと、日本の縄文遺跡より後、約1000年経ってアフリカのスーダン辺りの定着化の遺跡が発見されております。 当時、サハラ砂漠は森林地帯で緑豊かな土地でした。 それが今日のような砂漠地帯に変化し、後しばらくしてエジプトに輝かしい文明が開かれたことは誰でも知っていることです。ところが、そのエジプト文明はサハラ砂漠の拡大化で、そこから移り住んだということはあまり知られはいませんけど。






コナラの森のなかで

2021-11-03 16:05:10 | 縄文精神の深さ
 コナラの森のなかで
 今日は海浜公園のなかの沢田湧水地の近くのコナラの森を探索しました。木陰のお守りは太陽の直射を防いでくれて、肌にほどよい風が林道を通り抜けておりました。
 そこで、インスタ映えならぬ、「孫映え」(ひこばえ)という新しいことばを見つけました。それは命の継続の「萌芽」という言葉でも説明されていました。
 列島中央に移り住んだ我々のご先祖様はこのコナラの森のなか、自然のただ中で生存と喜びを醸し続け、環境との紐帯を確認して来たのでありましょう。
 その自然環境に囲まれて生きて行くことは、ある面、人間の五感を研ぎ澄まして行くことが極めて大事なことであり、さらには、もう少し先の能力、つまり、自然と感応しあうために
は何らかの「直感力」が、策められているのでありましょう。この直感力というのは、また、生きる自然への畏怖でもあり、何十億年ものゲノムに刻まれた知恵と記憶というある種の潜在意識との交歓作業でもあるのです。

伊 尹
















海浜公園 薔薇 ハマナス

2021-10-26 02:34:34 | 縄文精神の深さ
実はハマナスは太平洋側の南限は茨城県の鹿島です。
 ここ海浜公園はその南限よりも北に位置しますが、薔薇の原種とされる8原種のうち3原種が自生しているのです。

 以下、ハマナスについての「海浜公園」の看板広告を掲載いたします。

 「日本におけるバラの歴史は、約1、300年前(奈良時代713年)に書かれた「常陸国風土記」に登場するのが国内最古の記述とされています。常陸国は現在のここ茨城県に位置し、「茨城郡」のくだりにある“茨(うばら)”の記述は、茨城県の県名や県章の由来となっています。現在、全世界で3万品種を超えるバラの基をたどると、概ね8種の原種バラにたどり着きます。そのうちの3種(ノイバラRosa multiflora、テリハノイバラRosa luciae、ハマナスRosa rugosa)が日本からヨーロッパに渡り、多くのバラの樹形や耐候性を形づくる祖となりました。国営ひたち海浜公園は、この3種のバラが自生する貴重な環境にあります。」

 下北半島では、ハマナスの実を数珠繋ぎにしてお盆にお供えとして用いられていたとか。

 近世ヨーロッパでは、南米チリ原産と言われますローズヒップ(イヌバラ)が重宝されたのは、ある時代、オレンジの入荷が跡絶えた時から始まりました。それは主にビタミンCの有用性のためでした。
 中国では、周王朝の紀元前4世紀に栽培がはじまったという記録があります。
 その後徐々に中央アジアからトルコ、ギリシャを経てローマに至って今日の薔薇の種類の起源となったという話があります。
 また東洋医学では、ローズヒップの花(ハマナス)を「マイカイカ」といい血の巡りを高めることで血流を良くし、美肌効果や冷え対策にも良いとされています。
 
 ここ「海浜公園」近くの少し内陸部に「中根後野地区」に、14500年前の縄文早々紀の遺跡があります。おそらく関東地方では最古の文明遺跡です。

 そこから考えられる一つの仮説は、縄文文明が定住化のはじまりと考えられるなら、ハマナスがその文明の伝播と共に世界中に広まって行った可能性ももしやあるかも知れません。

yatcha john s. 「 ハマナス∶薔薇の起源 」

Photo ∶上からハマナス、ハマナスの実、ノイバラ、テリハノイバラ、以下2019年のfbのシェア。




















日本神観の特異性

2021-10-03 14:05:33 | 縄文精神の深さ
「ジョン・ナック 『禹』の深層」その二 日本人の神観を中心にして

 『禹』について語った私ジョン・ナックは、 Yin Yi の『宇宙の組成と日本人の組成』という短い文章に触発されて、さらに日本史の真なる基層を掘り出したいと思います。
 
 今回は「記紀」に見られる神観の特異性に触れてみたいと思います。
 まず、概観的な文化の基盤としては、「言語」があげられますが、研究成果がまだまだ明らかにはなっておりませんが、概ね「文法」、「敬語」の仕組みとしては、韓国・朝鮮語と重なり合うことが認められます。儒教導入以前において、チベットにも日本語にある敬語表現があることがわかっています。語彙においては朝鮮語とは極めて少数の類似なものもありそうですが、隔絶している感が相当あります。
 発音は、日本語の特徴的にはポリネシアにあるように必ず「アイウエオ」の母音と、子音と母音の結合が明確にある「音」(例えばカキクケコ)と確実になります。「ン」は漢字由来が起源となります。
 要するに父系文化圏と母系文化圏の混合文化と想定できるかも知れません。

 古事記の「神観系譜」は面白いことに、例えば、イザナギ・イザナミの物語は、「聖書」のアダムとエバという男女の起源が類似であったり、他方では「ギリシャ神話」に出てくる「オルフェウスと妻エウリディケ」の物語にあるようにエウリディケはある日、蛇にかまれ死んでしまい、オルフェウスは妻を取り戻しに冥界に行ったので、そういう点ギリシャ神話に似ている面もあります。ただ聖書で言うアダムとエバは被造物で古事記ではイザナギ・イザナミは二神であった訳です。
 さて、古事記の神々生成の順序を時間系列に言うと、初めに造化三神、「アメノミナカヌシ」、「タカミムスビ」、「カムムスビ」というようにキリスト教でいう三位一体のシステムです。それから十二神が出現。これは聖書で言うと十二部族や、十二弟子に比例できます。その後に、イザナギ・イザナミの男女二神が出現。この二神から様々な神々(俗にいう八百万の神)と日本列島を生む(長くなりますので極めてまとめる)。その神々の中からさらに主要な三神(「アマテラスオオミカミ」・「スサノヲ」・「ツクヨミ」)が生成されるのです。
 そこでざっとまとめると、いわば、三神信仰、二神信仰(男女・陰陽)、主神信仰(天照大神、唯一神とはちょっと違うかな?)、多神教(アミニズム、精霊信仰)と言うように多重しているシステムなのです。列島に入って来たそのままの状態が今でも継続していて、それぞれ息ずいて、消されないで同等の価値として認められているという平等思想が特徴的と言えます。要するに悪く言うと相当面倒くさい文化ですが、よく言えば、どんな引き出しからもその時必要なもの(物)、こと(事)を引き出せる便利で自由自在な多様性、多角的見方が出来る柔軟性も持ち合わせる文化、思想と言えます。
 相当に尊重されてしかるべきで、将来、どんな過酷な変化、或いはカタストロフが起きようとも乗り越えられる力の思想と成り得るのです。
 いわば、四種類のハプロタイプの混合のおかげで日本人の可能性としては、どんな状況にも適応出来、機能しうると思うのです。先祖に感謝。ネアンデルタール人にも。

https://youtu.be/YtgMoq7VQtc

ジョン・ナック 「歴史思想書」より