大分発のブログ

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三科の法門

2021-03-02 22:49:00 | 哲学

「六祖壇経」は禅の六祖慧能がその高弟に禅の奥義を解き明かした説法集です。その中から二項対立に関係する部分を選びました。


 三科の法門

「君たち十人の者よ、以前から君たちは普通の人とは異なっていた。 私の死後、それぞれの地方の指導者になりなさい。 私はいま君たちが教えを説くとき宗旨のかなめを失わないようにしてあげよう。  

 まず『三科の法門』を取り上げ、『三十六対』を運用して、 その相対をなすものを出入させて、相対性を除いてゆかねばならぬ。 どんな教えを説くにも、自己の本性の座を離れてはならぬ。 もし誰かが君たちに教えを求めたなら、 言葉のすべてを相対的に構成し、すべて対の方法を用いよ。 出てくるものと去りゆくものとが互いに条件となって、 けっきょく一双の相対性がすっかり取り除かれ、(それを設定する)場所もまったくなくなる。

『三科の法門』というのは、陰と界と入である。 陰とは五陰であって、色、受、想、行、識のことである。 入とは十二入であって、外の六塵は、色、声、香、味、触、法であり、 内の六門は、眼、耳、鼻、舌、身、意のことである。 界とは十八界のことであって、六塵と六門と六識のことである。 自己の本性はちゃんと万物の事象をも道理をも包みこんでいることを含蔵識という。

 もし分別を起こすと、たちまち転識というものが働き、 意識が展開されて六識が生れ、六門から出て、六塵を見るのである。 六識・六門・六塵の三乗から成る十八界は、自己の本性から働きを起こすのである。

  自己の本性がゆがんでいると、ゆがんだ十八界を作ることになり、 自己の本性が正しいと、正しい十八界を作ることになる。 含蔵識が悪を含んで働けば、衆生の働きであり、善を含んで働けば、仏の働きである。 その働きは何から出るかといえば、自己の本性から出てくるのである。  

 対にする方法とは、外界の対象について心のない五対がある。 天は地と対し、日は月と対し、明は暗と対し、陰は陽と対し、水は火と対している。 これが五対である。

 次に万物のあり方をいうことばに十二対がある。 語は法と対し、有は無と対し、有色は無色と対し、有相は無相と対し、 有漏は無漏と対し、色は空と対し、動は静と対し、清は濁と対し、 凡は聖と対し、僧は俗と対し、老は少と対し、大は小と対している。 これが十二対である。

 次に自己の本性が働きを起こす十九対がある。 長は短と対し、邪は正と対し、痴は慧と対し、愚は智と対し、乱は定と対し、 慈は毒と対し、戒は非と対し、直は曲と対し、実は虚と対し、 険は平と対し、煩悩は菩提と対し、常は無常と対し、悲は喜と対し、 喜は瞋と対し、捨は慳と対し、進は退と対し、生は滅と対し、 法身は色身と対し、化身は報身と対している。 これが十九対である。」

 師は言った、 「以上が三十六対の方法である。もしこれらを運用できたならば、 すべての経典の教えの全部を通貫することができ、 これらの出し入れによって相対の立場を脱却するのは、自己の本性の働きである。 人と対話するとき、外的には形の上に立ちながら形に執われないし、 内的には空の立場にありながら空に執われない。 もしすっかり形に執われれば、ゆがんだ考えをつのらせることになり、 もしすっかり空に執われれば、無知をつのらせることになって、 さては経典をそしって、『文字は不用だ』というまでに至る。 文字は不用なら、人は言葉を使ってはならぬことになる。 なぜならばこの言葉こそは、文字のすがたなのであるから。 また『文字を立てぬ』とまでいっておるが、 その〈不立〉ということばがやはり文字であるのだ。 (そういう偏見のやからは)人が説くのを見ると、すぐさまその大をそしって、 『彼は文字に執われている』といいたてる。 君たちはよく心得ておかねばならぬ、自分で本心を見失うのはまだしも、 仏の経典をまでそしるに至っていることを。

