ある日本文化論
我々は、どう歴史を俯瞰し、どう日常を生きていくか?
マルクスの労働剰余価値説、アダム・スミスの「見えざる手」理論を遥かに越えて真実らしき理論がピケティの「労働収益より投資収益の方が遥かに上回る」、という最近の常識でしたが、最近またまた時代は変遷し、それを上回る生き方が蔓延して来ました。
それは ITの普及によって初期資本のいらない起業手法の出現、シェア・エコノミー、意味創造的生活観・労働観などであって、今までの金銭的価値に重きを置く生活観とは、一線を画す新しい生き方が現代社会のあらゆる面で現出あります。
ところがこういうシェア・エコノミーをひとつとってみても、少し考えてみれば、五十年前まで日本人の日常でも使われていた生活様式でした。もう一度その時代の価値様式を思い出せばいいわけですね。それではどう戻すか、です。
もう少し説明すると、我々がこの「意味」の創造的生き方をしていくにはどうしたらよいかですが、それは端的にいえば苦しみに直面した時に用いられる有効な趣向を考えてみるとわかりやすいと思います。
日本人には本来、思考土壌としての仏教の教えやもっとそれ以前から培ってきた縄文人的生活観ともいうべきもの、仏教的な面では、「原因・結果」的思考の利用、苦しみの原因から考えてみる、その苦しみの原因に直面してみる、という考え方。縄文的と言えば、それ以前の新石器時代人の日本祖人の生活観である、自然に包まれる日常感、自然との一体感、日本列島の環境・気候(長い期間には大幅な変化があった)、小さな集団内の親密化。その自然との調和を重んじる故の芸術文化の深さ。
そしてそこから脱するのに「中庸」(いい塩梅)を日々考え続けていく姿勢ということでしょうか。西欧的に「苦」を敵としてただ駆除すればいいというのではなく、あるいは一時の慰めに逃げたり、安直に癒し効果を狙ったりするのではなく。
曲芸の「綱渡り」は失敗を繰り返し、極限のバランス感覚が身に付けば、相当の醍醐味が体全体に染み渡るらしいです。手先の器用さ、職人気質など。
個人の生活ばかりでなく、日本の活路もここにみいだされるべきです。
本日はこんなことを考えつつ、海浜公園の古民家を訪れました。
https://youtu.be/BKf1RKsoyIw
yatcha john s. 「おおむね仏教によって少しのバイアスのかかった縄文精神」
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