✧真理の示しかた
「真理の示しかた」を教えます。それにはまず両辺を離れることを教えます。すべての物は自性を離れないことを説きます。
質問する人がいたら、ことごとく対の言葉を出して、みな対にします。互いに原因になっていることを見て、最後に三つ(両辺と真ん中)を除いてしまえば、何も残りません」。
意味を質問する人がいたら、有るのかという問には無いと答え、無いのかという問いには有ると答え、凡という問いには聖で答え、聖という問いには凡と答えなさい。
正反対の二つの対で中道を理解させます。一つの問で一対です。そうすれば真理を失うことはありません。
「暗とは何か」と問う人がいたら、「明が因で暗は縁」と答えなさい。明が消えれば暗が現れ、暗が消えれば明が現れます。互いに行き来して中道になります。他の問もみなこのようにしなさい。
このように転相を教え、要点を失わないようにしなさい。これを説くことで、これを使うことで、これを行なうことで、ブッダの教えの基本を失うことはありません。
私たちの心には自然に「ほとけ」があり、自分の中の「ほとけ」は本当の「ほとけ」です。自分に仏心が無ければ、どこに「ほとけ」を求められるでしょう。みなさんの心は「ほとけ」です。これ以上深く疑ってはいけません。
外に作れる物は何もありません。すべてものは本心から生じます。古い経にもあります、『心が生じると、いろんな物が現れる。心が滅すと、いろんな物も滅す』と。
六祖壇経
✧新しい世界
日月はいつも天上に輝いている。しかし厚い雲に包まれると天上は明るくとも地上は暗やみとなる。
人々の般若の知恵も
これと同じようである。
人々の本性の清らかなことはまるで青空のようである。その知は月のようであり、その恵は太陽のようである。
知恵はいつも輝いているのだが、外に向いてそこにとらわれると、妄念の浮き雲が現れて本性の輝きが覆われてしまう。
やがて妄念が幾重にも厚く重なり、煩悩の根が深くくい込む。それは厚い暗雲が太陽を覆い隠すようなものである。
風が吹き払ってくれないと太陽は姿をあらわすことができない。そのときは友人をたずね妄念を払ってもらわねばならない。
間違った考えは正しい考えで払い、無自覚は自覚で、愚かさは知恵で、悪は善で、迷いは悟りで、払いのけるのである。
このようにして知恵の風が吹きつけ妄念の雲や霧を追い払ってしまうと、ふたたび世界は新しくその姿を現す。
「六祖壇経」般若第二
日月はいつも天上に輝いている。しかし厚い雲に包まれると天上は明るくとも地上は暗やみとなる。
人々の般若の知恵も
これと同じようである。
人々の本性の清らかなことはまるで青空のようである。その知は月のようであり、その恵は太陽のようである。
知恵はいつも輝いているのだが、外に向いてそこにとらわれると、妄念の浮き雲が現れて本性の輝きが覆われてしまう。
やがて妄念が幾重にも厚く重なり、煩悩の根が深くくい込む。それは厚い暗雲が太陽を覆い隠すようなものである。
風が吹き払ってくれないと太陽は姿をあらわすことができない。そのときは友人をたずね妄念を払ってもらわねばならない。
間違った考えは正しい考えで払い、無自覚は自覚で、愚かさは知恵で、悪は善で、迷いは悟りで、払いのけるのである。
このようにして知恵の風が吹きつけ妄念の雲や霧を追い払ってしまうと、ふたたび世界は新しくその姿を現す。
「六祖壇経」般若第二
国宝・一二天屏風(月天)鎌倉時代 京都・東寺
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖・慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖・慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。
前の記事「真理の示しかた」の実例です。前の記事をよく読めば禅問答の狙いがどこにあるのかがわかると思います。禅は思弁的な弁証法ではなく実践的な弁証法です。相手の考えている「正」に「反」をぶっつけます。そこから生じる「合」は内面的直覚です。
✧禅問答
弟子「中道とはどういう意味でしょうか。」
師「両辺のことだ。」
弟子「中道をおたずねしていますのに、どうして両辺だとお答えになるのですか。」
師「両辺は中があってこそ成り立ち、中は両辺があってこそ生じる。もともと辺がなければ中はあり得ないのだ。だから中と辺は相よって成り立つものだとわかる。そういうあり方はすべて無常である。色・受・想・行・識も同じである。」
頓悟要門38
弟子が礼拝してたずねた。「四角と円とが出来上がらないときは、どうですか。」
師は答えて言われた。「四角くもなく円くもない。」
弟子「そのようなときは、どうですか。」
師「四角かな、円かな。」
趙州録中 275
問い「一輪の月が空にかかっています。あの月の光はどこから生じるのでしょうか。
師「月はどこから生じるのか。」
趙州録上 74
問い「聖とは何ですか。」
師「凡ではない。」
問「凡とは何ですか。」
師「聖ではない。」
問「凡でも聖でもないときは、どうですか。」
弟子「中道とはどういう意味でしょうか。」
師「両辺のことだ。」
弟子「中道をおたずねしていますのに、どうして両辺だとお答えになるのですか。」
師「両辺は中があってこそ成り立ち、中は両辺があってこそ生じる。もともと辺がなければ中はあり得ないのだ。だから中と辺は相よって成り立つものだとわかる。そういうあり方はすべて無常である。色・受・想・行・識も同じである。」
頓悟要門38
弟子が礼拝してたずねた。「四角と円とが出来上がらないときは、どうですか。」
師は答えて言われた。「四角くもなく円くもない。」
弟子「そのようなときは、どうですか。」
師「四角かな、円かな。」
趙州録中 275
問い「一輪の月が空にかかっています。あの月の光はどこから生じるのでしょうか。
師「月はどこから生じるのか。」
趙州録上 74
問い「聖とは何ですか。」
師「凡ではない。」
問「凡とは何ですか。」
師「聖ではない。」
問「凡でも聖でもないときは、どうですか。」
師「おお、見事な禅坊さまだ。」 趙州録中 369
師は説法のおりにいった。
「朝になるがまだ暗い、暗いが明るくなろうとするところだ。あんたらは、どっちにおる。」
ひとりの弟子が答えた。「両方におりません。」
師「それなら中間におるのだな。」
弟子「もし中間にいたら、両方にいることになります。」
師「この修業者はこんな言葉を吐くが、3句の内から出られぬままだ。かりに出られたとしても、やはり3句の内にいる。あんたはどうだ。」
弟子「わたしは3句を使いこなすことができます。」
師「それだ!なぜそれを早く言わんか。」
趙州録上 111
弟子が礼拝してたずねた。「犬にも仏性が有るでしょうか?」
和尚は答えた。「無いよ。」
無門関第一則
ある日弟子が礼拝してたずねた。
問い「どのようにしたら他人の言葉に迷わされないでいられるでしょうか。」
師は片方の足を垂れた。
弟子はすぐに靴をさし出した。
師は足をひっこめた。
弟子「・・・」
趙州録上