  経典をそしってはならぬ。 そのための罪は数えきれぬものとなる。 外面的な形に執われながら、作られた立場で真理を探し求め、 あるいは広大な道場をしつらえて、有無ということの過失を説きたてる。 このような大は無限の時を重ねても、自己の本性を見ることはできない。 教えに従って修行することをすすめないで、ただ人の説法を聞くという修行なのだから。 また何ものをも思わないで、菩提の本性を妨げてはならない。 もし話を聞くだけで修行しないなら、かえって人によこしまな思いを起こさせる。 ただ教えに従って修行し、執着を離れた説法をせよ。 もし君たちが悟って、これ(三十六対法)によって説き、 これによって運用し、これによって修行し、これによって作為するなら、 宗旨の本すじを失わないであろう。

  もし人が君の意見を尋ねるとして、有を問われたら無で答え、 無を問われたら有で答え、凡を聞かれたら聖で答え、聖を問われたら凡で答えよ。 対立した一双の概念が相互に条件となって、中正の道理の意味が出てくるのだ。 君は一つ問われたら、その一つだけに答えるのだ。 その他の問いにもすべてそのようにするならば、道理をはずすことにならないであろう。

 もし人が『何を暗と呼ぶのか』と尋ねたら、こう答えよ、 『明が因であり、暗は縁である。明が沈むと暗である』と。 このように明でもって暗をあらわし、暗でもって明をあらわし、 もち出すものととり去るものとが相互に条件となって、 中正の道理の意味が完成するのである。 その他の質問にもすべてこのようにするのだ。」

 のちに師は十人の僧に法を伝え、 同時に『壇経』をつぎつぎに教え授けていって、 宗旨を見失わぬようにと指示された、 「君たちはこれで私の法を得たからには、この『壇経』を代々世に広めてゆくのだ。 後世の人はこの『壇経』に出会うことができたなら、 目のあたりに私の教えを受けるのと同じことだ。 もし『壇経』を読めば、きっと自己の本性を悟ることができよう。」


※含蔵識は阿頼耶識のこと。



弁証法と不二法門

2021-03-02 19:54:00 | 哲学
へーゲルの弁証法と仏教の不二法門を比べてみました。
まずへーゲルの弁証法には終わりがないことです。いつまで経っても正反合のくり返しです。


この図は面白かった。一番下が妥協になってますね。


と無で考えるとへーゲルの弁証法では正反合の合は「成」、生成になっています。そしてこれから先延々と続き最後は絶対精神に至ります。
   
    ↑    
  有←→無

仏教は上に行かず下にもぐります。外へと向かわず内へと入ります。分かれる以前、いわゆる「未分化の場所」へと降りて行きます。

   有←→無
     ↓
     ○○

 この○○は仏教のことだから「空」だろうと長い間思っていましたが、どうやら「分別」のようです。分けることによって有と無があらわれるとの理屈です。

ヒントは「六祖壇経」にありました。

『もし分別を起こすと、たちまち転識というものが働き、 意識が展開されて六識が生れ、六門から出て、六塵を見るのである。』

これは無明→行→識→名色という「縁起の法」の解き明かしだと思いました。
無明とは分けること、行とは働き、つまり分けるという働きによって意識がつぎつぎに展開されるということです。名色以降は分別意識の構築した建造物、言葉によって組み立てられた概念の世界、ある種の世界観というわけです。

 •••あとは現在思索中





不二法門•中論

2021-03-02 14:42:00 | 哲学
 概念の相対性あるいはその関係性は古くから世界中で広く考察されています。それに関する記事や解説をいくつか選んでみました。 

仏教から二つ。

 
   維摩

不二法門

 維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。
   (維摩経 wiki)

不二法門を原典からもう少し詳しく引用します。

喜見菩薩いわく、
 
色と色空とを二となす。色即ち是空なり。色滅して空なるに非ず、色は性として自ずから空なり。かくのごとく受・想・行・識と識の空を二となす。
 識即ち是れ空なり、識の滅して空になるには非ず。識は性として自ずから空なり。その中に於いて通達すれば、是れを不二法門に入ると為す。
    「入不二法門」


  
  龍樹

中論

 この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質」と「実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。

 このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。
        中観派wiki

ユダヤ教から一つ。
 

対の考察 

善が悪と相対し、命が死と相対しているように、罪人は信仰深い人と相対している。  

いと高き方が造られたすべてのものに目を注げ。
一つは他のものに対しそれぞれ対になっている。

そして、このような仕方で、いつも二つずつ、一方を他方に対立させ考察せよ。
     シラ書

道教からも一つ。

   

有無相生(うむそうせい)

有があってはじめて無があり、無があってはじめて有があるという、有と無の相対的な関係。また、世の中のすべての事柄は相対的な関係にあるということ。「相生」は、互いに生じあうこと。
 
有無相生 音声相和
高下相傾 前後相随
長短相形

有無うむあいしょう
長短ちょうたんあいかたちし、
高下こうげあいかたむき、
音声おんせいあいし、
前後ぜんごあいしたがう。
        老子二章










対立するものの相互関係

2021-03-02 11:15:00 | 哲学
 弁証法におけるテーゼとアンチテーゼのような関係を二項対立といいます。

  
 以下のように説明されています。

✧弁証法

 物の考え方の一つの型。形式論理学が、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。

 図式的に表せば、定立(「正」「自」とも言う)Aに対しその(自己)否定たる反立(「反」「アンチテーゼ」とも言う)非Aが起こり、この否定・矛盾を通して更に高い立場たる総合(「合」「ジンテーゼ」とも言う)に移る。この総合作用を「アウフヘーベン」(「止揚」「揚棄」と訳す)と言う。

✧対立するものの相互関係

 常識的には、区別されたものは相互に無関係であると考えられています。たとえば、わたしたちは人間であり、私の周囲には空気や水があり、動物やさまざな物がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっています。

 哲学の目的はこれに反して、このような無関係を排してさまざまな事柄の必然性を認識することにあり、他者をそれ固有の他者に対立するものとみることにあります。

 たとえば無機物を単に有機物とは別なものとみるべきではなく、有機物に必然的な他者と見なければならないのです。両者は本質的な相互関係のうちにあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ存在するのです。

 同じように自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しないのです。
      ヘーゲル 小論理学§119

 主観と客観の同一性が主題になっていますが、ヘーゲルの「小論理学」は仏教で説かれる縁起や不二法門に近いものがあります。その原理自体は簡単なものであるとヘーゲルは言います。

抽象的同一と具体的同一

 真正の宗教あるいは知的直観は、ある人にはとても理解し難いものと、またある人には正真正銘の真理と、また別な人には迷信に類するものと見なされています。

 しかし真正の宗教の主張が神秘的に思えるのは知性に対してだけなのです。しかもその理由は、実に単純なことです。知性の原理が「抽象的な同一」であるのに対し、真正の宗教、または知的直観の原理は「具体的な同一」であること、これだけのことです。
    ヘーゲル小論理学§82の意訳

  
ヘーゲル(1770年 - 1831年)は、ドイツの哲学者。


 抽象とは次のようなことです。

✧抽象(ちゅうしょう)

①いくつかの事物に共通なものを抜き出して、それを一般化して考えるさま。他との共通点に着目し、一般的な観念へとまとめ上げること。

②頭の中だけで考えていて、具体性に欠けるさま。
出典:デジタル大辞泉(小学館)

✧抽象化

 抽象化とは、思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法である。反対に、ある要素を特に抜き出して、これを切り捨てる意味もあり、この用法については捨象という。従って、抽象と捨象は盾の両面といえる。 ウィキペディア


抽象化の例

「ある」と「ない」の両者から「ない」を考えてもならない、と排除したパルメニデスの不生不滅の存在、心と身体から身体をその思考から排除したデカルトのわれ在り。どちらも典型的な抽象化の手法を使っています。


    ✧✧

傷つき潰えてなお混沌に陥ることなく、その世界は乱調の中に調和を秘める。

ばらばらな事物に秩序を見出だすとき、万物はたがいに異なりしかも同一なり。
 アレクサンダー・ポープ「ウインザーの森」より


アレキサンダー・ポープ(1688年- 1744年)はイギリスの詩人。